現代メタ倫理では「行為の理由」という概念がよく分析の対象となり、様々な種類の論争の対象ともなる。その一つである「理由の内在主義」(reason internalism)と「理由の外在主義」(reason externalism)の対立点を明確化し、この論争を前進させるための提言を行うことが本稿の目的である。その過程で私は、人間において行為への動機づけはいかにして生じるかという、行為論の問題を相応に詳しく論じることになる。したがって本稿を研究領域で分類するならば、主としてメタ倫理と行為論に関わる論文であると言えるだろう。

 内在主義のテーゼを大まかに表現すればこうである。「ある行為者Aにとって、ある事実Rがある行為φをするべき理由になるのは、AがRによってφへと動機づけられることが可能である場合のみだ」。動機づけられるとは、ある行為の実行に向けた一定の傾向性を持つことである。たとえば長い付き合いの友人が一緒に映画を見に行こうと誘ってきた。聞けば何か有名な賞を取った映画だという。だが、残念ながらあなたは映画の賞のようなものに全く興味がない。いくらその賞の権威を聞かされても、その情報はあなたの心理を、映画を見に行くことに傾ける力を持たない。このとき、その映画が賞を取っている事実はあなたにとって映画を見に行くべき理由になるだろうか。ならない、と主張するのが内在主義である。

 この主張はもっともらしく見えるかもしれない。だが他方では、少なくとも、すべての理由がこのような形で個々人の動機に依存しているわけではないという意見にも信憑性がある。友人がその映画を一緒に見たがっているという事実は、あなたが映画鑑賞に付き合うべき別の理由を一つ与えているように見える。そしてそれは、あなたがこの事実からもやはり動機づけを得ることのない、やや冷淡な人物だったとしても変わらないように見える。というよりも、付き合ってやるべき理由があるのにそうしようとしないことがまさに冷淡さの表れなのだと言いたくなるかもしれない。とすれば、内在主義はいつも正しいわけではない。内在主義の否定を主張する立場を、外在主義という。

 内在主義者と外在主義者は何を争っているのか。私はこの対立を、本稿で「規範性のジレンマ」と呼ぶ一つの問題をめぐる論争とみなす。ごく大雑把に特徴づけるならば、それは次のようなジレンマだ。一方で、規範的なものは我々の意思決定と行為に深く関わっているという意味で、実践的であるように見える。何をするべきか我々が考えるのは、何をするか決めるためである。他人に「こうするのが良い」と伝えるのは、そうするように導くためである。他方で、規範的なものはある意味で客観的であり、主観的な心的状態から独立しているように見える。たとえ決してそうする気にならないとしても、そうするべきであるなら、私はそうしなくてはならない。しかし私が見る限り、この二つの直観からはある緊張関係が生じる。我々の意思決定と密接に結びついているものが、どうして我々の主観的な心的状態から独立でありうるのだろうか。

 本稿は三つの部に分かれており、最初の二つの章からなる第I部は導入部にあたる。第1章において、私はまず規範性とは何であるか、本稿で扱う理由という概念はどのようなものであるか、そして規範性のジレンマを構成する対立した直観とは何なのかを、より詳しく説明する。続く第2章では規範性のジレンマへとさらに深く踏み込み、このジレンマが伝統的な規範倫理学においても、幸福論においても、長らく論争の背景にあり続けてきた要素の一つだという見立てを提示する。その上で内在主義と外在主義を一般的な形で特徴づけ、規範性のジレンマへの解決策候補とみなしうる既存の提案にどのようなものがあるか概観しつつ、できる限り体系的な整理を与えようと試みる。

 第3章から第6章までを含む第II部では、本稿で(少なくとも部分的には)擁護される内在主義のテーゼをより具体的なものにしていくと同時に、既存の解決策を一つずつ批判的に検討していく。まず第3章では、そもそも内在主義をどのような身分のテーゼとみなすべきかを考察する。ここではメタ倫理における代表的な四つの立場、すなわち非自然主義、分析的自然主義、総合的自然主義、表出主義をそれぞれ検討し、表出主義に基づいて内在主義を解釈する立場を採用する。表出主義と内在主義の組み合わせは全く標準的とは言えず、むしろ珍しいものであるが、第4章で示される通り、私が内在主義テーゼの内実として採用する具体的条項そのものはクラシックである。私は一般に内在主義の始祖とされるB・ウィリアムズの議論を参照し、彼の提示する条項を大枠においてそのまま継承するからだ。これと関連して、第4章ではいわゆる動機づけに関するヒューム主義も論じられる。しばしば見られる見解に反して、私は内在主義とヒューム主義をまったく独立のテーゼとみなすが、依然としてヒューム主義にはそれ自体説得力があると論じる。続く第5章と第6章は、ほぼ純粋に否定的な議論に費やされる。第5章では主としてJ・マクダウェルの議論を念頭に置き、理由の実践性を意図的に弱く解釈する、本稿で「実質的内在主義」と呼ばれる立場を批判する。第6章ではあらゆる行為者(あるいは、少なくとも一定の弱い条件を満たしたすべての行為者)が必然的に共有する関心が存在するという立場、すなわち「構成主義」の代表として主にC・コースガードの議論を取り上げ、これが抱える問題点を多面的に指摘する。

 上記の諸理論ほど主題的には取り扱われないものの、第II部の過程ではその他にもいくつかの理論が折にふれて批判される。一つは、理由とはただ認識されるだけで行為者を必然的に動機づける絶対的な因果的効力を有した事実である、と主張する立場であり、この立場を本稿では「理由の磁力説」と呼ぶ。J・マッキーが、プラトンの善のイデアの観念に磁力説的な主張を読み込んだことはよく知られている。他方、道徳的な行為は極めて多様な種類の主観的関心を充足させうる行為であるがゆえに、事実上はいかなる行為者も道徳的行為を行う動機を有するはずだと主張する立場も存在する。これはM・シュレーダーの擁護する立場であり、本稿では「過剰決定説」と呼ぶ。最後に、一定の手続きを経た合理的な熟慮を行えば、どのような行為者も必ず同様の欲求を持つに至るはずだという議論も存在する。これはかつてM・スミスが試みた議論であり、本稿では「合理的収束説」の名で呼ぶ。実質的内在主義や構成主義の批判と合わせて以上のような理論の批判を行うことで、規範性のジレンマに関する既存の解決策の批判は一通り完了することになる。

 ジレンマに対する私自身の解決策は、第7章から第9章までの第III部において提示される。まず第7章では、内在主義の代表的批判者であるD・パーフィットが主要な論拠として訴える一つの思考実験を取り上げ、よく反省されるならばこれが必ずしも説得的なものではないと論じることで、錯誤論によってジレンマを部分的に解消する方策を示す。

 そして、私が最も積極的な提案を行うのは第8章と第9章である。第8章で私は、理由を含む規範的な概念一般に根本的な二つの区分が存在するという主張を擁護する。それは「当為的」(deontic)なものと「評価的」(evaluative)なものである。私の考えによれば、当為的な概念と評価的な概念は、それゆえ当為的な理由概念と評価的な理由概念も、その意味論的構造を大きく異にしている。そして、この差異を私はやはり表出主義的に解釈する。この議論により、内在主義は当為的な理由概念に関して、外在主義は評価的な理由概念に関してそれぞれ真理を語っており、両者が実は両立可能であることを私は示そうと試みる。この枠組みがアドホックではない真正の説明力を有し、既存の解決策を超える利点を有すると示すことこそが本稿の最も重要な目的であり、この枠組を本稿では「理由二元論」(reason dualism)と呼称する。なお先に述べておくと、理由二元論は実際のところ完全に徹底的な二元論ではない。評価的理由と当為的理由がそれぞれ独立に存在することをいったんは認めつつ、依然としてある重要な点において評価的理由は当為的理由に依存しており、それゆえ内在主義がより基礎的でもある、と私は論じるからである。

 最後に、第9章ではアモラリスト(道徳に関心を持たない人物)への責任帰属がどれだけ可能かという問題を通じて、理由二元論の枠組みが責任という概念にも同様に適用可能であることを論じる。責任概念にもやはり異なった二種類が存在するという提案は、G・ワトソン等によってすでに繰り返しなされてきた。だがこの提案は、せいぜい本質的な責任概念と些末な責任概念の区別を明らかにするものでしかないとみなされることがしばしばであった。私は第8章における当為と評価の区別、及び理由二元論を適用した再解釈を施すことで、二つの責任概念はいずれも本質的に重要であるという主張を擁護する。ただし、やはりこの場合も一方の責任概念がより基礎的ではあり、それは再び内在主義の外在主義に対する優越を示すと私は論じるだろう。