本論文は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》(1823年完成)の受容史における言説、とくに1850年代~70年代におけるドイツ語圏の音楽批評家たちの議論を詳細に検討することによって、彼らがこのミサ曲をどのように解釈し、どのように歴史的に位置づけようとしたのかということを明らかにするものである。
取り上げる批評家は、プロテスタントの論者であるフランツ・ブレンデル、リヒャルト・ヴァーグナー、アドルフ・ベルンハルト・マルクス、ルートヴィヒ・ノール、そしてカトリックの論者であるフェルディナント・ペーター・ラウレンツィン、アウグスト・ヴィルヘルム・アンブロース、アルベルト・ゲレオン・シュタイン、フランツ・クサーヴァー・ヴィットの八人である。異なる宗派や立場を持つ彼らは、偉大な「芸術」家とされたベートーヴェンの「宗教」性の表出としての《ミサ・ソレムニス》が、どのように「教会」と関わっているのかを考察していた。彼らの音楽論は、このミサ曲の批評を通して、「芸術」と「宗教」、「芸術」と「教会」、そして「宗教」と「教会」という入り組んだ関係がどのように考えられていたのかを示すものであり、また、制度的・文化的なものの「脱キリスト教化」「脱教会化」(深澤英隆)が進み、キリスト教の自明性が問われていた19世紀における近代的な「宗教」概念の形成に関わる重要なテキストでもある。
本論文では、第一部(第一~三章)にプロテスタントの論者たちの《ミサ・ソレムニス》論を取り上げる。彼らは、このミサ曲が教会の音楽として適切かどうか、教会の典礼に使えるかどうかという問題をもはや取り上げることなく、このミサ曲がそれ自体で宗教音楽としてどのような意義を持っているのか、作曲家自身の宗教的な態度はどのようなものかを議論していた。第一章で取り上げるブレンデルは、《ミサ・ソレムニス》のなかに「神的なもの」と「人間的なもの」との「和解」の実現を見出しながら、このミサ曲がカトリックの典礼に奉仕するだけの音楽ではなく、音楽そのものが宗教性を発揮するものと考えていた。同じく第一章で取り上げるヴァーグナーは、このミサ曲を「ベートーヴェンの精神に満ちあふれた純然たる交響作品」と呼び、この作曲家がミサ・テキストを声=「人間楽器」によって歌うための単なる「素材」として使用していたとしながら、このミサ曲を従来のカトリックの教会音楽とは異なる、声楽と器楽が一体となった総合芸術として捉えていた。
第二章で取り上げるマルクスは、ベートーヴェンの器楽を「神秘主義」的なものと呼んでいたが、とくに《ミサ・ソレムニス》においては、従来のミサ曲では最も重視されるはずの人間の声が顧みられず、「神秘の声」としての器楽が優位になっているとした。彼は、言葉と音が一体となることで実現する、「ありのままの人間」を現前させる「音楽ドラマ」を理想的な芸術であるとしていたが、器楽優位のこのミサ曲ではそのような芸術の完成が実現し得なかったと考えていたのである。また、第三章で取り上げるノールもこのミサ曲に否定的な評価を与えていた。彼はこのミサ曲を「見せかけのミサ曲」としていたが、それは、この作曲家の超越的な精神傾向が、具体的で内在的な美の実現には至ることのないものであったと考えていたからである。彼はこの作曲家に「フモリスト」の性質を見出していたが、まさにこの性質こそ超越的な精神傾向を生み出したものであり、その精神はこのミサ曲のなかで、作曲家を現実的なもののなかに留まらせることなく超越へと向かわせ、人類普遍の矛盾の苦しみを演じさせることになったのである。
以上のプロテスタントの四人は、《ミサ・ソレムニス》をカトリック教会のような既成宗教の文脈から切り離し、それを“教会音楽”ではなく“芸術音楽”として捉えていた。彼らにとってこのミサ曲に対する評価は、芸術の持つ自律的で「現世内的」(マックス・ヴェーバー)な救済機能を持ち得ているかどうかにかかっていたのである。
第二部(第四~七章)では、カトリックの論者たちの《ミサ・ソレムニス》論を取り上げる。彼らは、プロテスタントの論者たちの議論に依拠しながらも、教会音楽のカトリック性をこのミサ曲のなかにどのように規定していくかという彼ら独自の問題に向き合うことになった。第四章で取り上げるラウレンツィンは、ヴァーグナーの「ドラマ」思想に基づきながら、《ミサ・ソレムニス》に表れるキリスト教の“ドラマ”を説明しようとしていた。彼にとって、このミサ曲における「カトリシズム」の実現は、ベートーヴェン独自の器楽(「感情」を表出する「音=言語」)によって導かれるものであり、プロテスタントの論者たちの考えとは反対に、その楽曲は決してカトリック教会の教義から逸脱するものではないと考えていたのである。第五章で取り上げるアンブロースもまた、《ミサ・ソレムニス》のカトリック性を重視していた。彼にとってこのミサ曲の持つ意義とは、交響曲に比すべき巨大で力強い芸術表現を備えながらも、伝統的なカトリックの形式のなかでそれを豊かに発揮したところ、つまり芸術が発展した時代に即した形での「真の教会様式」であるというところにあった。彼は同作曲家の《第九交響曲》とこのミサ曲を弁証法的に結びつける独自の“弁証学”によって、新時代の教会音楽であるこのミサ曲が持つカトリック音楽としての正当性を確かなものにしようとしていたのである。
第六章で取り上げる教会音楽家・司祭であったシュタインは、オペラや器楽など世俗的なものの影響を多分に受けているハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのミサ曲をどのように捉えるべきかを思案していた。彼は教会の典礼に適う「教会音楽」と、その他の「宗教音楽」とを区分けすることによって、三巨匠のミサ曲を「教会音楽」から切り離し、新しい時代の宗教性を表現する音楽として捉えようとしていた。彼は、それらの楽曲が持つ世俗的な精神性をただ否定するのではなく、それらを正確に評価することによって、却って典礼に適した「教会音楽」のあり方を模索していたと言える。第七章で取り上げる「総ドイツ・セシリア協会」の創立者であり、教会音楽家・司祭であったヴィットもまた、ウィーン古典派三巨匠のミサ曲をどのように評価すべきかを検討していた。彼はハイドンとモーツァルトのミサ曲のようなオペラや民謡などの通俗的な要素を含む音楽を「非教会的」とし、一方で単純な形式のミサ曲が持つ「崇高なもの」を「教会的」なものの重要な要素としていた。しかし彼は、ベートーヴェンのミサ曲に対しては、その「非教会的」な主観性の強さを指摘しつつも、そこに宗教的な崇高さも見出すといったねじれた評価を下していた。彼は《ミサ・ソレムニス》を「未来のミサ曲」と呼び、「一つの普遍的教会へとまとめられた人類による賛歌」であるとしていた。彼にとってこのミサ曲は、価値づけに困難さを伴うものでありながら、その崇高さゆえに、これからの(「未来」の)教会音楽が表現すべきカトリック(普遍)のあり方を示すものとして考えられていたのである。
以上のように、本論文では、プロテスタントによる論考とカトリックによる論考をあえて区分けし、それぞれの宗派の議論の特徴を検討した。もっともそれは、《ミサ・ソレムニス》のなかに自律的な芸術音楽を見出す“進歩的”なプロテスタントと、他律的な教会音楽として適さないこのミサ曲に戸惑う“後進的”なカトリック、といった対立構造を描き出すためではなく、そのような構造には収まらないようなカトリックの批評家たちの議論を浮き彫りにするためである。このミサ曲に対する19世紀の言説については、近代における芸術音楽の自律性を前提とした歴史観のなかで、プロテスタントの論者の議論が主に研究されてきたという面があり、このミサ曲を教会や教義の文脈のなかで考えるカトリックの論者の論考は、音楽研究の分野ではほとんど取り上げられてこなかった。しかし、宗教学における「世俗化論」の批判的再考のなかで、近年、19世紀のカトリック教会の“後進的”とされてきたイメージは再検討されており、カトリックによる音楽論についてもその意義が再び問い直される必要がある。カトリックの論者たちにとってこのミサ曲は、単に自律的な芸術音楽か、それとも他律的な教会音楽かということを問うものではなく、そもそも「芸術」と「宗教」それ自体の関係を問うような、より根本的な問題を突きつける「問題作」であった。このミサ曲は、豊かな芸術性と宗教性を備えた音楽であるがゆえに、新しい時代の教会音楽としての可能性を持ったものだったのであり、彼らは、芸術音楽と教会音楽が、対立ではなくどのように調和していくべきなのかを考えていた。
とりわけラウレンツィンやヴィットの《ミサ・ソレムニス》論には、ヴァーグナーの考えるような儀礼的な救済機能を持つ「芸術宗教」の考え方が見受けられる。もっとも、彼らにとって「芸術」は、ただそれだけで何らかの「宗教」になるのではなかった。確かに「芸術」の持っている力は「宗教」を体現すべきものであったが、それはあくまでカトリックの儀礼の体現として捉えられていた。彼らは、ベートーヴェンのような精神性の豊かな芸術家によって、新たなカトリックの儀礼あるいは「未来のミサ曲」がどのように生み出されたのかということを考察していたのである。
カトリックの批評家たちの《ミサ・ソレムニス》論を詳しく検討することは、近代の芸術家の表現としての音楽と教会の典礼とを単純に対立するものとして考えがちであったこれまでの音楽史研究に新たな視点を提供するものとなる。