天地万物を分類し、各類目に関連する内容を過去の書籍から抜き出してこれを配列する類書は、曹魏の『皇覧』をはじめ、梁の『華林遍略』、北斉の『修文殿御覧』など、魏晋南北朝期に数多く編纂された。章学誠は漢唐間学術の変化を論じた際、この時期に新たに出現した書籍として類書・文集・書鈔・評選を挙げ、漢代の『七略』の分類法が不可避的に四部分類法へと発展した要因であると指摘した。また、類書は魏晋南北朝期に主導的地位を占めた門閥貴族の、過去の事例を類聚する伝統主義に基づく文化の代表ともされている。このように、類書は漢唐間の文化・政治を理解する上で重要な手がかりとなる。本論の目的は、中国中古時代の類書が、如何なる背景と目的で編纂され、如何なる時代像を反映しているかという、中古類書の政治的・文化的意義を明らかにすることにある。

本論ではこの問題を解明するために、貴族が社会・文化・制度のあらゆる面で指導的位置に立っていたと考えられている魏晋南北朝期に、皇帝は学校教育や類書編纂などを通じて、如何にそうした指導的地位を貴族から回収し、政治・文化を統合・再建したか、この過程に下級士人層が如何なる対応を示したかに焦点を合わせた。問題提起と先行研究をまとめた序章と、結論と展望をまとめた終章の他に、以下の六章にわたって中国中古の類書と士人社会を論じた。

第一章と第二章は、類書が誕生・発展した魏晋南北朝期の学術状況と士人・皇帝の関係を、国学と学館の設置状況から検討した。第三章から第五章までは具体的に南北朝隋唐期の類書とその編纂について論じた。第六章は目録上の類書に関する問題点を提起し、唐宋期類書観の発展について検討した。以下で各章の内容を紹介する。

 第一章は、なぜ南斉では他の時代と異なって皇太子の死によって国学が廃されたのかという点に着目し、魏晋南朝における官学の性格をその設置・沿革から検討した。その結果、各王朝とも皇帝権力を強化するために官学の設置を絶えず目指したことを明らかにした。東晋南朝が官学を設置するにあたって対象とした学生はすべて高門士族の子弟である。しかし、儒学に関心を持たない、さらに身分の低い学生と交わって学習することを好まない高門士族の子弟は、太学ないし国学の入学を拒絶し続けた。結局、東晋南朝の太学・国学はその存続期間が短く、学生の教育と官僚の選抜という伝統的な役割を果たすことができていなかった。一方、東晋南朝における国学は往々にして皇太子や幼年皇帝が釈奠礼を執り行う前後に設置された。釈奠礼の「講経饋享宴会」という一連の過程において、皇太子の身分は「師弟子皇太子」と展開した。こうした釈奠礼を通じて皇帝権力を支える皇太子と貴族の身分を持つ国子生が上下関係を取り結んだ。以上から、釈奠礼は貴族社会の上に成立した東晋南朝の王権が貴族子弟を国家体系に取り込むための儀礼となったことを指摘した。

 第二章は、皇帝は如何にして文化上の権威を朝廷の主導の下に再建築したのかという問題を南朝の学館の歴史から検討した。第一章で明らかにしたように、太学・国学では高門士族を官学体系に収めることができていなかった。このような状況で、南朝の皇帝は既存の官学系統には含まれない学館という新たな施設を開設した。劉宋の周続之の学館から梁の五館まで、皇帝は建康の高門士族ではない下級士族、特に地方の士族の力を借りて高門士族も納得する教育・試験制度を少しずつ構築していった。士族の隠士に対する尊重と普遍的な礼学の重視を利用して、劉宋皇帝は長江中上流域の士族圏で活動する周続之や雷次宗などの人士を建康に招待し、建康士族と交流させて相互理解を増進させた。南斉では皇族・高官が大儒の劉瓛を支持することで中央・地方の士族を取り込み、梁では劉瓛の学生が中心となって皇帝の主導する官学体系の再建を推進した。この変化の中に、南朝で拡大した皇帝権力に結びついた下級士族が儒教の知識や蔵書を武器に政権に参加していく動向を見ることができる。以上のような学館を通じた教育政策と文化事業による教育の均一化と教育対象の拡大は、南北朝統一後における科挙の実施の基礎を築いたと考えられる。

 第三章は、類書が南朝で盛んに編纂された原因と南朝類書の特徴を検討した。唐代までの類書史を整理することで、『皇覧』を始祖とする意識をもちながら、経史子集にわたる幅広い分野の諸書の記事を引用することで、万事万物の知識を総合する目的で編纂された斉梁期から唐代前期までの類書初期類書と定義した。そして類書の始祖とされる『皇覧』の出現から唐初までの類書の典型となった『華林遍略』誕生までの間に三〇〇年の空白が存在する原因を、斉梁期の類書編纂の背景、及び曹魏と南朝の類書の差異から追求した。斉梁類書は皇帝の勅命で下級士族が参加して作成されたものである。漢代以前の知識を主とする『皇覧』に対して、斉梁類書は雑伝・地理書を代表とする魏晋以後の史書を大量に収録した。これにより魏晋の知識を含めて「典故化」しようとする斉梁類書へと類書が変化した。ここに新たな典型としての初期類書が生まれた。その背景として、朝廷には知識を収拾・整理して世に示すことで自らの権威を確保し、下級士族には書籍や知識を朝廷に提供することで自分たちのもつ文化資源をより価値のあるものにしようとする志向があったと指摘した。

 第四章は、南北朝類書のテキストの差異に注目して第三章で検討した斉梁類書の編纂の学術背景を考察した。南朝類書の引用文の序列は、これまで通説となっていた四部分類順や無順序ではなく、字書(あるいはそれに相当する書籍)を先頭に配置して経部書を続け、その後に書籍を並べるものであり、特に『華林遍略』においては他の書籍が時代順で並べられていることを明らかにした。このような構造は、南朝人士の事物を理解する認識方法を反映している。本章は、魏晋南朝の字書・経書・史書と文学作品に対する注釈の歴史を概観し、南朝類書の構造は、魏晋以降の学術における解釈方法(注釈)と同じく、史書を補充する傾向があることを明らかにした。斉梁類書は当時突如として出現したのではなく、その成立背景には魏晋以降の学術の発展、特に史学の発展が密接に関わる類書が魏晋南北朝時代に発展した背景には、史部書籍の生産と史学意識の発展拡張があり、これによって豊富な書籍を引用する類書が出現したのであると指摘した。

 第五章は、それまで南朝文学の北伝を象徴するものとして見られた『修文殿御覧』の編纂事情を再考した。北朝類書『修文殿御覧』は南朝類書『華林遍略』を底本にするものの、独自の北朝的な特徴を示した。『魏書』をはじめとする北朝の書籍を吸収して北朝の歴史と経学を類書に取り込み、引用書の配列も『華林遍略』の時代順から経史子集の目録順に変更し、北朝類書の伝統を受け継ぐ皇帝の参考書として政治に資する内容を引用書の先頭に配置した。このような変更は、南朝文化の流入と北朝固有の文化との衝突と折衷の結果である。また、『修文殿御覧』編纂の二つの階段とその特徴を分析した。第一段階では、南朝の人士が梁の武帝の事業を継承し、北朝で南朝的な類書を編纂することで自分たちの活躍の場を広げるとともに、魏晋南北朝の文化を統合しようとした。第二段階では、北朝人士が中心となって『修文殿御覧』の編纂を進め、『魏書』を『修文殿御覧』に取り込み目録順に引用書を並べ変えることで、中国古来の歴史を継承する正統国家として北斉を古今・南北の記録・歴史の中に位置づけようした。この編纂の背後には北魏分裂による北朝間の国家の正統性をめぐる争いもあったことを指摘した。

 第六章は、唐宋の目録が収録した類書の比較検討を通じて隋唐以降の類書の発展状況を再検討した。『旧唐書』経籍志から、少なくとも唐代中期までは『皇覧』を起点とする『華林遍略』『修文殿御覧』などの官撰書籍を類書とする『隋書』経籍志の類書観が継承されており、かつそうした類書観が主流だった。一方、『崇文総目』から宋代以降では分類の体裁が類書の第一の判断基準となった。『新唐書』藝文志は『旧唐書』経籍志が収録した「著録」書籍と『旧唐書』経籍志が収録せずに宋代前期成書の『崇文総目』などが収録した「不著録」書籍を合わせて収録したために、『旧唐書』経籍志の類書観と宋代以降の類書観を混在させてしまった。そのために、政治性の強い官撰類書は実際には唐代中期でもなお類書の中心的地位を占めていたにもかかわらず、目録上では新たに収録された大量の私撰類書に埋もれてしまい、唐代類書の実態が隠れてしまったと指摘した。

本論は類書について、旧来指摘されてきた文化的側面だけでなく、その政治的側面についても検討を及ぼした。類書編纂の基礎となった学術は魏晋南朝以来発展した貴族文化であるものの、類書編纂の直接の原動力は文化における指導権を門閥貴族から回収して知識を体系化しようとする皇帝の強い意思であり、また下級士族が学問を通じて政界に参与して昇進を図る動きにあった。魏晋南北朝の類書の担い手は高門士族でなく、皇帝と下級士族である。古典知識をまとめた類書が南朝で文化の正統性を宣揚する書籍となったことで、各王朝は類書を編纂する必要に迫られるようになった。斉梁類書の北伝に伴って南朝文化は南北に広まり、隋唐士族の教養ともなった。