本論文はアゼルバイジャン西部に位置する三つの先史時代遺跡から出土した動物遺存体の研究を通じ、先史時代の西アジアにおいて成立した偶蹄類家畜利用が周辺地域へと拡散していったプロセスを論じたものである。
20世紀における数多くの考古学調査によって、偶蹄類の家畜化は西アジアの北部(トルコ南東部、イラン北西部など)において、紀元前8,500年頃に開始したことが明らかとなってきた。しかしその起源については重点的に研究が進められてきた一方で、それがどのようにして旧世界の各地へと広がっていったかについては、地域ごとにその知見に大きな差がある。特に本論文で取り扱う、アゼルバイジャンの属する南コーカサスでは、その開始に関してはほとんど明らかでなかった。このような状況下において、南コーカサスへいつ、どのように家畜が導入され、導入後にどのように変化したのかを、動物遺存体の研究を通じて検討を行った。
本論文は10章からなる。そのうち第1章~第4章が研究史や研究の方法、第5~8章が実際の分析、第9~10章が考察、結論となっている。
第1章では研究の目的と背景、第2章では西アジアおける家畜化に関する研究の概観と南コーカサスにおける動物考古学の現状、第3章では本論文における研究の方法、第4章では南コーカサス地方における中石器時代と新石器時代研究の現状の紹介を行った。
第5章ではダムジリ洞窟遺跡出土の動物遺存体の分析結果を提示し、当地域への家畜の導入がいつ、どのように起こったのかについての見解を示した。ダムジリ洞窟の中石器時代層と新石器時代層から出土した動物遺存体の比較検討を行うと、中石器時代層ではヒツジやアカシカ、ガゼルを中心に多くの小型狩猟獣を含む構成であったものが、新石器時代層になるとヒツジ/ヤギが主体の構成へと変化することが判明した。前者ではヒツジの比率は哺乳類全体の47 %程度であったものが、後者では78 %にまで達する。ヒツジの遺存体から得られた骨計測値を調べると、中石器時代層のものは大型で西アジアの野生個体のものと同じであるが、新石器時代層のものは新石器時代層以降の農耕村落から出土する家畜と考えられる個体のものと酷似していた。さらに、両時期出土のヒツジ/ヤギの骨格部位とその比率を調べると、中石器時代層のものは特定の部位に偏りが見られる一方で、新石器時代層のものは全身が満遍なく出土するという傾向があった。加えて中石器時代層では確認されなかったヤギとウシが新石器時代層になると突如として現れ、それらの遺存体から得られる骨計測値はやはり農耕村落のものと近い。これらの分析結果から、ダムジリ洞窟では紀元前六千年前後の新石器時代の開始とともに家畜ヒツジ、ヤギ、ウシが出現したことが明らかとなった。中石器時代層では家畜を導入していた痕跡は見当たらず、また新石器時代層におけるこれらの動物種の出現も唐突であることから、この時期に外部(西アジア)から家畜動物の組み合わせが持ち込まれることで、当地における家畜利用が開始されたのであると結論付けた。また、新石器時代層出土のヒツジ/ヤギの臼歯を用いた死亡季節の推定から、当洞窟が新石器時代の開始期より日帰りの放牧地として用いられていたことを示唆した。
続く第6章では紀元前六千年紀初頭の新石器時代集落遺跡であるハッジ・エラムハンルテペ出土の動物遺存体の分析を行い、当地における最初期の家畜利用の様相を明らかにした。ハッジ・エラムハンルテペ出土の動物遺存体を調べると、その多くがヒツジ/ヤギに属する資料であり、哺乳類全体の実に90 %程度を占めている。ただし上層に向かうにつれウシの比率が増加しており、その重要性が増したように見える。ダムジリ洞窟の資料と同様に、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタの遺存体から得られた骨計測値を野生個体と比較すると、いずれも遥かに小型であることが示された。コウジョウセンガゼルやアカシカにはこういった傾向は見られないので、ハッジ・エラムハンルテペでは主要な四家畜が全て揃っていたと考えられる。したがって、やはり当地域では新石器時代の開始期の段階で、すでに家畜に依存した動物経済が成立していたことが明らかとなった。ただし、雌雄比と消費年齢の分析からは少し異なる結果が得られた。骨計測値に基づいてヒツジ、ヤギ、ウシの雌雄比を調べてみると、ヤギを除いて若いオスの間引きが行われていた証拠が認められなかった。西アジアでは紀元前7,500年以降にオスの間引きが広く行われるようになるという研究があるが、南コーカサスの新石器時代の初頭にはそういった行為は行われていなかったようである。消費年齢に関して言えば、いずれの種も成獣になった段階でほとんどが消費されてしまっており、専ら食肉の供給に家畜利用の主眼が置かれていたように見える。つまり家畜を飼っていると言っても、その利用形態からは家畜のもたらす資源をうまく活用できていなかったように見える。これらの分析結果から、当地の新石器時代の初頭では家畜利用という生業自体はすでに定着していたものの、その管理技術は未発達であったと結論付けた。
第7章では紀元前六千年紀中頃の新石器時代遺跡であるギョイテペ出土の動物遺存体の分析を行い、当地における家畜利用の発達について検討した。やはりヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタが出土動物遺存体の大半を占めており、特にヒツジ/ヤギは哺乳類全体の60 %から80 %を占める。ハッジ・エラムハンルテペの上層よりもさらにウシの数が増加しており、全体の10 %から20 %にまで達する。また、ブタも増加の傾向を見せており、全体の10 %ほどを占めている。さらに狩猟獣の出土数、種幅も増加の傾向を見せる。しかしそれ以上に重要な点として、家畜の管理戦略の変化が挙げられる。ギョイテペから出土したヒツジ、ヤギ、ウシの雌雄比と消費年齢の分析を行うと、いずれの種にもハッジ・エラムハンルテペとは異なる傾向が認められる。まず、骨計測値に基づいてヒツジの雌雄比を調べてみると、メスへの明確な偏りが認められる。したがって、当遺跡ではヒツジの若オスの間引きが行われていたと解釈することができる。ただし消費年齢は若い個体に集中しており、ハッジ・エラムハンルテペとほとんど変わっていない。ヤギの場合、やはりメスへの明確な偏りが認められた。加えて、ハッジ・エラムハンルテペではヒツジと同様に若い個体の消費が顕著であったが、ギョイテペでは高齢の個体が多く見つかっている。したがって、当遺跡ではヒツジとヤギで異なる管理が行われていたように見える。特にギョイテペの上層段階でヤギの数が急増しており、遺跡における生業戦略の変化があったと考えられる。ウシは雌雄比こそ雌への偏りが認められなかったが、生後12ヶ月までの生存率が急激に下がっており、若オスの間引きが行われていた可能性が看守された。前章における分析結果との比較から、南コーカサスでは新石器時代の後半になって家畜利用の技術が確立されたと結論付けた。
第8章では中石器時代から新石器時代にかけての狩猟活動の変化について検討を行った。資料数の制限から、両時期における狩猟獣の数と種幅、そしてギョイテペ出土のアカシカとコウジョウセンガゼルを分析の対象とした。結論として、南コーカサスでは中石器時代末期になっても広範囲生業が行われていなかったこと、新石器時代の狩猟は秋口に集中して行われた季節的なもので、冬の資源が枯渇する時期への対応策であったと考えられた。したがって、新石器時代の狩猟はあくまで補助的なものであったと言えるが、完全に消滅するわけではないことから、それ以前の時期からの伝統であった可能性がある。
第9章の考察では様々な考古学資料を用い、南コーカサス地方へとどのように家畜利用を含んだ食糧生産が波及したのかを論じた。共通する石器様式からすでに中石器時代には西アジアの初期農耕民との接触があったことが示唆されているが、未だ農耕は導入されていない。しかし新石器時代の前半期になって農耕牧畜の証拠が彩文土器や特定の骨角器の器種と共に出現する。彩文土器の様式から南コーカサスへはトルコ東部とイラン北西部の二つの異なる経路から農耕がもたらされたと考えられた。その背景として考えられるのは西アジアの農耕民の拡大であり、また8.2 kaイベントによる気候の寒冷化であった。南コーカサスにおける新石器化は、上述の出来事に伴う西アジア世界の再編の一環であったと捉えられた。ただし南コーカサスの新石器文化には外来の要素と在地の要素が混在しているため、移民と在地の人々の双方の手によって当地の初期農耕文化が形成されたと考えられる。
第10章の結論では、世界中のいくつかの地域における家畜利用の導入と発達に関する研究を比較し、南コーカサスへの家畜の導入の位置づけを行った。北欧などのように徐々に家畜動物が増加、或いは生業にほとんど影響を与えなかった地域では、在地の人々による能動的な働きかけが家畜の導入に影響したが、反対にトルコ西部のように家畜利用が突如として出現し生業の中心となる地域では、移民の影響が大きかったように思われた。しかし南コーカサスやトルコ西部、南欧では導入の当初からではなく、むしろ後の時期になってから家畜利用戦略が確立されたように見える。つまり、家畜自体は起源地から各地へと拡散したが、その利用形態は地域ごとに独自に発達させられてきたものであり、それには在地の文化と環境が影響したと考えられる。家畜利用とは文化であり、その拡散や発達をとらえるためには、他の考古学的証拠を交えながら多角的に研究を行っていく必要があるとして本論文の締めくくりとした。