本研究の目的は、なぜ、いかにして、「コミュニティ」の言説が、戦後の日本社会で理念として希求されたのかを明らかにすることにある。従来は一般社会で使われることのなかった「コミュニティ」が、なぜ1960年代から1970年代にかけての日本社会で使われはじめて通俗化したのか、なぜこの時代に「コミュニティ」という考えかたが必要とされたのかを検討するのが本研究の課題である。

 1章では、上の研究目的を詳述したうえで、「言説としてのコミュニティ」を研究するための方針を示した。それまでの日本社会では、ごく一部の専門家をのぞいて使われてこなかった「コミュニティ」の考えかたが、なぜ1960年代から1970年代にかけての日本社会で使われはじめて一般化したのかを明らかにするために、本研究では「言説としてのコミュニティ」が探求の対象であることを主張した。そのうえで、本研究は[1]地域、[2]自治、[3]福祉、[4]建築・都市計画という4つの研究主題にもとづく事例を対象に、規範的な「コミュニティ」の言説/非規範的な「コミュニティ」の言説という観点から「コミュニティ」の言説を分析する方針を示した。

 2章では、本研究で「コミュニティ」の言説研究を進めるための手法である「言説への知識社会学的アプローチ(The Sociology of Knowledge Approach to Discourse, SKAD)」について検討を行なった。具体的には、近年の日本の言語学、政治学、社会学における言説研究の動向を確認したうえで、既存の言説研究の手法、とくに批判的言説分析がかかえる問題点を指摘した。それをふまえて、ミシェル・フーコーの言説の概念、ならびにピーター・バーガーとトマス・ルックマンが基礎づけた知識社会学の手法にもとづいて社会科学の経験的研究の方法論へ応用したSKADの研究手法を検討した。

 2章で確認したSKADの手法にもとづいて、3章から10章で事例研究を行なった。

 まず、3章と4章では、[1]地域の事例を検討した。

 3章では、地域社会研究所の調査研究活動と、地域社会研究所の理事長であった矢野一郎における「コミュニティ」の言説を検討した。さらに、その構想により計画・建設された当時の第一生命大井本社に勤務し、社宅に居住した社員、大井町の住民には、理念としての「コミュニティ」がいかに認識されていたのかについて、関係者にインタビュー調査を実施するとともに、大井本社が編集・刊行していた広報誌の資料調査を実施し、分析を行なった。その結果として、大井町の住民と大井本社の社員のあいだで「コミュニティ」の構想は前景化していなかったが、相互交流そのものは少なからずみられたことを指摘した。

 4章では、矢野と地域社会研究所の「コミュニティ」の構想を具現化した大井町のコミュニティに居住した社員とその家族が、会社共同体と地域社会のなかで、いかなる生活をいとなんでいたのかを、史資料調査と当時居住していた関係者へのインタビュー調査にもとづいて検討した。その結果として、大井町の良質な自然環境や育児のしやすさなど、生活のよい面をあげる声が多かったこと、就学後の子供をもつ社員の妻である女性は、学校や家事を媒介にして地元住民と関係をもっていたこと、質的に大きく異なる会社共同体と地域社会というふたつの「コミュニティ」は「転勤」という要因のために結びつきが強くならなかったことを明らかにした。

 次いで、5章と6章では、[2]自治の事例研究を行なった。

 5章では、自治省のコミュニティ構想と政策の実施を中心に、コミュニティ行政における「コミュニティ」の言説を検討した。自治省のコミュニティ行政の概要を確認したうえで、自治省の官僚と行政学者の佐藤竺における「コミュニティ」の言説を分析した。その結果として、自治の構想として「コミュニティ」をもちいた自治省の官僚は「コミュニティ」を規範的にあつかうのではなく、実践的に便利な意味づけを行なっていた一方で、佐藤は「コミュニティ」を戦後の民主化の鍵概念として規範的にとらえていた点で対照的であったことを指摘した。

 6章では、自治省のモデル・コミュニティ事業を事例として、モデル・コミュニティの住民、自治省コミュニティ研究会の委員の社会学者、都市計画家、自治体の行政担当者、自治省の官僚における「コミュニティ」の言説を検討した。具体的には、千葉県流山市八木南地区と滋賀県大津市晴嵐地区というふたつのモデル・コミュニティの事例における「コミュニティ」の言説を分析した。その結果として、自治省コミュニティ研究会の委員や自治体の行政担当者は、コミュニティ活動への住民参加を積極的にうながしていた一方で、モデル・コミュニティにくらす住民たちは、社会学者らの委員や自治体の行政担当者が啓発する「コミュニティ」を率直に受け入れるというよりも、むしろ批判的にとらえた言説が少なからずみられたことを指摘した。

 7章と8章では、[3]福祉の事例研究を行なった。

 7章では、日本社会のコミュニティ・ケアの形成期における「コミュニティ」の言説がいかなるものであったのかを検討した。まず、東京都社会福祉審議会の答申における「コミュニティ」の言説を検討した結果として、「コミュニティ」は肯定的にとらえられていた一方で、「コミュニティ」に居住する住民を「協力者」と規定し、コミュニティ・ケアを達成するための財源や施設の不足を補完する資源とする言説がみられた。次いで、中央社会福祉審議会の答申における「コミュニティ」の言説を分析し、社会学のコミュニティ概念が参照されたうえで、地域住民の「自主性」と「連帯性」を高めてコミュニティ・ケアを達成することが重要であるといったように、動員の言説資源として「コミュニティ」がもちいられていたことを指摘した。

 8章では、戦後日本の社会福祉の世界でコミュニティ・ケアを論じた社会福祉学者の岡村重夫における「コミュニティ」の言説を検討した。まず、岡村のコミュニティ・ケア論の初期段階では、カタカナことばではなく、”Community care”をもちいて考察を進めていたことを確認した。次いで、1970年代初頭の岡村のコミュニティ・ケア論では、社会学者のコミュニティ論と「コミュニティ」の言説を批判的に検討し、みずからの地域福祉概念の理論体系のなかにコミュニティ・ケアを位置づけていたことを確認した。さらに岡村のコミュニティ・ケア論は、社会学者のコミュニティ論とは異なり、地域福祉概念を理論的に鍛錬することで、漸進的に「コミュニティ型地域社会」へ近づくことを重視する側面があったことをあきらかにした。

 9章と10章では、[4]建築・都市計画の事例研究を行なった。

 9章では、都市計画家の日笠端における「コミュニティ」の言説の受容と展開を中心に検討を行った。日笠の「コミュニティ」の言説に見いだせるコミュニティ概念の受容には、社会学のコミュニティ概念を参照としつつも、都市計画の枠組みのなかで「コミュニティ」を受容して、コミュニティ・プランニングを考察し、都市計画の実践を行なうという特徴が確認された。そのうえで、日笠の都市計画研究の実践的な段階では、人間の生活に根ざしたコミュニティとフィジカル・プランニングとの接合が模索されていたことを指摘した。

 10章では、建築家の菊竹清訓の「コミュニティ」にかんする言説を中心に検討した。まず、菊竹は都市や地域の居住環境と強く結びつけて「コミュニティ」を積極的にとらえるとともに、「コミュニティ建築」の概念を提示していたことをつまびらかにした。そのうえで、菊竹における「コミュニティ」と都市居住の問題を検討した。菊竹は「郊外型コミュニティ」の増加、居住の貧困、住宅政策の欠落を強く批判し、高層建築による都心型コミュニティの形成を主張していたことを確認した。そのうえで、菊竹が提唱する「コミュニティ建築」が具現化した京都信用金庫のコミュニティ・バンクの建築をめぐる「コミュニティ」とコミュニティ建築の言説を検討した。

 終章にあたる11章では、事例研究から得られた知見をまとめたうえで、SKADの手法にもとづいて言説の構図を描き出した。とくに事例研究であきらかにした「コミュニティ」の言説について、規範的な「コミュニティ」の言説/非規範的な「コミュニティ」の言説という観点から考察を行った。まず、規範的な言説/非規範的な言説という構図からみた「コミュニティ」の言説の特徴として、以下の3点を指摘した。すなわち、(1)規範的な「コミュニティ」の言説は社会学者、行政学者、その影響を強く受けた矢野一郎と地域社会研究所によるものであったこと、(2)自治省の官僚、社会福祉学者の岡村、都市計画家の日笠、建築家の菊竹といった専門家は、社会学者の「コミュニティ」の言説を参照しつつも、ときに批判し、それぞれの専門領域に非規範的なものとして「コミュニティ」を取り入れていたこと、(3)「コミュニティ」に初めてふれた大井町・第一生命大井本社の住民や流山・大津のモデル・コミュニティ地区の住民は、規範的な「コミュニティ」の言説に批判的な声や疑問視する見解を提示していたことが特徴として認められた。そのうえで、規範的な「コミュニティ」の言説は「民主化」の規範的言説と「動員」の規範的言説に類型化されること、非規範的な「コミュニティ」の言説は社会学者らのコミュニティ論の影響の有無によって類型化されることを明示した。最後に、本研究で提示した規範的な「コミュニティ」の言説/非規範的な「コミュニティ」の言説という構図から、現代社会の「コミュニティ」をめぐる言説の状況について考察を行った。