兩晉十六國時代の「正統」と「周緣」

板橋 暁子

 本博士論文は、「中國史上の大分裂時代」とも稱される魏晉南北朝時代、そのなかでもとりわけ分裂狀態が深刻化した兩晉十六國時代における正統觀を、主に王朝と藩屛の關係に對する考察を通じて明らかにしようと試みたものである。他の時代に比べてこの時代に顯著にみられる特徴として、國力や實効支配領域からいえば周緣的存在に過ぎない王朝が正統を主張して藩屛との關係構築を模索したり、正統を唱える當事者ではない周緣的存在である藩屛が特定の王朝の正統性を承認する側に立ったり、さらには藩屛が藩屛の地位を脱して自らを正統と位置づけるに至ったりといった、流動的かつ複層的な稱藩關係を擧げることができる。本博士論文の題目を「兩晉十六國時代の「正統」と「周緣」」と設定したのは、兩晉十六國時代にあっては「周緣」は必ずしも「正統」から斷絶した存在、「正統」の下位に立つ存在ではなく、兩者はしばしば補い合い重なり合う關係にあり、そのことが中国史上におけるこの時代の特色を少なからず規定すると考えられるためである。

 各章の概要は以下のとおりである。

 第一章では、西晉最末期、長安に成立した愍帝政權が司馬睿ら各地の藩屏とどのような關係を構築したか、そして愍帝政權に對し藩屛側はどのような動きを示したかを檢討した。愍帝の在位期閒はごく短いながら、各地の藩屛に對し現實的な影響を一定程度及ぼし、長安を中心とする天下經營構想のなかに彼らを組み込んでいた。すなわち、實際の統治領域からすれば極めて局地的であった愍帝政權も、統一期の西晉舊領=「天下」を繼承する王朝であると自ら任じていた。實効支配が及ばない各地の親晉勢力に對し、洛陽奪還を標榜することで軍事的統合を呼びかけると同時に、たえず官爵を授けながら「天下」の輪郭の保持を試みる、という愍帝政權の基本姿勢は、建康を中心とする東晉「册封體制」の原型として繼承された。

 第二章では、西晉舊領最西端に成立した前涼政權が、東晉に稱藩した後も約半世紀にわたり西晉愍帝の年號「建興」を奉用しつづけた現象について考察した。西晉朝廷が長安に遷った愍帝期、前涼(初代張軌・第二代張寔)は長安防衞のためにたびたび出兵し、諸藩屛の中でも最も忠實な藩屛として「勤王」の實績を築いた。この時期、張氏の前涼政權と司馬睿の建康政權は遠隔地から愍帝に稱臣し、その「天下」構想を支える藩屛という點で、立場を同じくしていた。江南における司馬睿の即位に前涼(第二代張寔)は贊同したが、年號は「建興」の奉用を繼續した。東晉成立の約二十年後、前涼(第四代張駿)から東晉(第三代成帝)への上表文には、司馬睿の琅邪王時代から採られてきた「勤王」不履行=自勢力の温存政策が、東晉成立以後も基本方針として繼承されてきたことへの不滿が見いだされる。前涼における「建興」奉用の繼續は、琅邪王司馬睿の「勤王」不履行ならびに東晉成立後の北伐不履行への批判的立場から、愍帝期の西晉朝廷秩序を顯示する意味があったと考えられる。

 第三章では、西晉末期、拓跋部の首長猗盧に對しておこなわれた代王册封およびそれに先立つ代公册封について考察した。「異姓不王」の禁に反する「異姓封王」がこのとき斷行された背景には、拓跋部を親晉勢力として確保することで幷州一帶は維持したいという西晉朝廷の思惑があったとみられる。他方、西晉・東晉朝廷から中國內地の爵位を受けた段部・慕容部・仇池楊氏の首長らは晉制官職も併せ授かったのに對し、拓跋部首長が授かったのは爵位(と單于位)のみであった。また、八王の亂終息時に建てられた大邗城南碑や劉琨の文章には、拓跋部は「外域」であるという晉人側の認識が一貫して示されている。これらの點をふまえて代王册封の背景を再檢討するならば、晉朝は拓跋部首長を外臣に留めおくことで、晉室の窮地を救う「外域」の功勞者に對して破格の待遇で報いるとともに、本土介入する權限をもたないように仕向けたと解釋できる。

 第四章では、兩晉交替期、劉琨が司馬睿に勸進をおこなった背景と劉琨の「勸進表」四首を檢討した。劉琨が「勸進表」において「華戎による推戴」を一貫して唱え、東晉の發足當初から「戎」が王朝內部の構成員として位置づけられたことは、西晉惠帝期の江統が『徙戎論』で主張した華夷の分斷/峻別の思想とはきわめて對照的であった。劉琨の勸進の經緯に鑒みるに、反晉勢力に對峙して華北を統合するためには非漢人をも皇帝推戴に参與させ、一定程度對等な地位・權利を與えなくてはならないという認識が漢人の側に存在していたとみられる。中國王朝の中心性/一體性を回復するため、中國の帝王をともに支える構成員として非漢人を位置づけたということであり、一種の等視化、內部化であった。

 第五章では、東晉が王敦の亂と蘇峻の亂を經た後の時期、慕容部の首長慕容廆とその屬僚が長江中流域に出鎭する東晉の高官陶侃に宛てた書簡と陶侃の反應を分析した。慕容廆とその屬僚がそれぞれ陶侃に宛てた書簡は、江南から隔絶した東北部に割據する慕容部を東晉からみて「竟外」であると位置づけた上で、東晉の忠實な藩屛たる慕容廆を燕王に封じることの正當性を訴えるものである。燕王册封を請願する宛先として陶侃が選ばれたのは、彼が南人であるがゆえに、本來は東晉の「內」である東北部にも「異姓封王」を容認すると期待されたため、と推測される。陶侃が返信において示した折衷的對應は、慕容部君臣が期待した「非『北人』としての天下觀」に通じる、非公式的・反傳統的な性格のものであった。

 第六章では、東晉中期、慕容廆の跡を繼いだ慕容皝が建康の東晉朝廷に對しておこなった燕王册封運動の經緯を檢討した。慕容皝が建康へ派遣した使者劉翔は東晉朝廷において、「異姓封王」に難色を示す朝臣らに對し、慕容皝こそ夷狄でありながら中華の傳統の護持者であると主張した。劉翔の訪晉期閒中、慕容皝は成帝への上表文と庾冰への書簡を建康へ送り、ついに燕王册封の實現に成功した。慕容皝は庾冰への書簡において、自身が夷狄出身であると認めつつ、政情不安を招いてきた外戚庾氏よりも中華王朝(晉朝)の忠臣としての實績に富むことを強調したのであった。「異姓でも戎狄ならば王に封じてもよい」という論理はこの時も適用されず、慕容皝の封王請願は大きな抵抗に遭っており、「華」「夷」の別は「內」「外」の別を無効にするものではなかった。

 第七章では、氐族の楊氏が代々運營した前仇池・後仇池政權と兩晉および劉宋との稱藩關係を軸として、江南王朝の藩屛として華北に存續しつづけた仇池政權の歷史的意義を問い直した。仇池方面は晉朝遺民の繼續的な受け皿となるとともに、仇池楊氏もまた、民心收攬のために晉朝藩屛という立場を自覚的に維持し、華北勢力としては唯一、西晉初から東晉末まで晉朝藩屛としての地位を全うした。支配層が交代しつづけ領域も再編成されつづけた南と北の諸王朝のはざまにあって、晉朝の藩屛そして遺民の結集點という安定的な役割を果たしつづけたこと、かつ、晉朝とのそのような關係を、晉宋交替直後の劉宋との關係にも適用し劉宋を正統王朝として奉じたことに、他の五胡十六國政權とは一線を畫す仇池政權の特色をみることができる。

 以上の議論をふまえ、本博士論文全体の結論を以下のようにまとめたい。

(一)「內」「外」觀の保持

 西晉末期~晉宋交替までの約百年を通じて、晉朝は實態として長安および(その時期の中國では未だ「周緣」的地域であった)江南に逼塞する地方政權の地位に甘んじ、とくに東晉は特定の時期を除き北伐に消極的な基本方針を維持しつづけた。その一方で、長安の愍帝政權も江南の東晉も、全土統一期の西晉と同樣に自らを中國唯一の正統王朝と位置づけることに變わりはなく、統一期の西晉舊領全域を自身の「內」として規定しつづけた。統一王朝期と地方政權期を相次いで經験したことが、晉朝自身の正統觀を規定したものと考えられる。

(二)「勤王」意識の持續

 西晉末期~晉宋交替までの約百年を通じて、晉朝は西晉舊領各地の藩屛に對して一定の威信と求心力を失わなかった。晉朝は各地の藩屛に對し正朔や官爵を授與したり、「勤王」の名のもとに協調的軍事行動を呼びかけたり、藩屛の要望に對し一定の讓歩を示したりすることで、緩やかな統合を維持していた。上記(一)のとおり「內」「外」觀を保持した結果、晉朝は西晉末期~晉宋交替までの約百年を通じて、(北伐實行の頻度は時期により異なるとはいえ)洛陽の奪還そして華北の回收という國是を放棄しなかった。そのことが、華北の晉朝遺民や藩屛側の「勤王」意識を持續させたと考えられる。

(三)「華」「夷」の包攝

 後漢以來の非漢人內徙政策の結果として、西晉初・中期には華北各地に分布する非漢人の叛亂および處遇問題が顯在化し、最終的に永嘉の亂によって西晉の全國統治體制は崩壞した。しかし西晉末期以降、晉朝は、永嘉の亂の主導者らにより樹立された中原の非漢人王朝を仇敵と定めながらも、晉朝體制內から非漢人を排除することはせず、むしろ非漢人を首長とする地方政權を藩屛として晉朝體制內に殘留させることに努めた。「華」「夷」の別が解消されたわけではないが、永嘉の亂以後の現實の情勢下において、晉朝が理想とする「天下」の範圍(統一期西晉舊領)を晉朝の「內」として維持するためには、「夷」を「內」から驅逐するという選擇肢はもはやなかった。すなわち、「華」「夷」をひとしく「內」に包攝することは、晉朝皇帝が中國全土の主たることを標榜する限り、理念としても現實としても責務であった。

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