本研究では道徳的懐疑論を支持する論証を与え、その帰結について論じる。道徳懐疑論によれば、何が道徳的に正しいかを我々は知ることができない。我々はこれを、社会認識論および形式認識論の道具立てによって厳格に示すことを目指した。

 本研究の主部は第1章「知識の実践性、可謬主義、道徳認識論、外界懐疑論」、第2章「道徳的意見の一致の認識論的な非重要性」、第3章「道徳的意見の不一致の認識論的な重要性」であり、ここでは道徳懐疑論の論証が目指されている。第4章「構成主義的真理観の問題」は、道徳懐疑論の帰結を真理論において追跡するとともに、認識的規範に関して第3章の補足的な議論を行っている。第5章「道徳についての選択的虚構主義」では道徳懐疑論の実践的帰結を論じている。序論「道徳主義の非自明性について」では道徳の規範性について予備的な分析を与えている。各章の詳細は以下の通りである。

 序論「道徳主義の非自明性について」では、「道徳的に正しい行為をなすべきであり、道徳的に邪な行為をなすべきではない」という、道徳主義を分析している。まずは、この道徳主義が何らトリヴィアルな主張ではないことを簡単に確認し、次に、理由概念に基づいた規範性分析を用いて、道徳主義を、共通要因道徳主義、弱道徳権威主義、強権威主義の3つに分類している。道徳権威主義の分析は、政治哲学における権威の分析を道徳の権威の分析に適用したものである。本章の結論部では、道徳主義の想定のもとでは、道徳懐疑論からは「何をなすべきかを知ることはできない」という規範懐疑論が導かれ、それゆえ、道徳懐疑論が示された暁には、規範懐疑論か道徳主義の放棄かのいずれかの選択が迫られるということを確認している。序論補遺では、理由を類的理由、種的理由、個体的理由の3つに分類し、個体的理由の存在を認めるのであれば、規範懐疑論はトリヴィアルに偽とは言えない、という議論を提示している。

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 第1章から第3章は、社会認識論・形式認識論を用いて道徳懐疑論の論証を目指す、本研究の主要部である。まず、第1章「知識の実践性、可謬主義、道徳認識論、外界懐疑論」では、知識に自らの行為を基づけることこそが合理的であるという、「知識の実践性」が、いかなる認識論的帰結をもたらすかを検討している。第1節では、知識の実践性に基づいて、「知識は確実性を要求するわけではない」とする可謬主義(fallibilism)を支持する議論を導入した。可謬主義が正しいとすれば、道徳的命題を我々が知るとしても、確実性が要求されるわけではない。それゆえ、可謬主義を認めることは、道徳主義者への譲歩でもある。だが、知識の実践性からは、ある信念pが知識となるために越えなければならない認識的確率P(p)の閾値が導かれる。我々は、この閾値を「実践的閾値」と呼ぶ。第2節では、意思決定理論をもちいてこの実践的閾値を導出した。第3節では、道徳認識論と外界懐疑論という2つの領域における実践的閾値の帰結を追跡している。そこでは、「(それに従う者に大きな犠牲を強いるという意味で)要求過多な道徳を知るための閾値は一般的に高い」という議論を与えるとともに、閾値の存在が「外界の存在を我々は知ることができない」という外界懐疑論を導くかどうかを検討した。道徳懐疑論に対してはしばしば、「道徳懐疑論を導く認識論は、同様に外界懐疑論を導く」という「悪友論法」が使われる。我々はこれに抗して、実践的閾値からは外界懐疑論が導かれないことを確認した。第4節では、知識の実践性から導かれる閾値は、知識の必要条件ではあるが十分条件ではなく、「認識的閉包(epistemic closure)」といった純粋に認識論的な原理からは別の閾値がさらなる必要条件として導かれることを簡単に確認している。

 第2章「道徳的意見の一致の認識論的な非重要性」では、「道徳的直観が一致するとすれば、それはその直観の内容を信じるべき理由になる」という一致論証を退ける。具体的には、「道徳的意見の一致がどれくらい一致されたところの道徳的意見を支持するか」という問いを、証言論で提示されてきた確率モデルを使用することで検討した上で、多数の意見の一致の認識論的重要性がどのような条件に依存しているかを確認し、道徳的直観に関してはその条件が成り立たないことを示す。第1節では、証言論におけるモデルをいくつか導入し、証言の一致が証言内容を信じるべき理由に重要になるための2つの条件、「追跡仮定」と「条件付独立仮定」を確認した。第2節ではこれらを道徳的直観に関して仮定することには問題があると論じた。まず、道徳的意見の一致において追跡仮定をもちだすことは、アドホックな認識論的仮定をもちだすことに等しい。また、条件付独立仮定が破られるような意見の相互作用としては、3つのタイプの意見の依存関係があるが、いずれのタイプの依存関係も、道徳的意見に関して見いだされる。したがって、条件付独立仮定は道徳的意見の一致に関しては破られる。第3節では、条件付独立仮定を仮定しない、より一般的な枠組みで一致論証を再検討し、そうした一致論証も成功しないであろうと論じた。本章の結論は、したがって、「道徳的意見の広範な一致がみられるからといって、それは一致された意見を信じる理由にはならない」というものになる。もちろんこれだけでは、我々が徳的命題を知らないことを積極的に結論することはできない。それは次の章で示される。

 第2章において我々は、「我々」における道徳的意見の一致は、一致されたところの意見を信じるべき強力な理由となることはない、と主張した。そこでの「我々」はひとまず、道徳的意見を同じくする集団として理解されていた。こうした集団は典型的には、文化や起源を共有する社会的集団である。第3章「道徳的意見の不一致の認識論的重要性」では、我々は扱う集団を拡張し、それぞれ道徳的意見を異にする諸々の部分集団をもつ全体集団を考える。そのような、必ずしも文化や起源が共有されていない集団における不一致が、不一致の対象となっている特定の命題を信じるべき度合いを下げるとすれば、いかに部分集団においてその信念が共有されていようと、その命題を高い度合いで信じるべきではない、ということになる。我々はこのことを示すべく、本章の前半部で「合理的反省原理(rational reflection principle)」と呼ばれる、合理的信念の度合いに関する原理を導入し、合理的反省原理からは、特定の条件のもとでは不一致の認識論的重要性が導かれることを示した。後半部では、そうした条件が実際に成り立つことを示している。道徳的命題を高い度合いで信じることはできない、という本章の結論が正しいとしよう。すると、第1章で主張したように、知識とみなせるためには合理的信念の度合いが一定の閾値を上回らねばならないとすれば、道徳的命題を我々は知らないことが帰結する。このようにして、第1章から第3章までの議論は、我々を道徳懐疑論に導く 。

 第3章まででは、道徳懐疑論を支持する議論を提示した。その過程の第3章において、「ある証拠のもとでいかなる信念を形成すべきか」を指定する「認識合理性仮説」に言及した。認識合理性仮説は、何らかの認識的規範と同一視できる。だが、認識的規範の正しさは何によって決まっているのか。そして、そうした認識的規範と真理とはどのような関係にあるのか。第4章「構成主義的真理観の問題」ではこれらを検討している。認識合理性仮説ないし認識的規範の妥当性は、それを受け入れることによって「より多く真理を信じ、より少なく虚偽を信じる」ことが可能になるか否かという観点から評価されるという、「真理主義(veritism)」を我々は支持する。大まかに言えば、真理主義によれば、認識的規範は真理に基づけられねばならない。この真理主義と対立するのは、逆に、真理は認識的規範に基づけられねばならないとする、構成主義的真理観である。第4章では、構成主義的真理観がどのような問題を抱えているかが論じられている。

 道徳的懐疑論を支持する本研究の主部の議論が成功しているならば、我々は道徳的命題を知らないことになる。だが、もし道徳的命題を我々が知らないのであれば、道徳的命題に基づいて自らや他人の行為を評価したり、他人を処罰したりすることはひとまず正当化されないだろう。では、こうした道徳的実践について我々はどうすべきであろうか。本論文の最終章である第5章「道徳についての選択的虚構主義」では、この問いを、メタ倫理学で扱われてきた「さてどうするか問題(‘Now what’s’ question)」に対する応答を検討することによって探求する。中心的な問題となる、「さてどうするか問題」では、「錯誤論の言うようにあらゆる道徳的命題が偽であるとわかったなら、我々は既存の道徳的実践をどう扱うべきなのか、どう扱うのが合理的か」が問われる。「錯誤論(error theory)」が「道徳的命題は体系的かつ一様に偽である」とする理論である一方で、道徳懐疑論は、「我々は道徳的命題を知ることはできない」とする理論であるが、「さてどうするか問題」への回答はほとんど直接的に、「道徳懐疑論が正しければ、道徳的実践をどうすべきか」という問いへの回答になる。「さてどうするか問題」については、「保存主義(conservationism)」、「廃絶主義(abolitionism)」、「虚構主義(fictionalism)」という主に3つの立場が検討されてきた。保存主義は、「道徳的命題がおしなべて偽であっても、道徳的実践は続けるべきである」とする立場である。廃絶主義は反対に、一切の道徳的実践の停止を要求する。虚構主義は、道徳的実践の有益性を主張し、道徳をある種のフィクションとして残すことを主張する。最終的に我々は虚構主義の変種を一定の条件のもとで擁護する。