本論文の目的は、『純粋理性批判』「超越論的分析論」(以下「分析論」)で展開される判断と経験に関する説明を統一的に理解し、判断がその対象に関わるための条件についてのカントの洞察を明確化することにある。本論文はカント研究の文脈では「分析論」を取り巻く研究状況を、より一般的には私たちの知的な能力がもたらす恩恵をめぐる哲学的な問題を背景としている。

 本論文の背景には、まず「分析論」を取り巻く次のような現状がある。「分析論」は様々な主題を扱う箇所であり、そしてそれ故に、それぞれの主題が独立した形で取り上げられる傾向にある。判断と経験の2つの主題も、一括して取り上げられることはあまりない。「分析論」でカントは判断の成立条件を考察している。近年、主にマクダウェルの登場により、「分析論」のこうした側面は一層着目されるようになった。他方で「分析論」は、カントが「経験」と呼ぶものの成立条件が考察される箇所でもある。こうした考察は主に「経験の類推」で具体的に展開されている。この側面を評価する論者としてはストローソンが挙げられる。彼らはそれぞれの側面を高く評価するにもかかわらず、これら2側面を統一的に理解する描像を提示してはいない。しかし、これらの側面は独立して扱われるべきではない。カントは対象について判断するためには、その対象を経験において見出す必要があると述べている。したがって、経験に関する彼の考えを踏まえなければ、判断の成立条件についての彼の考えも理解できない。

 こうした状況を受けて、判断の成立条件を考察するという「分析論」のプロジェクトを踏まえつつ、経験の理論が展開される「経験の類推」を読み解くことで、「分析論」でカントが洞察したものを明らかにするのが本論文の目的である。

 本論文の結論は次のようなものである。世界に存在する事物とその性質について判断できるためには、それらの事物やその性質が自らの観察に依存せずに存在することを主体は理解しなければならない。これが、判断の対象を経験において見出すことを要求した際にカントが主張していることである。この結論は、カントの言う経験が、知覚から独立に存在し得る事物や性質の理解を含んでおり、かつそうした理解に必要な資源を明らかにするのが「経験の類推」だということが明らかになることで導かれる。

 本論文はさらに、私たちの知的な能力がもたらす恩恵をめぐる問題も背景としている。私たちは道具や単純な生物と同じく世界を表象する一方で、それらとは異なり、判断形成や概念使用の知的な能力を備えている。こうした能力が世界を表象することにおいてもたらす恩恵を明らかにすることは、現代においてもなお哲学的に重要な問題であり続けている。本論文が明らかにする上記のようなカントの洞察は、こうした問題に対して、一定の解答を与えるものとして理解される。判断形成能力によって私たちは、自分たちの観察とは独立した仕方で事物や性質について考えられるようになるというのが、彼の洞察がもたらす知見である。

 本論文は以下のように進む。第1章と第2章は本格的な考察のための下準備を行う。本論文は判断が対象に関わるための条件とは何かという問題を扱っていく。第1章ではこの問題を「判断の志向性の問い」として導入し、「分析論」がその問題との関係で置かれている現状を整理する。これによって、カントを現在そうした問題との関係で読み直すことの意義が示される。マクダウェルのおかげでカントが再び現代に置いても着目されるようになったのは事実であるものの、実際にはマクダウェルが考えているのとは異なる形で、カントが現代の論争に貢献することが示される。第2章では、「分析論」、なかでも「経験の類推」の理解にとって重要なカントの発想を整理する。これによって「経験の類推」が判断の志向性の問いへの解答を与える上で重要な役割を果たしていることが理解される。更にカントの考える経験が、対象とその性質が私たちの観察に依存せずに存在するという理解を含んでいるとするストローソンの指摘を取り上げる。カントは判断の対象を経験において見出すことを要求している。したがってストローソンの指摘が正しければ、対象について判断を行うためには、対象とその性質が私たちの観察に依存せずに存在するという理解の下で対象を見出さなければならないというのがカントの解答であることになる。これはあくまで暫定的な結論であり、それを決定的なものとするためにはカントの言う経験がストローソンの指摘通りの内容をもつことを示す必要がある。その作業に取り組むのが第3章以降である。

 第3章から第5章では「経験の類推」の第1、第2、第3類推をそれぞれ検討し、カント的経験の内実を明らかにする。第3章は第1類推を検討する。ここではストローソンの指摘をより洗練させた仕方で理解するためにエヴァンズの考察を参照し、知覚から独立した実在の理解の詳細を「客観性の理解」として取り出す。客観性の理解は、知覚とそれと独立に存在する世界との二元性の理解と、知覚と世界の相関関係の理解からなっている。客観性の理解に到達した主体は、世界についての知識をもたらすものとして自らの知覚を扱えるようになる。そしてカントが経験ということで考えていたのがまさにこの客観性の理解に相当することを確認する。カントは実体のカテゴリーが経験の必要条件だと第1類推で主張している。この主張は、客観性の理解の成立に必要な、世界の側の要素を考える資源の要求として理解される。知覚されていなくても実在するもの(実体)を考えることができなければ、客観性の理解に相当する経験を主体はもつことはできないというのが第1類推の主張である。第4章では第2類推を検討する。第2類推では変化に関する経験をもつ必要条件が因果性のカテゴリーだとされている。ここでも客観性の理解が基準となっている。変化を知覚したとき、自分が知覚しなくても生じ得た変化を知覚したこと、そして変化と自らの知覚の間に相関関係があることを理解することが、変化に関して客観性の理解を有することに相当する。因果性のカテゴリーがこうした理解の必要条件になっていることを確認する。第5章では第3類推を取り上げる。第3類推でカントは同時に複数の事物が存在していることを経験するためには、相互性のカテゴリーが必要だと主張している。ここでも問題になっているのは客観性の理解であり、カントの主張がそうした観点から理解されることを示す。またその際に相互性のカテゴリーが意味するものが、事物の占める空間的な場所の理解として解されることが示される。その上で、第3類推で展開される相互性のカテゴリーが、事物の同時存在に関する客観性の理解に必要とされるのにふさわしいものであることが明らかになる。

 第6章、第7章は積み残した問題を解決する。第6章は、カントの空間論を更に掘り下げる。カントは経験の必要条件を明らかにするという目的のもとで、相互性のカテゴリーがもたらす場所の理解が経験に必要だとしていた。もしカントが適切に経験の必要条件を見つけられているならば、その必要条件は特定のモダリティ(例えば視覚)にしか当てはまらないものであってはならない。しかし、実際にカントは空間的な把握を特定のモダリティに依存しない形で考える基礎を与えているだろうか。こうした疑念に対して本論文は「直観の公理」において、そのような仕方で空間を考える基礎が与えられていることを示す。「経験の類推」から少し離れるものの、この章の考察はカントが適切に経験の必要条件を見出したことを裏づけることになるだろう。この第6章の作業によって、客観性の理解の必要条件が「経験の類推」で論じられていることが明らかになる。しかし、その客観性の理解の必要条件である、知覚と世界の二元性の理解に目を向けてみると、「経験の類推」は主に二元性の世界の側に関わっていると言える。そして「経験の類推」の議論は二元性の主観的な側面を前提として、つまり主体は自分がどのような知覚を得たかは把握できるということを前提として進められており、それに関する説明は与えられていなかった。そこで第7章では、自らの知覚に関する認識についてのカントの理論を「観念論論駁」を中心に検討し、そこで展開される理論が「経験の類推」と調和するものであることを示す。端的に言えば、世界の側の要素を考えられなければ、自らの知覚に関する理解もまた不可能だというのがカントの主張である。

 第8章が最終章となる。第8章ではここまでの成果をまとめて、経験に関するカントの考えを整理する。複数の事物が存在し、ときにその性質を変化させることがある世界において、自らの知覚を世界について知る仕方として扱うための必要条件をカントが明らかにしたことが確認される。さらにデイヴィドソンとの対比を行い、カントが考える経験を備える主体は他者の概念なしでも、客観性の理解に到達できることが指摘される。そしてそこまでの成果を踏まえて、判断の志向性の問いに対する解答を改めて示す。第2章で提示した暫定的結論が決定的なものとして提示されることになる。これによって、「分析論」における判断と経験についてのカントの主張は統一的に扱われ、彼が「分析論」で洞察したものが明らかになるだろう。またその際には、判断する能力がもたらす恩恵を考える視座も得られる。知覚から独立した形で世界について考えられることが判断能力のもたらす恩恵だというのが、カントの洞察から得られる知見である。