本論は、主に医療専門職による支配や社会統制の解明に重きを置く医療化論という視点とは別に、医療への「需要」や「消費」という視点、特に「自己の医療化」という視点から、精神医療について考察したものである。考察対象については、精神医療を扱った社会学的研究のなかで対象とされることが多かった入院施設としての精神科病院ではなく、外来の医療機関を対象とすることで、必ずしも精神病圏に属さないような疾患や症状に特化した分析を行なった。特に人々の日常生活の中で生じる心身の違和感や苦悩といったトラブルのうち、どのようなものが外来精神医療に持ち込まれ、それらに対してどのような治療や対処がなされるのか、さらにその帰結はいかなるものかという、プロセスや経路の解明を中心的な分析対象として位置づけた。
1章では、20世紀初頭から近年にいたるまでの間に、精神医療の外来部門や精神科診療所から形成される外来精神医療がどのように形成されてきたのかという点について、歴史的な視点から分析した。
2章では、精神疾患の診断や治療的アプローチに関して、1980年代以降に生じた主要な変化についてみてきた。このなかには、(1) 診断基準の改定にともない、人々の外側にある着脱可能なものとしてカテゴリー化されるようになった精神疾患、(2) 精神科薬物療法の拡大と脳神経化学的な知識の普及、(3) 認知行動療法の普及が含まれる。特に精神科薬物療法に関しては、欧米の社会学的な研究も一定数みられたが、このなかでは脳神経化学的な知識の普及が基本的な前提とされたうえで、旧来の自己観やアイデンティティに対する薬物療法の侵襲や治療の自己責任化をいかにして防げるのかというテーマが強調されるきらいにあった。そのため、「心の病」をめぐる生物医学的な解釈以外の要素、特に他の治療的アプローチや、病の存在を再定義するような「自己の医療化」に関しては、分析が手薄になりやすいという限界があった。この限界をカバーするための方法として、本論はナラティヴ-ディスコース研究アプローチの手法を用いている(3章)。
4章の分析から得られた主要な知見として、第一に、外来精神医療の間口の広さがあり、そこに持ち込まれるトラブルもまた、異なる内容やパターンを示すことが確認された。このなかには身体症状を主訴とするもの、職場などの社会環境を発生源とするものがみられた一方で、発症が「原因不明」であることを強調するものもあった。この背景にあるものとして、病を自称することや、「軽症」にもかかわらず医療機関を受診することを諫めるような〈医療化批判のディスコース〉が看取された。これとは対照的に、受診への抵抗感などが特に言及されず、自己診断や高い治療意欲をともなうタイプの通院もみられ、その症状についても、診断名に随伴する認知の特性を専門的な語彙で形容するようなケースもあった。また、病因の特定を試みる文脈において、「性格」や「人格」といった要素に焦点を当てるナラティヴは、生育歴や親子関係の精査を促進するようなディスコースに展開が誘引されることもあり、結果として過去の出来事を重層的に語るナラティヴが形成される様子もみられた。
このような医療化の促進と抑制が併存するタイプの医療化を本論では「不安定な医療化」として概念化した。「不安定な医療化」の帰結として、医療者とのあいだで精神的な病をめぐる共通の言語や説明の共有が困難になる結果、西洋医学を中心とする外来精神医療から離れていく様子もみられた。このうちの一つが「身体化」の語りであり、もう一つが、患者による自己診断と医師による自己診断とのあいだに生じる齟齬である。後者の自己診断は医師の判断を誤診とみなし、反駁する際の根拠になるとともに、患者の側が“真”の診断名や病因を探り当てていると解釈する場合には、精神科医のもとでの医療化に対する斥力にもなりうることが確認された。
5章では薬物療法に関する語りを扱ったが、このなかでは処方薬を指示・形容する言葉そのもののほか、その効果や用途についても複数のバリエーションがみられた。全体的な傾向として、薬効について肯定的な内容の語りであっても、状態改善に影響した薬効以外の要因が積極的に言及されることがあった。これはまた、薬物療法の効果の語りにくさが影響していると考えられ、この背景には主に欧米の先行研究で重視されてきたような脳神経化学にもとづく解釈が一般論としての理解に留まり、実感をともないにくいものであったことが挙げられる。一方で、薬物療法に消極的な語りでは、薬物療法が当人の人格や性格に侵襲的に作用する結果、薬への「依存」がもたらされるとする〈依存のディスコース〉が複数みられた。依存のディスコースは、服薬を回避する理由として用いられる傾向にあったが、一方で薬物療法によって人格や性格をめぐる問題は解決しない(あるいはしてはならない)という想定を暗黙のうちに前提とするものでもあった。また、これとは対照的に、薬効は「対症療法」にすぎず、精神的な問題の「根本」に到達できるような性質のものではないとする〈対症療法のディスコース〉もまた、複数の同一人物が平行して用いる様子がみられた。総じて、薬物療法をめぐるナラティヴにおいては、薬物療法(のみ)による「治れなさ」、ひいてはトラブルの解消の困難に関する語りがみられ、これが他の解釈や治療的アプローチを誘引する磁場のようなものにもなることが本調査から示唆された。
6章では、「根本」に働きかけるための主要な方法の一つでもある精神療法に関する語りを扱った。精神療法のなかでも、精神疾患の治療や実践的な対処法といった意味合いが強い認知行動療法については、その効果を肯定的に語る人もいた。この場合、認知行動療法は認知と行動を継続的に調整するための実践的かつ有用な技法として位置づけられると同時に、性格等の形成過程をめぐる思考を保留する点も肯定的に捉えられていた。他方で、CBTの実践には困難もみられ、これは、認知や行動という具体的な対象に定位し続けることの困難というかたちで現れた。認知や行動の発生源としては、一定の恒常性をもつとされる「性格」などが再び参照されやすい傾向がみられた。そのため、このようなケースは認知行動療法の言語体系のなかに留まらず、「性格」などをも対象とするような「根本的」な療法へと向かう傾向を示しやすい。一方で、「根本的」な療法も、日常生活のなかで実践し継続していくには困難も生じやすく、膠着状態にも陥りやすい。そのため、その後再び実践的な課題解決型のアプローチが求められるようになることもある。このように、精神療法をめぐる語りにおいては、実践的な問題解決と「根本」の領域を、その時々の状況に応じて往還するようなナラティヴが展開する過程が看取できた。
7章では外来精神医療の治療が終了する時点がどこに見いだされるのかを検討した。これについては明確に認識されるというよりは、「いつの間にか通院しなくなっていた」というようなかたちで、断片的に語られることも多かった。一方で、現在の状態や治療の展望が不明瞭になり、進展も特にみられないような場合には、精神疾患の実在をめぐる問題――そもそも自身は病であるのか、何が正しい診断であるのかなど――が生じることもあり、この疑問に応答する技術や説明様式の例として、精神疾患の精確な診断を謳う光トポグラフィー検査や「発達障害」をめぐる診断を扱った。さらに、外来精神医療の場に持ち込まれたものの、具体的な治療に直結しにくい「トラブル」として、対人関係や親子関係によって生じたトラブルは、人間関係の清算によって解決されうるという、ある程度の整合性を備えた語りもみられた。一方で、転職の選択肢の模索や、社会生活上の活動の幅を広げるという意味で「普通の人」に近づくことを目指すなど、自身の可能性を探求する、いわばトラブルの解消というゴールが先送りされるようなプロットをたどる語りもみられた。これらの背景には、どこまでが精神医学的な方法による変化が実現可能であるのかが明確に区別されない、換言すれば「医療化」の線引きが明瞭になされないという事態があると考えられる。外来精神医療は、心の問題を扱う専門的な医療機関でありながらも、その門戸が広く開かれているという点では、医療に対する期待を増幅させる、アノミーに近いものを醸成する側面をもつ。一方で、これまでみてきたように、医療化がなされないこと、あるいは自己診断の結果が医師によって認められないこともまた、患者の不満や失望につながりかねないというジレンマもある。このようにさまざまな価値観や方向性を有した医療化が錯綜する場が、外来精神医療の治療空間であるといえよう。
8章では、これまでの分析と考察を総括し、本研究の社会学的意義を論じた。社会学的意義としては第一に、比較的近年の自己論、特に自己やアイデンティティの移ろいやすさや不断の再創造を強調する自己論に対して、そこには一定の制約が生じやすいことを経験的に示したことがある。第二に、医療社会学、特に医療化論における本論の意義として、多種多様な医療――権威づけがなされた医療から商業的ないし疑似科学的な医療にいたるまで――が混交する「多元的医療」について、人々がどのような解釈や意味づけをしているのか、微視的な視点から分析したことがある。
以上