本博士論文では、古代国家によって「蝦夷」と呼ばれた東北地方北部の人々の社会の実態を検証する。従来「蝦夷」をめぐる議論は、「蝦夷」対古代国家という二項対立図式に陥る傾向があった。また東北地方北部に所謂「末期古墳」やカマド付竪穴建物、土師器等の文化要素が広範に浸透していることが認められながらも、それらは全て「蝦夷」社会側が古墳文化を受容したものとする、文化伝播論的な捉え方が通説であった。こうした前提に立つ限り、いかに東北北部の考古学資料を膨大に集め精緻に分析しようとも、古代国家の内部とは異質な人々の歴史という枠を脱することは出来ない。

 しかし、古代国家の中枢たる畿内地方と東北北部との間には、広大な「中間地帯」が広がり、特にその周縁に位置する関東甲信越や東北地方南部の人々は、古墳時代後期以来、東北北部との間に、必ずしも古代国家が把握しえない独自の交流をもってきた。住居や墓制といった内面生活に関わるレベルにおいて、古墳文化の要素が東北地方北部へと浸透したのはその証左といえよう。さらに「蝦夷」と「中間地帯」の双方には、「東北北部」や「関東」といった大きな地理的枠組みでは掬いきれない多様な地域性があり、小地域間での文化的諸要素の異同が、よりミクロなレベルでの交通を示す手がかりとなりうる。

 本論文では、東北地方北部の社会の動向を、「中間地帯」の周縁に属する東北南部~関東甲信越との多系的・重層的な交通関係のダイナミズムにおいて捉え、古代国家が「蝦夷」を分断していく過程と、それに対する東北北部・「中間地帯」双方の諸地域の主体的動きを検証する。その指標として、有力者層によって造営されその世界観を反映する墓制、有力者層より広汎な人々によって営まれその生活空間に対する意識を反映する竪穴建物、さらに生活に不可欠な先端的技術の一つである鉄器生産の技術系譜を最もよく反映する鉄製鍬先に着目する。

 第1章では、「蝦夷」とよばれた人間集団の属性や、その地域的分節関係に関わる研究史を整理する。「蝦夷」を倭人に対する異「人種」・異「民族」とする説と、倭人との差異を認めず単に国家に属しない「辺民」とする説は、戦前以来長らく対立してきたが、戦後の考古学や地名研究の進展によって、現在は前者が通説化している。しかしその過程で、「蝦夷」と古代国家の二項対立図式が成立するとともに、太平洋側と日本海側との文化的な非連続性や、「東国」という「中間地帯」の人々の主体性といった、東日本全般の地域分節に関わる視角は後退する。本章ではその過程を跡付け、失われた視角のもつ意義を再検証して、本論文全体の研究史上の位置を示す。

 第2章では、墓制を通じて「蝦夷」社会と「中間地帯」との交通を考察する。7世紀から10世紀、東北地方北部に営まれた所謂「末期古墳」は、通説では東北北部の社会が古墳文化を受容したことにより成立した「蝦夷」独自の墓制とされる。しかし、「末期古墳」には主体部の構造や墳丘上への遺物の供献方法、副葬品の内容等に多様な地域性が認められ、その各々の要素を東北南部~関東甲信越の後期古墳と比較すると、特定地域間に濃厚で直接的な連関性が認められる。すなわち土坑系「末期古墳」には「常総中央部」(千葉県東京湾岸北部から霞ケ浦沿岸)の集団の、礫槨系「末期古墳」には関東西部~北西部(神奈川県西部、東京都西部、埼玉県西部~北西部)の集団の直接的影響が認められる。一方続縄文文化の墓制と「末期古墳」との共通要素は全く認められない。このことから「末期古墳」は、古墳文化側の祭式・世界観がそのまま東北北部に流入したものと考えることができ、その背景には東北北部社会による古墳文化の受容ではなく、古墳文化側からの人間集団そのものの移動を想定しうる。移動の動機には、馬産や琥珀採掘の新天地を求める動きのほか、律令国家形成のため統制を強める古代国家から退避する社会的気運が考えられる。さらに8世紀後半以降、土坑系「末期古墳」は「円形周溝」へと変容し、石狩低地帯や横手盆地を経由して日本海側の集団へと伝わり、9世紀後半から10世紀前半、東北北部日本海側を通じた秋田県米代川流域や青森県津軽地域への新たな移民とともに、これらの地域へと進出する。

 第3章では、集落遺跡を構成する基本単位であるカマド付き竪穴住居の系譜を、特にカマドの位置や煙道の構造、カマドの芯材等の構造に着目して分析する。カマド付き竪穴住居は古墳文化圏から東北地方北部へと流入した文化要素の一つであり、その形態は地域により様々である。6世紀後半以降の関東甲信越・東北南部のカマド付き竪穴住居は、北側を中心とする壁の中央にカマドを設ける太平洋側系と、南側を中心とする壁の偏寄した位置にカマドを設ける日本海側系に大別される。7~8世紀、東北北部太平洋側で太平洋側系住居が密に展開し、一部は日本海側の鹿角地域や津軽地域に進出する。一方、道央・道南や日本海側の横手地域では、両系譜の住居が併存する。さらにカマドの煙道や芯材に注目すると、芯材に切石等の石材を用い、短煙道・無煙道を一定数含む関東地方太平洋側沿岸部の特徴が、二戸・三陸・八戸地域と道央・道南の太平洋側系住居に認められる一方、芯材に長胴甕や筒形土製品を用いる関東地方内陸部の特徴が、盛岡地域や上北南部地域、津軽地域の太平洋側系住居に認められ、各々に、小地域間の緊密な連絡が想定される。9世紀に入ると、東北北部太平洋側では、依然太平洋側系住居が主体だが、道央・道南や東北北部日本海側の太平洋側系住居は断絶して日本海側系一色となる。そして9世紀後半~10世紀前半、米代川流域と津軽・青森平野に日本海側系住居が爆発的に増加し、岩手県安比川流域や青森県上北北部地域等を通じて太平洋側へも進出して、両系譜の交流が生じる。なお津軽・青森地域の日本海側系住居では、カマドの煙道構造や袖芯材に前代の太平洋側系の要素を遺した津軽在地系と、米代川流域の様相に近い外来の米代川系の二系統が、長期にわたり併存する。こうした錯綜の後、10世紀後半~11世紀の集落再編に伴い、東北地方北部全体に日本海側系住居が浸透する。

 第4章では、製造工程の複雑さや規格性の高さから、鉄製品の製造技術の系譜の指標として特に有効性の高い鉄製鍬先に注目し、全体および風呂の規格の比較によって、東北地方北部と「中間地帯」との関係を探る。7世紀代、東北地方南部以南の鉄製鍬先は、古墳時代後期の横長の凹字形を呈するものから縦長のU字形を呈する新規格の「新U字形鍬先」へと急激に変化し、11世紀代までほぼ同一の規格を維持する。その背景には律令国家による生産活動の統制が想定される。一方東北北部太平洋側では、7世紀後半代、古墳時代後期の関東・南東北の系譜を引く多様な鉄製鍬先が独自に製造され、9世紀後半以降の鉄生産の飛躍的に進展とともに、「新U字形鍬先」とは異なる東北北部独自の規格の鍬先が成立し、太平洋側・日本海側双方に展開する。その背景には、太平洋側・日本海側両地域間における鉄器生産技術の交流が想定される。

 第5章ではこれらを踏まえて、『六国史』を中心とした文献史料と考古資料との比較を行う。7世紀代、集落遺跡が皆無である日本海側に阿倍比羅夫の遠征記事が見られるのに対し、集落が多数分布する太平洋側に関する記事がほぼ皆無であることは、「末期古墳」や竪穴住居が示す関東甲信越と東北北部太平洋側との密接かつ複雑な関係を、倭王権が十分把握しきれなかったことの反映と考えられる。その後8世紀を通じても、中央政府の東北北部に対する直接介入は進まず、8世紀後葉の征夷戦争の発端も、陸奥産金や新興豪族道嶋氏らが主導する位階・氏姓獲得競争等、政府が管轄しきれない諸勢力の利権抗争により、宮城県北部で、本来外見上区別がなかった「蝦夷」と非「蝦夷」の軋轢が顕在化し、社会不安が増大したことにある。「蝦夷」の実態を把握しないまま、中央政府により「征夷」のための大規模な戦時体制が創出されたものの、戦闘は殆どなく、集積した物資や人員を使って王臣家や現地軍官による交易や開発が横行する。これを察知した桓武天皇により胆沢地域の武力制圧が強硬に遂行された結果、東北地方太平洋側は「蝦夷」・非「蝦夷」ともに疲弊し、新たな北方交易や開発の場として東北北部日本海側が浮上する。文屋綿麻呂らによる三陸・二戸攻略が始まると、出羽守大伴今人らは、こうした日本海側の交易ネットワークの発展を背景に、現地勢力と連携して東北北部太平洋側の情勢を把握し、二戸・八戸・三陸地域の勢力との停戦に主導的役割を果たす。この結果、東北北部日本海側・道南・道央で日本海側系の優位が確立したことが、太平洋側系住居から成る集落の断絶等に対応すると考えられる。また最後まで国家の脅威とされた「津軽蝦夷」は、上北南部から津軽平野にかけて分布する、長胴甕をカマドの芯材とする竪穴住居を営む集団と考えられ、その後9世紀後半、「津軽在地系」の住居を営む集団として存続し、元慶の乱の文献に登場する「津軽俘囚」へとつながる。

 このように、国家によって「蝦夷」と呼ばれた人々は、7~8世紀代、東北北部と古代国家の「中間地域」周縁部の多様な要素の影響を受ける一方、続縄文文化の要素を殆どもたず、末期古墳や鉄製鍬先の様相からも、関東甲信越からの移民と考えるのが妥当である。彼らは特に住居構造によって太平洋側系と日本海側系に大別され、当初太平洋側系の集団の方が圧倒的に多数かつ多様であった。しかし8世紀後半から9世紀初頭の中央政府の直接介入に伴う社会変動により、日本海側系の集団が台頭して両集団間の交流が進み、10世紀後半代には、東北北部全域での物質文化上の統合が生じたといえる。