これまで、明治期の日本造船業の発展の要因やその市場・需要の形成については、経営史・産業史の先行研究において、主として官・軍需と民需の二つの観点から説明されてきた。たしかに、この二つの観点からのアプローチは重要な視角ではあったものの、明治期日本の造船業の発展を考察する場合には、官・軍需と民需という日本の国内的需要だけではなく、外国からの需要に着目し、その性格と意義から検討する必要がある。

 一方、日本の近代造船業の発達発展における外国の役割、特に西欧諸国との関係については、これまでの研究史において、技術・人材・材料の供給源としての役割などからの研究の蓄積がある。しかし、明治期の日本造船業にとっての外国は、日本に対して技術・人材・材料の供給や産業の移植を推進する主体という側面だけでなく、日本の造船企業からすれば顧客、あるいは造船業経営上における船舶造修市場の客体としての役割を果たしていた点にこそ注目すべきだと考える。

 そこで本論文では、日本の造船市場の経営客体としての外需に着目し、明治期の造船業とそれに関連する外需事務について検討を加える。その上で、外需、官・軍需、民需の三者の関係に留意しつつ、明治期の造船業における外需事務の歴史的性格や外需に対する明治政府、とりわけ外務・海軍両省の態度について分析する。

 検討に際して、本論文では二つの視角からのアプローチをおこなった。一点目は、明治三〇年代以前における東京湾内の外国船修理問題である。東京湾内の長期的な船渠不足という条件下において、開港以来増大し続けた外国船舶の修理需要にいかに応じていたのかという問題意識から、外国の修理需要に対する関係官庁と造船所双方の対応について分析を加えた。二点目としては、視点を「修」から「造」へと移し、明治三〇年代以降の艦船建造についての外需事務、具体的には川崎造船所をはじめとする日本の民間企業による艦船の輸出について、①「武器移転(arms transfer)」の性格、②対韓国・清国外交、③民間造船企業の経営、という三つの側面から検討を加えた。

 

 本論文は序章と終章のほか、二部六章から構成されている。

 第一部第一章では、明治一六(一八八三)年の軍拡の開始までの期間を対象に横須賀造船所における外国船修理状況を分析し、外国船修理に関する明治八(一八七五)年の規則の整備過程や、その前後の時期における外国船修理に対する海軍・外務両省の積極的態度を考察した。また、外国船の修理事務の排除を、横須賀造船所の軍工廠化を目指す海軍の方針として理解する通説に対して再検討を試みた。その結果、明治一〇年代初期において、部外船修理工事の収入により艦船製造修理費の不足を補填するという横須賀造船所の経営策を明らかにした。さらに同時期の修理船の部外需要が軍需を圧迫したという通説に対し、むしろ外国船を含む部外船修理の収入によって造修船費の予算不足が、ある程度緩和されていたという、外国船修理の経営上の意義について、新しい解釈を提示した。 

 第二章では、明治一六(一八八三)年軍拡の開始以降を対象として、横須賀造船所における外国船修理の受け入れ状況を分析することで、横須賀造船所が、軍需に専念するため、生産していた民需品や修理業務の多くを放棄することになった、との先行研究に対して再検討を試みた。また、横須賀造船所の他に、石川島造船所の存在にも着目した。立地条件や設備条件の制約によって一部の小型商船しか受け入れられなかった石川島造船所をめぐっては、神奈川県庁と横浜税関の間で、外国船修理申請の許可権限をめぐる争いが生じていた。本章では、外国船の申請を審議する権限をめぐる外務省・神奈川県庁・横浜税関(大蔵省管轄)の三者の争論に注目し、外国船が東京に回航して修理を受ける場合に必要となる「税関決裁」の規則を通じ、申請手続きの自由度と効率を向上させようとした外務省の意図について検討した。

 第三章では、日清・日露戦間期に注目し、明治三二(一八九九)年に日本海軍が修理関係の外部需要を排除した理由と、石川島造船所浦賀分工場や浦賀船渠を代表とする東京湾内の民間造船所による修理部門の外需への従事の状況を検討した。日清戦後の海軍大拡張に伴い、在来艦の検査や汽缶換装、輸入主力艦の改造などの軍需に圧迫された海軍工廠は、やむなく修理船の部外需要を排除するに至った。一方、日清戦後に営業を開始した民間船渠は、横須賀海軍工廠の副業部門として、軍需によって排除された修理工事を受け入れた。特に浦賀では、石川島造船所浦賀分工場が主に軍需に協力した一方、浦賀船渠は大量の修理船の外需を受け入れるという、理想的な分業体制が確立していた。

 第二部では、艦船輸出の外需問題を考察することを目的として、日露戦争以前のフィリピンと韓国への輸出活動や川崎造船所による清国とシャムへの艦船輸出を検討対象として、それぞれ第四~六章を設けて、日本と輸出先諸国双方の視点から、艦船輸出の交渉過程を検討した。その上で最後に、明治三〇年代以降における艦船輸出の特徴をまとめ、艦艇建造の経験と技術が未だ十分ではなかった日本企業が外国政府の艦艇注文先として選ばれた理由や艦船輸出活動に関する外交・軍事両面での政府関与、民間企業が外国発注艦建造を通じて獲得した経済的な利益について考察した。

 第二部の三つの章では、民間企業による艦船輸出の検討に際して、まず造船所の経営上の視角から考察し、海軍省による注文価格の二倍にもあたる高価格で艦船を海外に輸出していた川崎造船所が、外需を通して高い利潤を得ていたことを確認した。また、三井物産についても、韓国への揚武艦の輸出のケースでは、二〇万円ほど多くの利益を得ていた事実が判明した。従来の研究では、明治期において川崎造船所が飛躍的な成長を遂げた要因について、民需=航海・造船両奨励法という、政府による保護政策の存在と、軍需=海軍の軍艦発注による利益享受といった、二つの観点からの理由の説明がなされてきたが、実際は、外需のもたらした経営上の利益が無視できないものであったことがわかる。当時の川崎造船所は、積極的に海外進出の経営策を打ち出し、艦船輸出の外需を通じて、建造経験と経済的利益を蓄積していった。こうして、大型艦建造に相応しい施設と技術力を徐々に整備し、明治末期までに飛躍的な発展を遂げたといえよう。

 しかし、いくら積極的な経営策を採っても、当時の民間企業の力だけで艦船を外国へ輸出するのは困難だった。「武器移転」という視角からみれば、日本企業の艦船輸出を、単純に外交・軍事的な要因から独立して展開されていた商行為として理解するのは適切ではない。商業的な競争を通してフィリピンへ砲艦を輸出しようとした浦賀船渠の経営上の失敗事例は、それを裏付けるものである。輸出が成功した事例の背景には、営利上の目的だけでなく、朝鮮半島の利権をめぐる日露両国の対峙や、清国の地方官との接近による艦船輸出を利用し、清国における日本の利権を拡大すること、あるいは相手国の海軍建設に対する影響力の拡大といった、日本側の外交・軍事上の意図があった。つまり、艦船輸出の成功には日本の国家関与が不可欠であったこと、その関与の度合いは相手国に対する政治的影響力の強弱と相関関係にあったことが指摘できる。

 終章では、本論文全体を総括した上で、艦船輸出の外需の性格について、船舶修理の外需とは大きな違いがあったことを論じた。船底の付着物の掃除や故障の復旧工事といった船舶修理の外需においては、明治期の日本の官民造船所は、外国交際に係る外需の特別な性格を常に考慮し、外国船の修理について可能な限りの便宜を与えていたといえる。一方、こうした定期点検・修理は、東アジア沿岸を往来する外国船にとっても必要不可欠な工事であり、定期的な需要が見込めた。

 だが、艦船輸出の場合、輸出先のアジア諸国が軍艦を輸入する理由のほとんどは、海軍力の増強という軍事的な事情によるものではなかった。明治期のアジア諸国が艦船を輸入する需要は、必ずしも輸出先各国の国防上の見地による「自発的」な需要ではなく、日本や第三国である列強によって創出されたものであった。いわば、輸出先のアジア諸国に対して「押し付けた需要」ともいえるものであり、国内政治や列強の割拠という、国際政治的な事情から生じた需要であった点は無視できない。以上から考えれば、外需の性格は、外国からの需要というよりは、むしろ日本側の「外交上の需要」あるいは「対外進出の需要」によるものだったと解釈するのが適切であろう。