本論文の目的は、明治前中期における華族について、華族を統制する政府の側からではなく、主体となる華族の側から、具体的には島津家を事例とし、社会に位置づく華族の生成と展開の過程について明らかにすることにある。

 華族制度の生成と展開については、制度史に関する先行研究により以下のように整理されている。華族は、明治4年の廃藩置県後、東京において一体化が進められて「皇室の藩屏」としての道を進み始めた。10年代後半になると華族令が制定され、勲功華族が加わるようになって華族の範囲が拡大した。世襲財産法による経済的な特権や貴族院議員となる資格等を得た華族は、「特権的な貴族層」となった。

 こうした理解の下、華族を総体として捉えて政治的な役割、経済的な役割を追究する研究が蓄積された。近年、個別華族の史料を用いた研究が始まると、制度的には絶たれたはずの旧領地との関係に注目が集まるようになり、これを大名的な側面の継続として重視する研究も増えた。しかし、個別華族の研究は限られており、個別の事例を束ねて総体としての華族を理解するには至っていない。このため、現状においては、個々の華族を深く検討することはなお必要であり、個別の事例を総体としての華族論に照らしながら検討し、同時期の社会の中に「華族」を位置づけていくことが課題であると考える。

 そこで本論文では、従来は別々に研究されることの多かった、政治的側面・経済的側面・文化的側面を、島津家という一つの「家」を軸にして、島津家の史料を使いながら検討した。島津家の明治期の史料は十分に活用されておらず、現在も整理中である。これらの史料が持つ特徴を捉えながら、史料から浮かび上がる当該期の島津家の問題を本論文の具体的な検討課題とし、先行研究が十分に検討してこなかった点については、総体としての華族に対する考察も加えながら史料に基づく実証的な研究を試みた。

 本論文は三部構成となっている。第一部「草創期の華族」は華族という呼称が使われるようになってから10年代前半まで、第二部「大名華族としての島津家の家政改革」は10年代後半から20年代前半、第三部「大名の歴史をめぐる家史編纂と国史編纂」は10年代後半から40年代を扱った。時期区分は、島津家の変化に応じたものである。

 第一章「華族という意識の形成」では、華族を統制する明治政府・華族会館に対する島津家の対応について、当主島津忠義と実父島津久光との関係に注目しながら考察した。久光の政府ヘの反発から、華族として東京に集結することを拒み続けた島津家は、11年に東京に忠義の居館を築き、華族会館に加盟した。第二章「華族にとっての十五銀行開業と投資の原点」では、ほぼ全華族が株主となって開業した第十五国立銀行開業前後の過程を、華族側から再考した。華族へは、督部長岩倉具視を通じ、株式からの配当が秩禄処分による収入の減少を補い、家の存続に繋がるという説得がなされた。開業直後に明治政府に貸し付けた多額の資金は、西南戦争の軍費として使用されたが、同行筆頭株主は忠義であった。第三章「廃藩置県後の島津家と鹿児島県」では、島津家にとっての廃藩置県の再考を試みた。明治初期の島津家には、旧藩主の資産である銀行や鉱山等を一時的に県や職員に経営させているに過ぎないという認識があった。その認識が時代にそぐわないことに気づいた久光は、第三章で考察した第五国立銀行や、第四章「明治初期における島津家の鉱山経営」で考察した鉱山等の権利を主張し始めた。家令の内田政風を通じた県との交渉は十分な結果を得られないままに西南戦争が勃発し、調整不十分のまま、銀行や鉱山等が島津家の資産と確定した。島津家にとっての「廃藩」は、県と切り離された島津家名義の資産を所有することでもあった。このため、いかなる資産を所有すべきか、また、所有する資産を維持し続けるためにどうすれば良いか、これが第二部で考察した10年代後半からの家政改革の課題となった。

 第一部では、島津家に華族という意識を形成させる契機となったのは、久光ではなく忠義に与えられた十五銀行の筆頭株主としての立場であったことを指摘した。これにより、島津家は西南戦争において間接的に政府軍の立場にあったこととなり、旧藩主としての立場を決定的に崩壊させたと見做すことができる。

 第二部で考察した家政改革では、旧藩士たちが家令・家扶、顧問等の役割で関与した。第五章「明治一〇年代における家政の諸問題」では、改革を求める職員の意見は、華族としての島津家の理念を考えることに通じていたことを示した。しかし、近代化に着手していたものの未だ利益を生まない鉱山事業をいかに処すべきか、職員間の議論だけでは限界もあった。そこで、顧問となった大蔵卿の松方正義により、第六章「松方正義による会計改革」で扱った会計に関する改革や、第七章「島津家における鉱山事業と十五銀行」で扱った鉱山近代化のための借入金返済を経て、鉱山の経営を再開(継続)することを可能にした。第八章「島津家における磯邸(鹿児島)と袖ヶ崎邸(東京)の意義」では、第一章で扱った東京の居館の新築に続く、鹿児島の改築の経緯を検討した。16年の忠義の帰郷には、当初は経費節減の意図があったが、20年に華族の地方貫族が認められると、島津家は鉱山の経営を理由に、鹿児島貫族となることが認められ、20年代の島津家の家政の中核部分は鹿児島で築かれた。

 第二部の検討により、この時期の島津家は、主として十五銀行からの配当で維持されていたことを明らかにした。このことは、島津家が華族としての生活を営んでいたことを意味している。また、財政を逼迫する危険性のある鉱山を維持し、鉱山経営者としての道も模索し続けた。家を維持するためだけであれば、財政が安定していないこの時期に鉱山の経営にまで手を広げることは妥当とは言えない。しかし、島津家の鉱山経営は本論文の検討対象の時代を超え、華族の時代を通じて継続された。鉱山経営者としての島津家の基礎は、当該期に築かれたものである。

 第三部で検討する家史編纂事業は、第二部で検討した家政改革の傍ら、島津家が力を注いだ事業である。第九章「旧大名による「国事鞅掌」始末取調」では、21年に宮内大臣から命じられた「国事鞅掌」始末取調によって旧大名の家史編纂が活発になり、編纂員の横の繋がりのために史談会も組織されたことを検討した。この発端を作ったのは島津家であった。幕末維新期の家史編纂は、家の事業に留まらず、国家的な事業としてなされるべきと主張した久光の意志を継いだものでもあったが、これは失敗した。その理由は、多くの家が歴史の叙述ではなく、編纂に必要な資史料の収集から始めたために、終わりが見えなくなったこと、家史編纂は華族全体としての統一性に欠け、一丸となって進めることに限界があったからであった。第十章「帝国大学文科大学史料編纂掛から見る大名華族」の検討からは、地方における重要な史料の所蔵者としての華族、文化的なネットワークの中で一定の役割を担う華族の姿が浮かび上がった。史料編纂掛の採訪に際しては、華族の編纂担当部署や編纂担当者が活躍した。但し、史料の所蔵状況も家毎の差が大きく、史料編纂掛への対応は一律ではなかった。

 結論では、「大名華族としての島津家の誕生」を総括した。第一に、島津家にとっての華族の生成と展開の過程は、家史を描き直す過程でもあった。島津斉彬・久光・忠義の三人を維新の功労者とし、その功績故に公爵という髙位を得たと位置づけ、西南戦争を語らない島津家の歴史を創り上げた。これは、第一部で指摘した、十五銀行の大株主として政府軍に与したと理解される島津家の歴史とは異なる、「家」の歴史である。

 第二に、当該期の島津家は十五銀行の大株主として株式を世襲財産に登録する等、華族としての役割も果たしつつ、鉱山への多額な出資のために不安定となっていた会計の健常化に追われた。それでも島津家は、鉱山の経営を維持した。島津家にとっての鉱山経営は、この地を統治し続けた島津家の歴史の継承として、旧大名としての役割と、国家の形成に寄与するという華族としての役割の両方を併せ持つ産業であった。このことが、当該期においては、得られる利益以上に重要であった。しかし、鉱山を経営しながら家を維持していくためはさまざまな課題があり、このために20年以上もの時間をかけて、家政の在り方が模索し続けられたのである。

 

 鹿児島との縁を重視する島津家は、華族を一体として捉える統制にはなじまなかったが、20年代以降の多様な華族を認める社会の中では、一定の地位を得ることが出来た。華族の位置づけは、20年代の前後では変化していたからである。

 大名としての長い歴史を持つ華族は、自らの家の歴史を鑑みながら斉家を模索し、旧領地たる地方との関係を再構築することが重要な課題であった。具体的には、地方における産業の経営、地方の歴史を形づくる資史料の蒐集や保存などである。これは大名として築いてきた「家」の歴史に、華族としての新たな時代の役割を紡いでいくための「家」の歴史の継承でもあった。一方、華族を統制する政府の側も、華族を一律のものとして扱うだけではなく、華族に選択肢を与えるようになっていった。これによって、「皇室の藩屏」といった説明だけでは語り尽くせない、地方に一定の存在感を持つ「大名華族」と称すべき華族を誕生させたのではないかというのが、本論文の分析に基づく展望である。