本論文では、道徳判断とそれがもつ規範性――とくにそれに従うことの合理性――の本性について、デイヴィッド・ヒュームの道徳哲学(主に、『人間本性論』第3巻と『道徳原理研究』)の再解釈を通じて考察する。従来、ヒュームの道徳哲学は心理学的・感情主義的に解釈されることが多かったが、本論文では、比較的等閑視されがちだったヒュームの道徳的言語論と、概念――私たちの理解していること――と実質――私たちが実際に行っていること――の区別に注目することで、新しいヒューム像を描き出す。そのようにして再解釈されたヒュームの道徳哲学は、古典的な経験論哲学でありつつも、現代のメタ倫理学とも十分に対話可能なものであり、現代的な倫理学論争にも新たな一石を投じる基盤となりうる。
第2章では、ヒュームの道徳哲学が全体としてどのようなプロジェクトであるかということを確認するために、事実と規範の関係を検討する。ヒュームは「である」と「べき」のギャップを主張したことで有名だが、多くのヒューム解釈者はそうした「ギャップ」は現代倫理学者の曲解であり、ヒューム自身はそんなギャップを認めておらず、事実と規範は結びついていると主張する。こうした解釈は、主としてヒュームの正義論、価値論、「修道士の徳」論において生じているが、1つ1つの論点を検討していくと、やはりヒュームにおいて「である」と「べき」の断絶は深刻だということが明らかになる。ヒュームが「である」から導き出しているのは、せいぜい「人々は「しかじかなふるまいをなすべきである」と思う」という心理的な事実や常識的な道徳観だけであり、外側のカッコをはずした「しかじかなふるまいをなすべきである」という端的な規範そのものを導出してはいない。それゆえ、ヒュームは概して道徳の事実的な分析に徹していたと言えるのだが、1点、そうした道徳を創り出す判断――道徳判断――には一定の規範が備わっているかのように語っているきらいがある。そこで次章以降では、道徳判断ならびにその原理である「一般的観点」に焦点を当てて論じることになる。
第3章では、ヒュームが道徳判断の最終的な説明において導入した「一般的観点」という概念の実質を検討する。一般的観点は、従来、感情にもとづく道徳判断に公平性を担保する観点として、あるいは、不公平な道徳判断を対人的にすり合わせて共通の道徳的見解を獲得するための補足的な観点として解釈されてきた。だが、そもそもそれが具体的に言ってどういう観点なのか、個々の道徳判断場面でどのような内実をもつのか、ということは明言されていない。ここで注目すべきは、私たちが人々のふるまいを観察していく中で、人々に期待できる配慮の範囲 “narrow circle” が定まっていく、というヒュームの主張である。本章では、この “narrow circle” 概念を一般的観点と結びつけ、かつ、精確化することによって、一般的観点は、少なくともその個別具体的な道徳判断場面で、道徳が要請する対人的配慮の範囲を実質的に規定する観点である、と結論する。しかし、そうした判断形成のプロセスには多様なパラメータが介入するため、実際に出力される道徳判断も多様にならざるをえず、たとえ各人が一般的観点に立っていたとしても、道徳判断を対人的に一致させることは極めて困難だと言わざるをえなくなる。
第4章では、一般的観点の実質的な側面ではなく、形式的・概念的な側面を検討する。ヒュームは、一般的観点が道徳の言葉を創り出すと述べており、それが意味するのは、一般的観点は、私たちがすでに道徳を了解している日常場面だけでなく、道徳の言語すら存在しないより原初的な状況、道徳というものがいまだ了解されていない、それゆえ道徳判断のすり合わせ自体が発生しようのない状況において立ち上がる、ということである。すると、一般的観点には、個々具体的な道徳判断の公平性や一致を実現するといった、既存の道徳言語や道徳概念の運用を規制する機能だけでなく、そもそも道徳言語や道徳概念の意味を規定する機能があることになる。前者における一般的観点は対人的に一致する感情を探す観点だと言えるが、後者においては対人的に一致した感情を道徳概念に結びつける観点なのである。このことは、道徳判断に関する私たちの概念的な了解――道徳判断は普遍性をもたねばならない――が一般的観点に支えられていることを意味する。個々具体的な道徳判断はいくらでも多様でありうるが、それでもなお対人的な一致が志向されるのは上記の概念的な了解の賜物なのである。
第5章では、ヒュームの感情主義的な道徳判断論を検討する。ヒュームは道徳判断を一種の感情によって特徴づけるのだが、こうした感情主義には1つの難点がある。それは、感情の多様性を踏まえると、どのような感情が特異に道徳判断を特徴づけるのか明らかにしなければ、道徳判断の必要十分な理解に至りえない、という「道徳的態度問題」である。ヒュームはこの問題の解決にあたって、「道徳感情は内観的に独特な感じを与える」という内観的弁別性に訴えている。しかし、ヒュームは各所で「道徳感情はそれ以外の感情(たとえば自己利害感)と混同されやすい」と述べており、感情の内観的な感じだけでそれが道徳感情かそれ以外かが区別できるということを実質的に否定しているように思える。また、ヒュームの最終的な道徳判断論においては、感情の役割がかなり希薄化され、むしろ言語の役割が強調されている。こうしたことに鑑みると、道徳感情が道徳判断を特徴づけるというよりも、むしろ、言語的な道徳判断、その使用の実態が、かえって道徳感情を特徴づけていると考えるのが妥当である。かくして、道徳感情は、道徳判断の因果的な説明に必要なものとして要請されているにすぎず、道徳判断の概念的な理解に寄与しているわけではない、という結論になる。こうしてヒュームの道徳哲学は、従来の解釈に反し、色濃く言語論的なものであるということが示される。
第6章では、こうした一般的観点ひいては道徳の創造場面を、ヒュームのコンベンション概念によって具体的に描出することを試みる。コンベンションは、正義をはじめとする非自然的(=非本能的)で人為的な徳の成立を説明するプロセスであるが、正義成立の状況は、すでに見た一般的観点成立の状況と酷似している。このアナロジカルな関係から、ヒュームにおいて道徳判断実践は、それ自体として、人為的で非自然的な営みであることが明らかになる。さらに、こうして明らかになった一般的観点は、道徳実践にとって本質的に必要であるということを、従来の反論を退けつつ、立証する。
第7章では、常識的な道徳――ヒュームが標的にしている事実化した道徳――というものがどのように成立するのかということを、コンベンションと言語の関係から描出することを試みる。ヒュームは、道徳の常識的な権威(規範性)と根本的な性質(「自他にとっての有用性ないし快適性」)を説明する際、道徳言語の意味に訴えており、かつ、言語一般はコンベンションによって創り出されると明言している。そのため、ヒュームにおいて道徳は、コンベンションによって基礎づけられていると考えることができる。その含意として、まず、ヒュームは道徳性を自然と人為に分けたが、根本的に言えばすべて人為の所産である――人間が状況に即して協働的に創り出すものである――ということ、そしてそれゆえに、少なくとも常識的な道徳性は人間の置かれた状況とコンベンションの多様性のために時代・文化相対的になりうるものだということが読み取れる。
第8章では、道徳判断がもつ規範性について、その動機づけの面と理由づけの両面から検討していく。しかし、動機づけに関しては、ヒューム自身が当初の主張を後に翻しており、最終的に、道徳判断には動機づけの力が不要だと言う結論に至る。他方、理由づけに関しては、カールソンのヒューミッシュモデルが参考になるものの、道徳判断にしたがって行為することの合理性を説明するためには、「感情と理性の混同」という一種の錯誤論を導入せざるをえず、道徳判断は、概念上、行為の理由を与えるが、実質的には与えない、という結論に至る。
第9章では、現代の道徳的錯誤論をもちいて、ヒュームの道徳哲学を再解釈し、メタ倫理学への積極的な接続を試みる。「感情と理性の混同」をコアにおくオルソンの錯誤論解釈は、概略的には妥当なものであるが、ヒュームの哲学体系全体との整合性やヒュームの道徳的意味論の解釈については不十分な点があり、その点をヒュームのテキストとこれまでの議論を踏まえて補い、より説得的なヒュームの錯誤論解釈を提示することになる。
結論として、 (1) ヒュームにおいて道徳は、従来考えられてきたほど感情に依拠するものではなく、感情を発端としつつも言語によって創り出されるものであり、(2) そうして創り出された道徳は、概念上、「普遍性」ないし「客観性」をもち、かつ、「行為の理由」を与えるものでなければならないが、そうした要求は希薄化した感情を理性と「混同」する誤りによってもたらされており、実質を伴わないものである、と言える。こうした結論は悲観的に思えるが、ヒュームの道徳論はあくまで常識的な道徳の「解剖学」であり――本論文はそれを従来の解釈以上に先鋭化させただけである――、道徳のあるべき姿はこの解剖学をふまえた先にこそありうる、という点は強調しておく必要がある。