ジョージア近代文学研究におけるポストコロニアリズムの諸問題 ―ポストコロニアル・環境/動物批評の試み

五月女 颯

  1. 1.研究の背景・目的

 ロシアのポストコロニアリズムの議論において、ロシアの曖昧な半ヨーロッパ・半アジア的アイデンティティにより、オリエンタリズム的な東西二項論を安直に適用することができないというのが一般的な見立てである。しかし、その問題点として、「東洋」とされた地域の文化や文学に対し注意を払うことなく、専らロシアからの視点の論じていることが指摘される。

 このような問題意識から本論文は、19世紀以降ロシア帝国の支配下に置かれたジョージア(グルジア)の近代文学を対象とし、特にその正典的(カノニカル)な詩人・作家のイリア・チャヴチャヴァゼ ილია ჭავჭავაძე (1837–1907) とヴァジャ=プシャヴェラ ვაჟა-ფშაველა (1861–1915) の文学テクストを分析する。その批評史において、後者を前者の民族(主義)的な立場を継承する者として捉える見方があるが、本論文はポストコロニアルな観点から両者の関係を再考することに目的がある。

 

  1. 2.研究の内容・構成

 本論文は2部構成であり、第1部ではチャヴチャヴァゼを、第2部ではヴァジャ=プシャヴェラの作品をそれぞれ論ずる。第1部は第1章から第5章、第2部は第6章から第10章で構成される。

 第1章は序論として、上述のようなロシアやジョージアのポストコロニアル研究の動向を、先行研究を通して確認する。

 第2章では、初期の旅行記風の作品である「旅行者の手紙」(1861–1871) を取り上げる。「旅行者の手紙」は若きチャヴチャヴァゼの「マニフェスト」的な作品であり、その後の彼の生涯を通して実現していくことになる思想が凝縮されている重要なテクストである。ここではまず、作品のテクストに存在するロシア語の表記に注目しつつ、チャヴチャヴァゼがロシア文学の先行の作品とのパロディやアイロニーを通して、ロシアの植民地主義の「コーカサスの啓蒙」というイデオロギーを批判したことが分析される。

 第3章でも引き続き「旅行者の手紙」について論じる。前章がロシア文学との間テクスト性について論じるものであるのに対し、ここではジョージア内部でのそれに目を向ける。同作品ではチャヴチャヴァゼの父世代にあたるロマン主義詩人の詩も引用されている。ロマン主義詩人はジョージアの民族意識を高揚させたが、先行研究によれば、そこにはいくつかの「地詩学」的戦略があるという。そのうちチャヴチャヴァゼは、ジョージアを称揚する戦略はそのまま用い、他方ロシアによるジョージア支配に迎合的な戦略については、やはりアイロニーを加えている。

 第4章では、同じく初期の中編小説「彼は人か?!」(1863) を取り上げる。この作品は農奴制の中で安住する主人公らの怠惰や退廃を描き貴族を批判する作品として読まれてきたが、本章では植民地主義がそうした主人公の怠惰や退廃の形成にいかに影響したのかを分析する。その際、「彼は人か?!」とほぼ同時期に書かれた、ロシアの作家ゴンチャロフの長編小説『オブローモフ』 (1859) と比較しその異同を分析することで、当時のジョージア社会の植民地状況の特徴を把握することができる。ロシアの植民地政策はジョージア人貴族の土地所有を細分化し貴族間の分断を図ったが、このことが「彼は人か?!」の主人公や登場人物の経済的のみならず道徳的退廃を招いた。また、作品中で主人公は教育を受けていない人物として描かれている。主人公が育った19世紀前半において、ロシアはジョージア人へのロシア語教育を推し進めたが、このことは主人公をはじめとするジョージア人の子弟にとって一定の困難を生み出した。このような教育環境が、結果として主人公の怠惰な生活という現状を生み出したとも考えられる。

 第5章も引き続き「彼は人か?!」を対象に、『オブローモフ』との物語構造に関する比較を通し、チャヴチャヴァゼの植民地主義に対する戦略を考察する。『オブローモフ』では物語の登場人物間に啓蒙や進歩に関する対立構図を見出すことができるが、「彼は人か⁉︎」では登場人物と語り手の間にそれを見出すことができる。前者ではそこに作者ゴンチャロフの近代性に対する曖昧な態度やロシアの半ヨーロッパ・半アジア的性格を確認することができるが、後者では物語に注釈を入れる啓蒙的な語り手を設定することで、啓蒙=教育や近代性のジョージアへの導入という作者チャヴチャヴァゼの強い主張を見出すことができる。

 第6章では、以上の議論を踏まえ、ジョージア文学のポストコロニアリズムにおける問題点を指摘する。ここまで、チャヴチャヴァゼはロシアの植民地主義やそれに迎合的なロマン主義詩人に対してはアイロニカルな応答、バーバの言葉で言えば擬態(ミミクリ)や茶化し(モッカリ)という植民地的な戦略を用い、ロシアの植民地主義に対するアンビヴァレントな態度——啓蒙のイデオロギーを批判しつつも、同時に近代性や啓蒙を重視する態度——を示したことが確認される。啓蒙や近代性を重視するこのような態度はジョージアに限らず旧植民地や非西洋に一般にみられるものだが、しかし、それは、たとえ植民地解放を果たしたとしても、自他の階層構造を再構築し、帝国主義や植民地主義を再演してしまう危険を潜在的に孕んでいる。本研究では、この問題点に対し、文学研究において新たに発展してきた批評理論であるポストコロニアル・環境/動物批評 postcolonial ecocriticism/zoocriticism を導入することで、ジョージアのポストコロニアリズムの議論に新たな視座を供することができると考える。ポストコロニアル・環境/動物批評はポストコロニアリズムと環境批評や動物批評の協働を図る試みだが、その交点の一つとして人種差別と種差別が挙げられる。どちらもそれぞれ白人(に限らないが)と人間が、有色人種ないしは先住民と動物を虐げる階層構造があり、文学作品における動物は時として差別を受ける先住民の隠喩となる。しかし「サバルタンは語ることができない」ように、動物もまた自ら語ることができないため、文学テクストにおいて動物は擬人法によって声を与えられるが、ここにはサバルタンのように、人間が動物を代弁し、人間の/についての寓話に留まってしまう危険もまた存在する。従って、擬人法によって動物がいかに戦略的に描かれているかがここでの重要な論点となる。

 第7章以降では、ヴァジャ=プシャヴェラの叙事詩「蛇を食う者」を集中的に取り上げる。第7章ではまず蛇という動物の形象について概観し、詩の主人公が蛇を食べるという行為の意味を論考する。その上で蛇肉食により主人公が得た自然の声が聞こえるという能力について、デリダの動物論を参照しつつ論じる。主人公は自然からの抗議の声に従い木の伐採や獣の狩猟を止める。他方、花や麦穂は自己を薬や食糧として捧げるが、麦穂の中にもその自己供儀に異を唱える者もいる。この対立する言明の中に、自然の責任=応答可能性や行為主体性(エージェンシー)をみることが可能である。

 第8章ではこの麦穂の自己贈与に注目しさらに議論を深める。『時を与える』の中でデリダは、贈与は、送った者や受け取った者が贈与とみなした瞬間に返礼が意識され、直ちに贈与で無くなると主張する。従って贈与は返礼を求めない「狂気」によってのみ、また瞬間的でユートピアという時空間の中でのみ起こり得るとされる。また、この贈与論を元にデリダは『死を与える』でイサクの奉献における贈与を論じている。デリダの一連の論考を踏まえると、詩の中での麦穂の自己供儀を贈与としてみなし得る。なぜなら主人公は一方的に麦穂を刈り取るが、他方主人公は麦穂に何も返礼することは(でき)ないからだ。ここに、擬人法は麦穂の贈与を認識させるが、その瞬間にその贈与は贈与でなくなるという逆説が用意される。

 第9章では「蛇を食う者」を宮澤賢治の童話「なめとこ山の熊」と比較する。前者では花や麦穂、後者では熊が擬人化されつつ主人公に対し自己を供儀しているが、そこには人間と自然との間にある敬意に満ちた相互依存の関係が(「蛇を食う者」ではその不可能性もまた)現示される。このような擬人法の用法は、人間に限定されるヒューマニズムを非人間(ノンヒューマン)にまで拡張する「パンヒューマニズム」と定義付けることができる。また、ジョージアと日本という異なった場所で両者がこのような思想に至った背景として、両国における帝国主義や資本主義、近代化の進展が挙げられる。この環境の中で苦境に陥った主人公と自然との間に、共苦する関係が生まれるのである。

 以上の議論を踏まえ、第10章では結論が述べられる(次項参照)。

 

  1. 3.研究により得られる結論

 チャヴチャヴァゼは、ロシアの植民地主義やそれに迎合する父世代に対抗すべく、擬態(ミミクリ)や茶化し(モッカリ)といった戦略を用いた。またロマン主義詩人が描出した民族的な感情を継承し、それは「旅行者の手紙」の後半に登場する山岳民グニーアの形象にみることができる。その形象ないし主張をヴァジャ=プシャヴェラなど後継の作家が発展させたとする論考が一方にはある。

 だがジョージア文学史の批評において、ヴァジャ=プシャヴェラをチャヴチャヴァゼの後継とみなすならば、民族(主義)的な面以上にヒューマニズム的な面を強調すべきである。チャヴチャヴァゼは農奴制に反対し、そこで虐げられる民衆をジョージアの同胞として救済すべきだという意味でのヒューマニズム的な主張をしたが、ヴァジャ=プシャヴェラは自然の表象を通してこの主張をラディカルに発展させたと言える。すなわち、彼は自然の行為主体性(エージェンシー)を無視することなくそれを人間から独立したものとして捉え、その上で人間との間にパンヒューマニズム的な関係を結ぶものとして描き出すことで、あらゆる階層構造を乗り越える思想をそこに示したのである。

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