大正7年、鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、類似の児童雑誌が続々と出版されるだけでなく、『中央公論』など総合雑誌や婦人雑誌、新聞も童話を掲載するようになった。こうした所謂大正期童話運動の担い手となったのが文壇作家であったことは、この運動が教育の問題というより、むしろ文学の領域の現象であったことを示している。日本の近代文学は、坪内逍遙の『小説神髄』をはじめとして写実主義を信奉し、非現実の空想を語る昔話や説話は正当な「文学」からは退けられてきた。寓話や昔話の系譜は児童文学に引き継がれたが、近代児童文学を先導した明治期の巌谷小波、大正期の鈴木三重吉、小川未明などは文壇の作家たちであり、彼らは小説によっては表現し得ないものを、文壇小説から切り離された《童話》の領域で実現しようとしたと考えられる。

 本研究は、近代小説から排除された《童話》の表現形式としての特質とその可能性を探る試みである。

 まず序論では、これまで《童話》がどのように定義づけられ、議論されてきたかを概観した。大正期から戦前には、文壇での《童話》創作と、昔話としての《童話》を分析する神話学等の《童話》研究とが、十分な交流を持たなかったがために、昔話として《童話》が持っていた特質が創作童話においてどのような効果を発揮しているかは論じられてこなかった。戦後の「童話伝統批判」のなかで古田足日らは童話の「象徴性」を批判したが、彼らの指摘は図らずも、昔話としての《童話》の特質として戦前に分析されていたことと重なっている。そこで本研究では、大正期の童話において、昔話としての《童話》が持っていた特質や象徴性がどのように生かされているかを論の中核に置くこととした。

 鈴木三重吉は『赤い鳥』の創刊にあたり、それまでの子どもの読み物、明治期のお伽噺を強く批判したが、昔話の翻案を基本とする『赤い鳥』の童話は、明治のお伽噺の強い影響下にありつつその刷新を図ったものと見ることができる。そこで第一部では巌谷小波のお伽噺に遡って大正期童話の性質を明らかにすることを試みた。また小川未明、佐藤春夫の実際の童話作品を分析することで、大正期童話運動の広がりを明らかにした。また第二部では大正期童話のなかで今日でも最もよく読まれている作家である、宮沢賢治の童話に目を向け、その作品に《童話》の表現形式がどのように生かされているかを分析することで、《童話》の表現としての効果を解明している。以下にその概略を示す。

 まず第一部第一章では、巌谷小波のお伽噺について、草双紙の表現手法がどのように受け継がれているかを、挿絵と本文との関係性、会話文の描き方、擬人化の手法などに着目して分析を行った。これにより、小波お伽噺は活版印刷にシフトするにあたって、草双紙が持っていた挿絵と本文との密接な関わりを新たな形で模索し、日常の事物が多様な擬人化によって躍動する作風を確立したことを示した。

 第二章では、『赤い鳥』の生み出した新たな《童話》文体の特質について、小波お伽噺との比較や、子どもの綴り方作品と童話作品との相互交流の調査を通じて考察した。『赤い鳥』は、慣用的表現や洒落に基づく小波お伽噺の文体を排除し、平易な語彙や単文構造で記述することで個人を超越した普遍的な「伝承の語り」を創出している。これにより、日常の事物や言語表現に密着した小波お伽噺の空想が失われた反面、普遍性、象徴性を獲得し、昔話が持っていた場面構成や語りの特質が一層鮮明に示されるようになったことを論じている。

 第三章では、文壇で活躍した大正期の童話作家として最大の存在である小川未明の代表作『赤い蝋燭と人魚』について、第二章で指摘した、《童話》の、昔話の語り手を装う語りと、子どもの心情を語る語りがどのような形で機能しているかを分析した。本作の語り手は、物語の中間部では子どもの人魚の心情に寄り添って語りつつも、結末では子どもの人魚の心情を語ることをやめて昔話のように町に起こる悲劇を語っていく。こうした語りの切り替えによって、本作が子どもの心を捉えきれないものとして描き出そうとしていることを明らかにしている。

 第四章では、初期のプロレタリア文学運動を先導した小川未明の「童話作家宣言」(大正15年5月)の意義を探りつつ、童話がプロレタリア文学のなかで果たし得た役割を考察した。未明は初期から社会的弱者を小説に繰り返し描いてきたが、大正後期には、「白刃に戯る火」をはじめとする童話の手法を取り入れた小説によって、資本主義社会を批判的に描き出した。また初期のプロレタリア文学には、童話の手法を用いた作品群が存在しており、社会を構造的に捉えて批判するため童話の表現形式が有効であると認識されたことを示した。

 第五章では、さらに文壇の大家であり、大正期童話運動にも携わった作家である佐藤春夫を取り上げる。春夫は自ら家の設計に取り組んだが、大正期はまさに住宅改良運動が興った時期であり、春夫の初期小説はこうした同時代の家をめぐる言説を取り込む形で、家を異世界や芸術創作の象徴として描き、それを《童話》のイメージと結びつけて語っている。さらに、春夫は初期小説で用いた家のモチーフを童話作品では物語の主軸に据えて描いている。このように文壇作家にとって《童話》は小説においても重要な芸術概念として機能し、それが実際の童話作品の創作に接続していることを明らかにした。

 第二部では、こうした大正期童話の中で今日でも最も評価の高い賢治童話を分析した。賢治作品は独自性が強調されるあまり、賢治もまた『赤い鳥』の創刊とともに、その影響下で《童話》を書いた作家であることは十分に検討されてこなかった。だが賢治童話は大正期童話の表現形式を独自の形で用いて、その可能性を押し広げた作家であると考えられる。

 第一章では賢治の初期の童話「よだかの星」について、『赤い鳥』童話と、文体や語りのあり方において比較し、物語設定に織り込まれている生物学的事項を調査した。これによって本作が『赤い鳥』童話の枠組みと語りに、自然科学の言説を取り込んで構成されていることがわかった。また本作において自然科学的に種や生命体として生物を捉える視線が、宗教的な思惟と重なっていることを明らかにした。

 第二章では、賢治が中央の雑誌に発表した数少ない童話として「雪渡り」を扱った。狐の幻燈会が当時の通俗教育幻燈会を模したものであること、また日露戦争等を通じて毛皮の入手のために狐が狩猟、養殖の対象となったことなど同時代の事象と照らし合わせることで、狐たちの真意を探った。さらに本作においては同時代の童話にも多く用いられている異界訪問譚の枠組みが、狐たちの企みを覆い隠し、狐たちの魔力を読者に及ぼす仕掛けとなっていることに触れ、本作が語りのレベルでも伝承世界を再興していることを示した。

 第三章では、童話「まなづるとダアリヤ」の改稿を分析し、小波お伽噺「菊の紋」との比較を行うことで、賢治童話が大正期童話の語りを生かしながらも、大正期童話が切り落とした小波お伽噺の表現を取り込んでいることを分析した。また晩年の賢治も参加していた菊花品評会やダリアの品評会の社会的意義が本作の改稿と関わっていることを調査し、互いに認識し得ない世界層の重なりを描く改稿がなされていることを明らかにした。

 第四章では、賢治が晩年まで改稿を行った童話「マリヴロンと少女」を取り上げた。初期形「めくらぶだうと虹」では、擬人化された事物の形態と主題とが高度にかみ合っていたのであるが、「マリヴロンと少女」への改稿によって人間の対話劇に変更され、宗教的な思惟が個人の生の葛藤とすれ違う様相が描き出されている。またこの改稿の背景には、「農民芸術概論綱要」や国柱会の国性芸術運動における言説と重なる側面があること明らかにした。

 第五章では、賢治の代表作であり、賢治が死の直前まで改稿を続けていた「銀河鉄道の夜」を、最終形態である第四次稿を中心に、改稿も含めて扱った。本作は大正期童話の語りや場面の構成を利用してジョバンニの「さびしさ」を作品の中心に据えている。また本作においては、銀河鉄道世界を描く比喩表現や、鉄道内の人々の間で反復される祈りの言葉が、祭の囃し詞の変形としてあることを論じた。これらにより本作は、個人の生は宗教的な命題によっても救い難いことを示しながらも、文学の表現のなかにこそ、刹那的な救済の瞬間を生み出しているのであり、これこそが賢治童話の達成であることを明らかにした。

 以上の考察を通して、近代の《童話》が、読みの方向性や作品イメージを強固に定めていく語りや構成を持っていること、その一方で作品の細部に、複雑な背景や同時代の文化的事象を織り込むことで、物語像を重層化し、その重なりのあり様によって作品の問題を提示し得る表現形式であることを考察している。そしてこの重層性を文学的な実験の場として利用し、その表現の多様性を示してみせたのが賢治童話であったことを明らかにした。