楳茂都陸平の「新舞踊」の研究 ―鷲谷家所蔵舞踊譜の解読による再検討―

桑原 和美

 本論文は、大正期から昭和初期にかけて、宝塚少女歌劇団(以下、宝塚)・松竹楽劇部(以下、松竹)・楳茂都舞踊研究所を主な場として、振付家・演出家・舞踊教師として活躍し、近代的な新しい形式の舞踊を追求してその振付と上演に熱心に取り組んだ舞踊家・楳茂都陸平(1897-1986)の「新舞踊」について、鷲谷家所蔵の未公開資料(「楳茂都資料」)を用いることにより、彼の「新舞踊」の活動と作品を詳細に明らかにし、その全体像を再検討したものである。特に、舞踊譜の解読とそれによる再現演舞に基づき、具体的な作品に関して、舞踊動作や移動の軌跡、動作と音楽の関係、群舞構成といった振付の細部に立ち入り、これまで知ることができなかった彼の「新舞踊」の実像とその特徴を明らかにしたところに本論文の意義がある。

 近代日本における舞踊の改革を理解する上で、「新舞踊」が概念としても、また実態としても重要な意味を持っていることに疑問の余地はない。しかし、概念については一般的な辞典類や参考文献ではほぼ一定した説明がなされているにも関わらず、研究者や評論家による議論ではそれぞれの認識の違いが示され、統一的な概念が存在するわけではないことが明らかになっている。そこで「序章」では、「新舞踊」が登場した大正期、隆盛した昭和初期、そして昭和戦前期から戦後期以降において、その言葉の意味や実態が変化してきたこと、特に戦時下での国策としての舞踊統制が現在の「新舞踊」の一般的な認識に大きく影響していることを指摘した。さらにこの章では、先行研究や参考文献において楳茂都陸平(以下、楳茂都)の「新舞踊」がどのように認識されているかを確認したのち、本論文全体の構成と「楳茂都資料」について説明した。

 第1部「楳茂都陸平の『新舞踊』の背景」は2つの章から成る。

 第1章「楳茂都流の伝承と革新」では、上方舞楳茂都流に創流時から引き継がれる改革の精神、舞や振付の心得、楳茂都流独自の舞踊譜(型附)の特徴と伝承方法、また二世扇性の「浪花踊」の振付における革新的実践、さらに日本の近代舞踊改革の祖とも位置付けられる坪内逍遙の舞踊改革論や彼が脚本を書いた《和歌の浦》の上演における楳茂都と二世扇性の協同振付の内容等、楳茂都の「新舞踊」に直接的・間接的に影響を与えたと考えられる要因について論じた。

 第2章「明治期から昭和初期における西洋舞踊受容」では、明治政府の欧化政策を背景に、西洋の文化が積極的に受容され、人々の考え方や生活が大きく変化する中で、西洋舞踊が日本にどのようにしてもたらされ浸透していったのかを、政治的社交、学校教育、音楽教育の観点から考察した。さらに、西欧で舞踊を直接見た人々の発言、舞踊家の来日公演、雑誌に見られる西洋舞踊への関心等、当時の日本における西洋舞踊受容の具体的な様相を明らかにした。

 第2部「楳茂都陸平による『新舞踊』の活動」では、大正期から昭和初期における楳茂都の「新舞踊」活動を4期に分け、各期の上演活動、作品内容、舞踊観について考察した。

 まず第3章「初期宝塚少女歌劇における楳茂都の新舞踊(1917‐1921)」では、楳茂都が宝塚に舞踊教師として入団した1917年7月から松竹に移る1921年10月頃までを対象に、新舞踊家として一歩を踏み出した時期の作品や発言内容を検討し、《春から秋へ》とその後の「新舞踊」活動に結びつく舞踊改革への意思と具体的な実践について考察した。

 次に第4章「松竹楽劇部における楳茂都の新舞踊(1921‐1924)」では、楳茂都が松竹設立準備期間から設立後約1年の間に取り組んだ活動の内容、舞踊手の教育や振付・上演作品について明らかにするとともに、宝塚から松竹へ移籍した原因と彼の「新舞踊観」との関連に言及した。

 第5章「楳茂都舞踊協会と第二期宝塚少女歌劇の時代(1924‐1931)」では、松竹を辞めて再び宝塚に復帰した1924年から欧米舞踊視察に出掛ける1931年2月までの、楳茂都による「新舞踊」の活動内容とその特徴について述べた。この間、特に彼の私的研究機関として設立された「楳茂都舞踊協会」及び「楳茂都舞踊研究所」の活動についてはこれまで実態がほとんど分かっていなかった。そこで本論文では、「楳茂都資料」にある同協会発行の機関誌の記事や写真に基づいてその具体的な内容を明らかにした。またこれと平行する、楳茂都にとっては第二期に当たる宝塚での「新舞踊」作品やこの時期の舞踊観についても論じた。

 そして第6章「欧米舞踊視察(1931‐1934)」では、3年余に及んだ視察の背景と目的、また視察期間中に観た様々な舞踊や、舞踊家・体操家との会談、日本舞踊の紹介、舞踊家達との交流といった幅広い活動について考察した。特に、古典的な技法に基づく日本舞踊と現地の舞踊団に振付した新舞踊《ソナタ・アパショナータ》の両方を上演したウィーンでの「JAPANISCHER TANZABEND(日本舞踊の夕べ)」と、レクチャー(解説)とデモンストレーション(演舞)を組み合わせた独自の形式による日本舞踊の紹介が、西欧における日本の文化・芸術に対する新たな認識につながる国際的な文化事業として大きな意義を持つものであったことを指摘した。

 第3部「楳茂都陸平の『新舞踊』作品」は、第7章「大正期の新舞踊《春から秋へ》」、第8章「昭和初期の新舞踊《ソナタ・アパショナータ》」、第9章「大規模化する新舞踊」の3つの章から成る。各章では、楳茂都が記した舞踊譜を翻刻・解読し、さらに一部の作品については、振付を再現することにより、上演当時の観賞記や批評といった文字資料からは知ることのできない作品の詳細を明らかにするとともに、それぞれの舞踊の特徴を考察した。

 第7章「大正期の新舞踊《春から秋へ》」では舞踊譜の解読に基づく分析から、使用された動作の特徴、動作と音楽の関係、群舞構成等について考察した。その結果、《春から秋へ》では日本舞踊の動作用語が多く用いられている一方、西洋舞踊(バレエ)の技法的な用語は使われていないにも関わらず記譜の絵図や再現演舞映像からは明らかにバレエを参考にしたと推察される動作やポーズが見られること、加えて舞楽風の動作を振付に取り入れようとしたことなど、具体的な舞踊動作が明らかになった。また原田潤作曲の音楽と舞踊との関係、特に群舞における音楽の捉え方の特徴についても理解することができた。こうしたいくつのも先進的な試みが一つの作品上に示されることにより、《春から秋へ》はそれまでにはない新たな舞踊形式の先駆として大きく注目されたのである。

 第8章「昭和初期の新舞踊《ソナタ・アパショナータ》」では、1931年1月の宝塚の愛読者大会で試演し、同年10月に舞踊視察先のウィーンにおいて現地の舞踊団に振付・上演した《ソナタ・アパショナータ》について、舞踊譜を解読し、それに基づく再現演舞を行うことによって、舞踊動作、音楽と舞踊の関係、群舞の構成を中心に作品の詳細と振付の特徴を具体的に明らかにした。同作品の舞踊譜は、楳茂都流の記譜法を基本に、縦書きの時間軸に沿ってその横に舞踊動作や群の構成等が言葉、絵図、記号によって記されたものだが、楽譜の練習番号・小節番号・音楽記号が多く記載され、また舞踊の動作や群舞、特にグループ編成と位置の移動の複雑な構成に関する記述が《春から秋へ》や他の舞踊に較べて非常に詳細である。またテーマに関しては、特に第1楽章で繰り返される舞踊動作から、何か彼方にあるものを追い求める気持ちと、失意・寂しさ・諦め・悲しみ・不安といった対照的な感情が想起され、さらにこれらが交互に組み合わされていることから、この作品が異なる二つの感情の起伏や変化を表現していたことを指摘した。動作と音楽との関係については、音楽の提示部が再現される箇所では、舞踊も提示部で行われた動作が基本的には再現されているが、ただし単純な繰り返しではなく、身体の左右や舞台上の位置及び方向の反転、さらに舞踊手の配置が連続して入れ替わる複雑な構成であることがわかった。さらに群舞についても、グループの人数、メンバー構成、位置、方向、隊形が常に連続して変化することが明らかになった。そして、こうした振付の実態と当時の彼の舞踊観とを照らし合わせると、まず音楽を聴くことで掴んだ「気分」を基にテーマを決め、さらに音楽の構造をよく理解したうえで、複雑で変化に富んだ構成とダルクローズやボーデといった律動運動の動作を積極的に取り入れることによって新しい舞踊形式を創り出そうとしていたことが推察できる。

 第9章「大規模化する新舞踊」では、1931年、1936年、1951年に上演された楳茂都の代表的な群舞作品《裸山の一夜》について、舞踊譜に基づき、大人数による群舞の隊形変化を中心にした振付の特徴を考察した。加えて、戦前期に連続して創作された《出埃及記》《タンホイザーの幻想》《蟻》《總力》といった大群舞を取り入れた作品の舞踊譜を読み解くことにより、この時期の振付においては、舞踊手一人ひとりの多様な身体の動きよりも、集団性とそれが生み出すパワー、統制のとれた演舞や統一的な構成美を示すことに重点が置かれていたこと、またそこには時代と社会の求める価値観が反映されていたことを指摘した。

 そして「結び」において、各章で明らかにした楳茂都陸平の「新舞踊」の多様な活動と、舞踊譜に基づいて明らかになった新舞踊作品の特徴をまとめ、彼の「新舞踊」の全体像を改めて理解するとともに、本論文の成果を踏まえた今後の課題について述べた。

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