本論文は、相手国に関する知識が「外国研究」として築かれていく過程において、「ライブラリー」に収集され蓄積される情報資源は、いかなる役割を果たすのか。その役割が、どのような組織や資金や制度や人材の関わりのなかで実現されてきたのかを、文化資源学の立場から分析するものである。とりわけ、ライブラリアン福田なをみの生涯の軌跡を縦軸にすえて日米の交流を歴史的に考察するのは、この人物がアメリカ合衆国と日本の両国の多様なライブラリーにおいて活動したという、希有な経歴をもつからである。

 アメリカと日本とは、19世紀以降密接な関係をもち、相互に相応の外国研究の蓄積を擁する点で、本研究にとって戦略的な重要性をもつ。現在では地球上のあらゆる場所から瞬時に情報を受信することが可能になったが、異なる文化圏で発信された情報の意味の解読に、その文化圏に関する知識が必要であることに変わりはない。160年余りの近現代史のなかで、日本はアメリカとの間で開国に始まり、移民や戦争や占領などさまざまな交流を経験してきた。日米双方はどのような資料によって、またどのような方策によって相手国に関する知識を構築してきたか。

 異なる文化圏に関する正確な知識は、主として学術研究により築かれる。本論文では、ある文化圏(ここでは便宜的に国民国家を措定)を対象に、それとは異なる文化圏に属する主体が研究することを「外国研究」と呼ぶ。

 本論で扱う外国研究(日本研究およびアメリカ研究)のありようの変化は、日米の外交関係の開始から1世紀余りの間に起きた両国関係の変化にも左右された。アメリカの日本への関心は、国交開始後しばらくは実業家や宗教関係者が中心だったが、日露戦争の勝利によって日本の台頭が注目を浴びると極東の状況は学問的対象となり、太平洋戦争前夜に急速にそれが進展した。そして日米は二国間関係の極である戦争に突入し、その後の日本占領で二国の密接化はピークを迎える。占領終了後は「日本経験」を有するアメリカ人により日本研究が進められるようになった。この歴史的な展開の中で、日本とアメリカが相手国を研究対象とする際の資料や情報資源はどのようなものだったか。日本の場合とは非対称だったが、アメリカの場合は日本に関する研究にどのような素材が用いられ、その利用可能性はどのように広められたか。

 この問いを解きほぐすために、第二次大戦前、戦中・戦後の時代を通して活動した、日本研究ライブラリアンの草分けの一人、福田なをみ(1907-2007)を取り上げ、彼女の活動に沿って「外国研究」の展開を跡付ける。福田の現場は日米両国におけるライブラリーであったが、日本ではアメリカに関する情報を、アメリカでは日本に関する情報を扱った。彼女の軌跡を追うことから、日米両国が相手国をどのような情報資源から理解しようとしていたか、彼女は日本研究ライブラリアンとしてどのように米国の研究者の日本に関する調査・研究を支援したか、などを検討する。そして、日本の図書館界とアメリカの学界・図書館界との接点をつとめた一人の足跡と役割を明らかにすることを通じて、日米交流史を背景にしたライブラリーの情報資源を「外国研究」の研究過程の位相において捉え直し、情報資源と研究の関係を解明することに挑んでいる。

 第一章「日本の中のアメリカ、アメリカの中の日本―福田なをみの生い立ちと教育―」では、福田がアメリカ留学経験のある牧師の家庭に育ち、幼くして母を亡くし長く寮生活を送ったこと、1929年に東京女子大卒業後、来日宣教師の日本語教師となり、その過程でロバート・ライシャワーの日本研究の助手となって渡米しミシガン大学に留学、図書館学を学んで米国議会図書館(LC)で働いた後に1940年9月に帰国するまでを追った。幼少期から修業時代をたどると家庭環境でも教育環境でも、福田は、常にアメリカ人との関わりの中で生活していたことが判明した。英語を専攻した教育とは反対に、職業上、日本語あるいは日本についての知識を蓄積しなければならなかった。LCの日本語資料部門では、アメリカの知的世界において日本および日本語資料がどう扱われているかを経験した。

 第二章「日米親善から敵国情報へ」では、1940年から1941年にかけて福田が日本で収集を手伝ったLCの日本語資料と日本の帝国図書館の外国資料を比較し、違いを浮き彫りにした。戦時中、福田は大学図書館で和書および洋書の目録作業に携わり、また外務省で雑誌記事を選択する情報サービスを担当したことを明らかにした。その文脈を検討するために、日本におけるアメリカ研究の概況と情報資源の状況、および外務省の情報収集体制の概要を追った。相手国研究ならびにその情報資源収集への取り組みを比較すると、日米親善を期して収集・形成された相手国に関する知識・情報を担う資料群が次第に敵国情報資源へと性格を変えていった様相が明らかになった。

 第三章「軍政とライブラリー」では、福田が仕事をしたGHQ関係のライブラリーについて検討した。アメリカ政府は日米開戦前から戦争遂行のための情報資源収集に注力した。LCの日本語資料はその中核的な位置を担い、そこではとくに日本の現況を示す情報資源が求められた。日本語資料から次々に英文資料が作成され、それが占領政策の基礎的情報資源となった。敵国情報は軍事情報に限らず対象国全体の状況を把握しようとするもので、戦後、その手法がアメリカの外国研究の方法論に取り入れられ、地域研究へと変化していった。

 GHQ各部署のライブラリーは、部署の目的に応じて外部情報収集・蓄積、組織内の情報蓄積・伝播など、様々な用途で設けられていた。福田は軍政用ライブラリーならびに将兵用ライブラリーで仕事をしたため、これら両方のタイプについて概要や特質の把握を試みた。

 福田は、占領政策の一環であった国立国会図書館の創立期に関わった。議会用の図書館から全国民にもサービスを提供する図書館として同館が生まれ変わるための業務見取り図を描いたのはGHQにより派遣されたダウンズだが、福田は彼の助手として、彼と日本の図書館界との橋渡し的役割を果たした。その後、結核のため療養所にあったにもかかわらず、福田はミシガン大学や日本図書館学校から仕事の誘いを受けた。そのことには、アメリカの図書館人や日本研究者たちの福田に対する期待と信頼が示されている。

 第四章「国際交流から日本研究へ」では、国際文化会館図書室長時代の福田の足跡を追った。親組織の国際文化交流団体の性格に沿って福田も図書館の文化交流を精力的に行った。その代表例としてアメリカ図書館研究調査団プロジェクトを取り上げて詳論し、日本の図書館史における調査団の影響を評価した。福田が中心となって編纂・出版した『日本の参考図書』は調査団の成果の一つたが、同書はその後英訳されアメリカで日本研究の基本参考図書となった。

 国際文化会館図書室の蔵書に基づいたサービスでは、当初に計画された役割は海外思潮を表す書物の日本人学者への提供だったが、蔵書には日本関係欧文図書が増えて行った。主要利用者の来日学者の大多数が日本研究者だったこと、日本との交流で来日した文化人の多くが日本語が読めなかったこと、が、この変化の要因である。日本研究者支援の面では、日本語一次資料に関する情報要求に応えるのも福田の重要な仕事となった。

 第五章「アメリカの日本研究とライブラリー」では、福田が1937年、アメリカで日本語講師として本格的に日本研究と関わり始めたことから、最初にアメリカの日本語教育の発展過程を追った。研究資料の活用を左右する日本語能力の養成は、日本研究の情報資源環境形成と密接な関連がある。

 続いて二つのアメリカの日本研究図書館における福田の仕事を追跡した。福田がメリーランド大学で働いた1969年、GHQ歴史課長だったプランゲがアメリカに持ち帰った資料(主としてGHQの検閲資料)はまだ同大学図書館の倉庫に眠っていた。プランゲの資料の性質は、本来的にアーカイブズ資料であり研究の一次資料だったが、資料の大半が出版物であったため、メリーランド大学では図書・雑誌などの図書館一般資料として扱われ、アーカイブズ資料とは認識されていなかった。

 福田が次に赴任した1970年代のミシガン大学図書館では、研究の主力がおかれていた社会科学分野中心に日本語資料を広範に収集し、マイクロフィルムによる一次資料収集に特徴がみられた。戦後アメリカ人の日本語能力のレベルが上がり、日本語の一次資料を読みこなすことが研究上の必須事項となった。したがって、日本研究図書館に求められた情報資源でも、研究のための一次資料の重要性が増した。

 終章「外国研究とライブラリーの情報資源」では、福田がライブラリーの現場で必要と考えた情報資源を自ら創り出してきたことを指摘した。福田の活動を縦軸に置いたことにより、蔵書形成の経緯、研究分野や資金源の他にもアクセス手段(語学力や探索ツールなど)の有無が日本研究の資料群に作用することが明らかになった。さらに福田が創り上げた二種類の外国研究図書館、すなわち日本関係欧文図書を収集する日本の日本研究図書館および日本語資料を収集するアメリカの日本研究図書館において扱われた資料群を、研究の位相から分析した。資料群を研究の位相におき資料の言語を補助線に用いて分析すると、一方の日本関係欧文図書は日本研究の成果、もう一方のアメリカにおける日本語図書館の蔵書は研究素材・研究対象で、この二つが補完関係にあることを明らかにした。また、研究図書館における図書館資料群を、アーカイブズ資料との関係から論じた。