本論文は,戦前のアカデミア,とりわけ明治期における東京(帝国)大学を主な分析対象としつつ,そこで漢学および「支那哲学」がどのように取り扱われ,また変容してきたのかについて論じた。本論文は全6章および補論2章からなる。各章の議論を簡潔にまとめると,次のようになる。
第1章では,本論文の議論の基礎となる,明治初期の東京大学およびその前身校における漢学の取り扱われ方とその変容について検討する。第2章および第3章では,漢学そのものというよりもその周縁部に位置した,あるいは漢学という既存の枠組みを抜けて外へと飛び出していった「日本哲学」や「実用支那学」などの試みについて検討する。続く第4章から第6章までは,戦前日本のアカデミアにおいて漢学および「支那哲学」の中心的人物の一人であった服部宇之吉に焦点を当て,その思想内容と形成過程を分析する。第4章では服部がなぜ東京帝国大学における漢学および「支那哲学」の後継者として選抜されたのかについて検討する。第5章では服部「孔子教」論の初期段階について,また第6章では「孔子教」論の完成形に至る過程について,いずれもそれが西洋哲学や当時の中国における政治・思想状況など,外部環境との相互関係の中で形成されたものであることに注意しながら分析を行う。
各章の具体的な議論は以下の通りである。
第1章では,前身校を含めた東京大学草創期における漢学の位置づけについて,制度的な側面を視野に入れながら検討する。昌平坂学問所を継承した「大学本校」の閉鎖後,漢学は冬の時代を迎え,また明治10(1877)年に東京大学文学部に和漢文学科が設置されたのは急激な西洋化への反動としての復古主義の潮流を反映したものであると考えられてきたが,実際には東京大学の前身校の時代から,漢学は「邦文」能力の形成という目的のもとで教育に導入されており,漢学講師も少なからず雇用されていた。東京大学の設立から2年後には「教学聖旨」が発せられるなど,少なからず儒教道徳を中核とした復古主義の機運が当時無かったわけではないが,しかし東京大学およびその前身校における漢学の教育内容は,少なくとも史料によれば儒教道徳や修身教育とは無縁のものであり,「復古」というよりもむしろ漢学を西洋由来の学問と同格に押し上げるような「近代化」の要求のもとに,様々な変革の模索が行われていた。そのような状況において,いち早く「支那哲学」の全体像を荒削りながら提示したのが,東京大学文学部の第1期卒業生で,のちに東京帝国大学教授を務める井上哲次郎であり,そしておそらくそれに何らかの刺激を受けて,昌平坂学問所出身の漢学講師・島田重礼も,それまでの伝統的な教育方法の刷新を図って新しい方式の講義を展開した。
第2章では,井上哲次郎に焦点を当てる。漢学の素養を持ち,東京大学でいち早く「支那哲学」の通史を本格的に講じた井上であったが,留学からの帰国後に「固陋」な漢学者たち,特に内田周平と激しく衝突した後,井上は漢学および「支那哲学」の世界から離れて「日本哲学」の構築に専念した。彼は「これまで日本に哲学が存在したことはない」という当時の西洋における常識を打ち破るべく,江戸期の儒学を「日本哲学」としてパッケージングし,西洋へ向けて発信した。井上の「日本哲学」のひとつの集大成がいわゆる「三部作」であったが,井上はあくまでもそれを(いま一般に言われているような「江戸儒学」ではなく)「日本哲学」という枠組みで発信しようとした。もっとも,「日本哲学」の存在を認めさせようとする井上の試みは成功したとはいえず,逆に「三部作」の第一作である『日本陽明学派之哲学』は,(「日本哲学」ではなく)あくまでも「支那哲学」の一派としての陽明学の存在を,西洋のシノロジストたちにまで認知させる契機となった。
第3章では,漢学は現実世界の「支那」との交際において実用的な役割を果たすべきである,具体的には,従来のような古典文献のみならず,中国語や実際の中国の地理・制度などを学び,同時代を生きる存在としての「支那」へ積極的に関与していくための道具となるべきである,という考えについて検討を行う。このような考えは「支那学」や「実用支那学」などと呼ばれ,早くも明治10年代には漢学者の重野安繹がこれに近い考え方を述べていた。また清国への長期留学を経験して本場の中国古典学を学び,後に外交官となった井上(楢原)陳政は,自身の体験をもとに具体的な「実用支那学」の構想を作り上げた。明治30年前後になると,当時の学生の目に旧態依然なものとして映っていた帝国大学漢学科を改革すべきであるという議論が漢学科の学生からも発せられ,教員排斥運動や漢学科廃止論まで起こった。これらの議論に対し,島田重礼など既存の漢学者たちは沈黙を守り,内側からの改革の動きは見られなかった。それらの漢学者たちにとって,上述の改革論があまりに自分たちの現状から現実離れしすぎていて反論の仕様がない,反論は得策でないと考えられていたのかもしれないし,あるいは自らの能力の限界を自覚した上で,自分たちは漢学の過去の知的遺産を発掘することに専念し次代に改革の希望を託すべきだとの思いが働いていたのかもしれない。結果から見れば,帝国大学漢学科の学風は,上述の改革論から影響を受けることなく,文献考証を中心とする島田重礼の態度が継承されることとなった。
第4章では,東京帝国大学における漢学および「支那哲学」,具体的には島田重礼の後継者として,帝国大学哲学科出身の服部宇之吉が選抜された理由について検討を行う。先行研究においては「孔子教」論の主唱者としての側面,あるいは西洋哲学と「支那哲学」を融合させ,そこに「国民道徳」的要素を加えた,「支那哲学」の近代化(および日本化)の立役者(イデオローグ)という印象が強い服部宇之吉であるが,その初期の著作においては儒学や孔子について論じたものはほとんどなく,また西洋哲学と「支那哲学」を安易に融合させる姿勢も見られず,むしろ道家を含めた諸子学についての考証的な関心が見られ,この点において服部は島田重礼の影響を受けていたと言える。服部が後継者として選抜された理由については,彼が哲学科出身であり,西洋の視点からの漢学の近代化を期待された要素が全く無かったとは言えないであろうが,それよりも服部が島田の学風を忠実に継承できる人物であったということに着目すべきである。また,服部が後継者として選ばれたということは,具体的には服部を(助教授就任に必要な半ば手続きとしての)海外留学に送り出す計画が学内で定まったということであるが,その背景にあった当時の留学生推薦制度や,服部と親交の深かった外山正一がその留学生選抜において一定の影響力を持っていたことなども併せて検討する。
第5章では,服部が自身の儒教解釈を作り上げる初期段階の思想について検討する。主な分析対象となったのは,服部がドイツ留学中に執筆したと思われるドイツ語小冊子Konfuciusであり,そこに現れた「人格」や「天命」といった重要概念に着目しつつ,その背景には,当時日本で積極的に受容されていたグリーンの倫理学(とりわけ自我実現)や,ヘルバルト主義教育思想など,西洋思想からの影響を見て取れることを指摘する。また,服部と同じく,西洋哲学を学びながら儒教および孔子について論じた人物として大西祝がいるが,大西は儒教について,実践的な道徳としては有用であるものの,普遍性を追求する「哲学」としては限界があると見なしており,儒教を西洋哲学によって基礎付けつつ積極的に評価しようとした服部との間には一線を画していた。
第6章では,服部が「孔子教」論を形成していく過程について分析を行う。先行研究でもしばしば指摘されている通り,それは辛亥革命およびその後の康有為らによる「孔教運動」への危機感の中で形成されたものであった。服部は,自ら北京の京師大学堂で長年教鞭を取り,清国の教育行政改革にも参画するなど,現実世界の「支那」に対しても豊富な知見を有していたが,しかしその基本的な方法論は,古典の解釈によって「支那国民の思想」の底流を把握し,そこから歴史的にあるべき姿としての中国像を描き出すとともに,そのあるべき姿との距離に基づいて現実世界の「支那」を評価しようとする態度であった。辛亥革命の直後,服部はしばしば古典や歴史上の制度を分析することによって,現実に生じている政治的変化を冷静に(あるいは矮小化して)捉えようと試み,また康有為の孔教運動を,中国本来のあり方や正統な古典解釈から逸脱するものとして批判していたが,やがて理想と現実との間に埋めがたい差が生じるようになると,彼は現実世界の「支那」への関心を失っていった。
補論1では,東京(帝国)大学における漢学および「支那哲学」形成の重要人物でありながら,これまで正面から研究対象とはされてこなかった島田重礼の人物像について『篁村遺稿』をもとに描き出す。
補論2では,明治30年前後に種々の陽明学研究が勃興する以前における陽明学への関心について,とりわけ井上哲次郎に着目しながら分析を行う。従来の陽明学研究においては,井上が「三部作」の第1作として明治33(1900)年に出版した『日本陽明学派之哲学』に注目が集まる傾向にあったが,井上の陽明学研究は何も無いところから唐突に生じたものではない。特に明治20年代における井上の問題関心や,あるいは同時期において陽明学が漢学および「支那哲学」研究の文脈の中でどのように取り扱われてきたのかを分析することで,井上の陽明学観が必ずしも最初から『日本陽明学派之哲学』において示されたような形をしていなかったことを明らかにする。