横光利一文学研究

邵 明琪

 小説を書くという営為は一言で言うと、表現を駆使して物語を紡ぐ作業なのだが、しかし、文学表現の形式は決して作者の掌で踊らされる受動的な存在ではなく、むしろ作者の一方的なコントロールに反作用を与え、作者の創作観=〈方法〉から逸脱しようとする「生命感」を絶えず発揮している自律的なものなのである。予定されていない〈意味〉を産み出し、作者の精神構造や現実感覚の変容を誘発する契機として、表現形式の自律性が常に機能しており、いかなる創作観に基づいて表現形式を構築していくかという〈方法〉上の問題は、事実上、作者の内面の問題と互いに密接に連動しているものと考えられる。〈方法〉の実現をめぐって悪戦苦闘する中、思想や現実認識など作者の精神構造が変革されたり、その変容や深化がまた作者の〈方法〉に揺さぶりをかけたりする、という動的なプロセスこそが、小説を書くという行為の本質なのではないかとも言える。このプロセスをいかに実証的に考察するかによって、小説の解釈ないし作家の評価は変わってくるのであろうと思われる。

 横光利一はその生涯にわたって、「虚構」の権威を守り、文学表現の自律性を最大限に発揮させようとする立場に徹し、大胆な実験的形式を模索し続けた形式主義者である。彼の作品からは、作者の精神構造や現実感覚と密接に連動してその変容を惹起したり、作者の想定外の小説内容を導き出したりしてみせる、表現形式の変革的な主体性を顕著に見て取ることができる。本論文は、このような特質に着目し、横光の小説作品の表現形式とその内実を読み解き、近代小説の表現史における横光文学の位置付けを探る試みである。

 文学表現そのものの持つパワーを理解し論証しようとすればするほど、単なる「影響関係」的な発想ではなく、文学表現、作者の精神構造、外部の歴史的・思想的状況の三者間の応答的かつ変革的な相互関係をより内在的、実証的に考察する必要を心に深く感じるようになった。したがって、「花園の思想」論と「上海」論に当たる前四章の部分では、文壇事情や歴史的状況と関連づけながら、作者と表現との格闘を如実に反映する小説の改稿経緯に迫り、言葉の自律性によって導き出された横光の現実認識の構造の変遷、そして単なるイデオロギー的装置とは異なるその内実を指摘してみた。第五章と第六章では、昭和五年前後に発表された横光の心理主義的創作「鳥」、「機械」、「悪魔」を取り上げ、文学ジャンルの問題や〈現実〉の扱い方、同時代の自然科学的言説の動向、そして形而上的主題の形成など、といった複数のテーマやモチーフが輻輳する小説の形式を分析してみた。その結論の延長線にあるのが、語りの〈破綻〉という戦略的な〈方法〉とそれによる〈意味〉の形成を考察した第七章「紋章」論である。第八章「欧洲紀行」論と第九章「微笑」論では、表現意識がいかに〈現実〉を凝視する作者の眼差しと一体化し、生々しい現実感ないし時代状況への批判精神に転化していったのか、さらにはその構造について、作者の思想的文化論的文献を渉猟しつつ検討してみた。以下、本論の概要と達成点を章ごとに示す。

 

 第一章「横光利一「花園の思想」論」では、「花園の思想」(『改造』昭二・二)の直筆原稿に基づいて〈時間〉と〈空間〉の語り方の問題に着目して横光の表現意識を検討し、「春は馬車に乗つて」(『女性』大十五・八)に続き、あえてもう一編の「病妻もの」が書かれた理由を明らかにした。〈時間〉を排除し、〈空間〉を装飾することによって、悲しみから逃げようとした主人公に再び客観的な〈時間〉の流れる現実世界が引き戻されるという、逆戻りにも見えるプロセスを析出した上で、このプロセスは決して単純に感傷にそのまま立ち戻るようなものではなく、その根底にあるのは言葉の形式美と現実性とを抱合させようとする意図である点を指摘した。

 第二章「横光利一「上海」論−−語りの構造からの考察−−」では、主に「上海」の初出の前四編(『改造』昭三・十一〜昭四・九)に範囲を絞って語りの構造の変容を検討し、「小説」を作者に対立するものとして外的に存在する「物質」と規定して構築していこうとした横光が、次第にその超越的独善的スタンスを崩されていくプロセスとして「上海」の創作過程を再考してみた。作中人物から一定の距離を置き、超越的な視点をもって「歴史的事実」とそこに巻き込まれる人物たちとの葛藤や運命を他人事のように冷静に伝えようとする、〈傍観者〉としての特権が解体されていくさまを明らかにした。

 第三章「横光利一「上海」論―「物質」から「精神」へ」では、作者と作中空間との相互関係の問題と横光の現実認識の変容を総合的に考察し、横光利一文学における小説「上海」の位置付けを試みた。上海の〈現実〉を「外界」の出来事として超越的に傍観しようとする立場が次第に〈現実〉に主体的に向き合う態度に変わっていった内面の変容が、表現形式を模索する中で生じた事態であったことを明らかにした。文学の自律的芸術性と社会的現実性との亀裂を埋めるために、横光が「上海」の創作を試み、しかもその執筆過程において〈現実〉の一員としての自分を発見していく事実を確認してみた。                                                                

 第四章「横光利一「上海」論−−−本文の異同について」では、初出(『改造』昭三・十一〜昭六・十一、『文学クオタリイ』昭七・六)、初刊本(改造社、昭七・七)、決定版(書物展望社、昭十・三)という「上海」本文の三つのバージョンにおける異同を検討した。登場人物のモデルや作中記述の典拠となる資料を紹介し、作者の創作スタンスの変化を論じた上で、国家の時代や立場の異なる複数の時代錯誤的なアジア主義言説を引用することによって、国家の対外政策に迎合するような言説から一線を画し、客観性を守っていく、という小説の構造を明らかにした。

 第五章「横光利一「機械」論」では、同語反復的な表現を多用する「機械」(『改造』昭五・九)のモダニズム詩的な文体が一人称の語り手〈私〉の感情の傾向と問題点を反映している事実を指摘した上で、この作品が同時代のプロレタリア文学の書き方では表現できなかった「広大なプロレタリアリアリズム」を描き出すことに成功しているという事実を論証してみた。横光が、当時の〈機械〉というモチーフの話題性と新奇性だけに興じているような創作から意識的に距離を取ろうとし、複数のテーマやモチーフを統括的かつ融合的に取り扱うことのできる視点と表現技法を目指していたことを明らかにした。

 第六章「昭和五年前後の横光利一における〈神〉の意義」では、「鳥」(『改造』昭五・二)、「悪魔」(『改造』昭六・四)を取り上げ、昭和五年前後の横光の心理主義的作品における〈神〉の設定の意味について検討してみた。すべての法則(=〈必然性〉)を上から規定する〈神〉という絶対的な原理の存在を想定することが、〈必然性〉=リアリティを感じさせる形で小説を構築しなければならないという近代文学の「暗黙のモラル」を相対化する視座を内包しており、こうした発想には、物語を破綻させていくという反逆的、破壊的な形式を導き出す契機が孕まれている、という事実を論証してみた。

 第七章「横光利一「紋章」−−〈破綻〉の一解法−−」では、一見中途半端な語りが作品の思想的批評性を生み出す効果的な構造として機能することがあるという点にこそ、「紋章」(『改造』昭九・一〜九)という作品の独自性と到達点があるという事実を検証してみた。この小説はあえて一貫性をもって主題を主題として語らないという方針で作られたものであり、特定の思想や立場を読者に飲み込ませるための作品とは根本的に異なっている。一人称語りの自壊という〈方法〉によって、日本主義・国粋主義的な意味での〈日本〉とは異なる〈日本〉の像が示唆されていることを明らかにした。

 第八章「横光利一「欧洲紀行」論」では、「欧洲紀行」(創元社、昭十二・四)を同時代の言説と照らし合わせながら、作品の根底にある〈変化〉というモチーフについて検討することによって、横光の欧州旅行という実体験に潜んでいた文学的磁場を示した。横光の文学創作上の主張や問題意識が必ずしも実体験と別次元に存在していたわけではなく、彼の異国へのまなざしと混じり合い重なり合っていた事実を検証することによって、「文学」への意識が作者の現実感覚にどれほどの影響があるかを明らかにした。

 第九章「横光利一の戦後と道元禅−−小説「微笑」を中心に−−」では、道元の『正法眼蔵』との関連性という観点から、「夜の靴」(鎌倉文庫、昭二十二・十一)などの作品や言説も参照しながら、「微笑」(『人間』昭二十三・一)に見られる〈狂気〉と〈追憶〉のファクターは道元の思想に因んだ設定であり、そこには横光の戦後意識が託されていることを論じてみた。物事を客体として事後的に「再現」できる合理的な道具としてではなく、書き手の理知の支配から完全にはみだした存在として文学表現を捉えようとする横光の創作観が彼の戦後のテクストにおいても受け継がれており、しかもそれがさらに「戦中/戦後」という分断的な〈時間〉構図への対抗意識と相まって、道元の教えにも通ずる実存主義的な観点に発展した事実を明らかにしてみた。

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