本論文は、プロテスタント宣教師が、アヘン戦争以前の時期において、中国関連の知識を構築するのに極めて重要な役割を果たしたのは、いかなる経緯によるものだったのか、という問題の解明を目指すものである。そのために、プロテスタント宣教師による中国関連の主要事業を時代順に取り上げ、その事業が可能となった背景を中心に考察する。

 まず、第1章では、プロテスタント宣教師による最初の中国関連の学術的成果として、J. マーシュマンによる『論語』英訳刊行の経緯を分析した。特に、なぜインドで中国に関する研究が始まったのかという点に注目し、マーシュマンの活動は、イギリス東インド会社の教育機関と深い関係があったことを明らかにした。

 18世紀後半からイギリス東インド会社はインドの統治機関として機能するようになり、1800年には、公務員養成のため、フォート・ウィリアム・カレッジが設立された。カレッジでは東洋諸言語の教育とともに、国教会司祭である学長と副学長の主導のもと、東洋諸言語への聖書翻訳事業が進められた。その一環として、政治、外交、商業の面で必要とされた中国語の教育、そして聖書漢訳事業も計画され、マカオ生まれのアルメニア人J. ラサールが教員として雇われた。だが、当時、インド総督と対立関係にあった東インド会社の取締役会がカレッジの縮小命令を出し、さらに宗教的要因からヴェールール反乱(1806年7月)が起こると、新たな紛争の原因となりかねない聖書翻訳事業は中止された。こうした社会的・政治的変化のなか、カレッジ関係者の監督下で、バプテスト派宣教師マーシュマンがラサールとともに、宣教拠点セランポールで聖書漢訳事業を進めた。

 儒教経典の英訳事業は、ヴェールール反乱を契機として聖書翻訳事業に対し批判的な声が高まっていた社会的雰囲気のなか、新任のインド総督の後援を得る方案として、宣教とは距離を置いた一般的な学術活動として計画された。こうして1809年に完成した『論語』訳は、主に中国語分析に焦点を当てた参考書として東インド会社の要望に応じた成果となり、マーシュマン個人にとっても、聖書漢訳のために必要な中国語学習と中国文化の理解に役立つ仕事であった。

 第2章では、1807年に初めて来華したロンドン宣教会の宣教師R. モリソンが、いかなる経緯で字典(1815–23)や文法書(1815)、会話集(1816)などの中国語学習書を作成するに至ったのかについて、イギリス東インド会社との関係に焦点を当てながら論じた。

 東インド会社の広東商館は、1793年のマカートニー使節団の北京訪問以降、中国語教育の必要性を強く認識し、中国語学習書を切望していた。こうした状況のもと、聖書漢訳事業のために中国語を学んでいたモリソンが、商館において通訳と中国語教育を担当しながら、字典や文法書などの編纂作業を行なった。商館は、フォート・ウィリアム・カレッジに倣い、中国語学習者に対する職務軽減や、通訳業務と中国語翻訳物に対するボーナス支給など、中国語教育の促進策を施した。そして東インド会社はマカオに印刷設備を導入し、字典などの中国語学習書や商館職員による翻訳物を印刷できる環境を整えた。

 文法書、字典、会話集は、主に平易な文章で書かれており、また広州やマカオでの商業や生活に関わる例文を多く収録し、東インド会社の中国語学習者を想定して作成されたものであった。モリソンの学術的成果は、宣教師としての任務というよりは、中国語学習の基本書を必要としていた当時の東インド会社の要望を満たそうとする商館の業務のなかで積み重ねられたものだったのである。こうした中国語学習工具書の具備は、中国に関する知識および情報を得る手段となる言語の習得を容易にする道を拓いたといえる。

 第3章では、モリソンの協力者として派遣されたW. ミルンが、マラッカにアングロ・チャイニーズ・カレッジを設立(1818–20)するに至った経緯を分析し、中国に関連する情報収集や人材の養成が、マラッカをはじめとする中国以外の地域で進められた事情を明らかにした。

 当時、中国では西洋人の居住や印刷、宣教活動は制限されており、中国以外の地域に宣教拠点を設ける必要があった。その準備のため、1814年、ミルンがジャワとマラッカへ巡回旅行を行い、その結果、マラッカが拠点に定められた。このとき、巡回訪問が可能となったのは、イギリスが1811年にジャワを占領して以降、中国および中国系移住民に関する情報や、統治手段としての現地人教育を必要としていたイギリス人現地官僚らの協力があったためである。こうした背景のもと、小学校やアングロ・チャイニーズ・カレッジは、インド亜大陸からペナン、マラッカ、広州に至る貿易ネットワークを担うイギリス人現地有力者の承認と協力を得て、地域的な事業として着手されたのであった。カレッジ設立の趣旨として、伝道師養成機関ではなく、中国関連の専門教育機関を目指したことは、現地の東インド会社関係者の支持を幅広く得る基盤となり、その設立のための募金は、特に、モリソンを含む東インド会社の広東商館関係者が主導して進められた。カレッジに対し、現地の東インド会社関係者は、中国及びその周辺地域の情報収集と研究の場としての役割を期待する一方で、ミルンを含む宣教師らは、教育実務を担当することを通じて知識や情報を増やすことになったといえる。

 第4章では、インドと広州・マラッカにおいて、聖書漢訳事業がそれぞれ進められた背景と経緯、そしてその印刷や頒布事業について考察した。特に英国聖書協会とインド亜大陸を含む東洋貿易拠点における聖書協会の設立について分析し、当時の聖書漢訳事業とは英国国教会指導者および東洋統治関係者の監督下に置かれた事業であることを考察した。

 東洋諸言語の聖書翻訳事業を主導したフォート・ウィリアム・カレッジと英国聖書協会のメンバーは、協会設立以前から緊密な関係にあり、当初、聖書協会は国教会と国教徒有力者を中心とする組織であった。その有力者メンバーには元インド総督、ボンベイ知事、インド総督、東インド会社の役員など東洋植民地統治関係者が含まれており、カルカッタをはじめとする各地の聖書協会も、イギリス人現地有力者の主導のもとで設立されたのであった。

 人材不足のなか、聖書協会はモリソンらの事業を後援することになり、聖書漢訳事業は、インドと広州・マラッカで同時に別々に進められるようになった。しかし、結局のところ、この両者は、国教会の指導者と有力者の監督下で一つの事業として行われたと見なすのが妥当である。こうして聖書協会から援助を受けた宣教師は、中国語の聖書をついに完成させた(インドでは1822年刊、マラッカでは1823年刊)。さらに、聖書頒布事業を通じて、宣教師らは東南アジアおよび中国沿海地方の中国人に接する機会を得、関連地域の事情に詳しくなっていった。

 第5章では、中国に関する情報収集において最も重要な役割を果たした中国初の英文学術誌『チャイニーズ・レポジトリー』(Chinese Repository, 1832–51)刊行の背景を、1830年代における広州の英米人コミュニティの変化に注目しながら明らかにした。

 1830年代に入ると、中国での宣教はモリソン1人が担ったのではなく、K. F. A. ギュツラフ、および後に『チャイニーズ・レポジトリー』編集者となるアメリカ人宣教師が加わった。同時に、イギリス東インド会社の対清独占貿易の廃止(1833年)により、自由貿易商人が広州の欧米コミュニティで一大勢力として登場した。彼らは、自分たちの商業的・政治的意見を表明するために、『カントン・レジスター』をはじめとする定期刊行物を相次いで刊行した。こうした変化のなか、『チャイニーズ・レポジトリー』もアメリカ人商人の支援によって発刊された。ほかに、有用知識普及協会やモリソン教育協会、医療協会といった団体が貿易商の支援の下で結成され、宣教師はその実務を担当した。こうして、広州の欧米人コミュニティでは情報交換のネットワークが形成されていたのである。宣教師と商人らは各人の得意分野の記事を『チャイニーズ・レポジトリー』に投稿し、外交、商業、言語、宗教などあらゆる中国関連の情報や知識が集積されていった。

 以上のように、アヘン戦争以前、イギリスの東洋貿易拠点における宣教師による活動は、漢文から英文への儒教経典翻訳事業、欧文から漢文への聖書翻訳事業、字典や文法書などの中国語学習工具書の刊行、カレッジ設立といった教育事業、定期刊行物の刊行など広範囲にわたっており、そのいずれも現地有力者の監督や協力のもとで実現するに至った。未知の中国についてのこうした探究は、単なる学術的活動にとどまらず、政治的な機能があり、一連の事業を通じて蓄積されてきた情報により、イギリスはアヘン戦争の際に有利な立場に置かれていたといえる。

 宣教師としては、聖書漢訳事業や宣教活動のために中国語や中国に関する知識を身につけるという宗教的責務に加えて、イギリスの臣民として現地当局の必要に応じることにより、情報の収集と体系化において開拓者的役割を果たすことができた。また、専門的知識を持つがゆえに、その後、欧米のアカデミックな場における初めての中国学教授職も宣教師出身者が占めるに至った。

 以上のような歴史的経緯から、英語による中国関連の知識構築において、プロテスタント宣教師が極めて重要な役割を担うことになったのである。