レオン・バッティスタ・アルベルティによる『文芸の利益と不利益』の解釈は、作者自身による自伝、『レオン・バッティスタ・アルベルティ伝』における曖昧な証言、また、ジローラモ・マンチーニによる推測に、多大な影響を受けてきた。『文芸』は、1428年から翌年にかけて執筆され、若き作者が味わった不遇の経験を通じて育まれた禁欲的な学問像および文人像を提示する作品として、みなされてきたのである。しかし、作品の成立が1432年以降に先送りされる可能性がルーカ・ボスケットにより提案され、さらに、作品の随所にフィレンツェ人文主義を代表する年長の文人、とくにレオナルド・ブルーニやニッコロ・ニッコリに向けられていると思われる挑発的な姿勢が確認され始めたことにより、この作品を再解釈し、その機能を検討し直すことが求められている。

 『文芸』献辞において、アルベルティは「何かしら新奇な事柄について自由に執筆することが許されている若い文人」を、「歴史書のような偉大な作品を執筆すべき年長の文人」と対置させ、後者に対する反感と対決姿勢を表明している。続く作品序文では、快楽、富、社会的名誉という報奨を学究者に対してもたらさず、ただ、「文芸/書物によって保全されている事物をめぐる知識」しか与えてくれない「文芸学」(studia litterarum)と、この学問に身を投じ、過酷で苦悩に満ちた読書に専念することを課されている「文人」(litterati)が、この作品の主題であることが示されている。アルベルティは「文芸学」という用語を具体的に定義せず、広義に用いているが、それを論じる際に「人文学」(studia humanitatis)を念頭に置いていると思われる。人文学は、その学習者に「生き方と振る舞いにかかわる事柄についての知識」を与えると約束しているものの、実際には完全に読書に立脚し、たとえば討論から学ばれるような実践的な知を拒絶しているからである。『文芸』においてアルベルティは、フィレンツェの学問界―その頂点には、学識を通じて観想的生と行動的生とを融合させることを理想として掲げる「当代における文芸学の王」、ブルーニが君臨していた―に対する論争を開始しているのである。

 快楽をめぐる章においてアルベルティは、文芸学に身を捧げた文人が味わわなければならない辛く哀れな人生を揶揄している。アルベルティによれば、文人はあらゆる快楽を、まるで禁欲主義者のように自発的に放棄するわけではなく、また、名誉の獲得を熱望して読書に打ち込むわけでもない。そうではなく、文人は、もし読書を怠ると、すぐに激しく批判されるために、ピエトロ・パオロ・ヴェルジェーリオやグァリーノ・グァリーニといった人文主義的教育家が奨励しているものも含め、あらゆる息抜きを放棄することを強いられている。また、文人は「口さがない怠け者」と呼ばれたニッコリのように不名誉な汚名を着せられることを恐れて、読書に打ち込まざるをえない。結局、文人は批判と不名誉を避けるために、「監獄」としての図書館に泣く泣く閉じこもり、感覚的快楽も精神的快楽も味わうことなく、「死んだ羊」としての書物を読み続けるほかにない。こうした哀れな文人を描き出すことで、アルベルティは、人文学に内在している書物と読書に対する激しい執着を明らかにしているのではないだろうか。人文学は、その提唱者たちが提示している輝かしい称揚言説の裏に、ある種の禁欲性を隠しもっているのである。

 アルベルティは蓄財をめぐる議論においても、同時代に生じた金銭観の変容を意識しながら、文人が置かれている経済状況を揶揄している。もし、文人が「自発的な清貧」というストア的伝統に固執し続けるのであれば、無論、彼らは裕福になることができず、生活のために家庭教師として物乞いをしてまわらなければならない。また、もし、フランチェスコ・バルバロやブルーニにより紹介された家政をめぐる新たな思想に従い蓄財に邁進するならば、文人としての本分を弁えない悪辣な人物として非難される。さらに、浮世離れした文人は、『結婚論』においてバルバロが奨励しているように良家の娘との結婚を望むことはできず、偽アリストテレス『家政論』注釈においてブルーニが奨励しているように家庭を持つことも望めない。常に読書に縛り付けられ、学識しか誇るものを持たない文人は、行動的生の諸相から完全に排斥されているのである。結局、現実的な視点から眺めれば、ほとんど稼ぐことができず、勉学、とりわけ書物に多大な金銭を浪費するだけである文人は、常に経済的に困窮している。このように、読書だけに身を捧げる文人が社会的に無能であることを、アルベルティは経済的な観点から揶揄し、観想的生と行動的生を両立させるという市民的人文主義の理想を退けている。

 続く章においてアルベルティは、公益に寄与する知識人の高貴さという伝統的な主張を踏まえ、文人が社会的名誉にふさわしい存在であるのか否かを検討している。アルベルティは、最高の社会的名誉を認められるにふさわしい存在である学究者が、軍人/騎士や金持ちよりも軽んじられているだけでなく、社会全体から軽蔑されている現状を嘆くそぶりを示している。しかし、アルベルティは実のところ、文人が公益性に欠けた存在であり、そのために、社会的に無用であるとみなされているという事実を暴き出していると思われる。なぜなら、文人は俗語ではなくラテン語に固執し、学識しか誇ることができず、さらに、「寛大」や「度量」といった美徳を実践するだけの経済力も持たないからである。実際、アルベルティによれば、社会は「文芸/書物によって保全されている事物をめぐる知識」ではなく、「長い実践と行動を通じて完璧なものとなった経験」に価値を見出すのである。結局、文人が社会的名誉を軽蔑しその獲得を自発的に放棄するのではなく、彼らは名誉に値しないと、社会が判断していることになる。このように、観想的生と行動的生とを結びつける紐帯としての学識の価値を否定することで、アルベルティはブルーニが『キケロ伝』において示し、『ダンテ伝』において繰り返すことになる市民的人文主義の理想像が実現不可能であることを暴露している。

 文芸学に身を捧げている文人は、自発的に現世的諸善を放棄するのではなく、それらを享受することから強制的に排除されている。『文芸』に通底しているこの皮肉な視点を考慮すると、作品末尾において、擬人化された書物の口を借りてアルベルティが述べている、完全に社会から隔絶された文芸学を称揚する言葉の真摯さは、疑わしいものとなる。むしろ、この見せかけの賛辞は、書物および読書への激しい執着、また、学識の価値への絶対的な信頼という、同時代の人文主義者たちに共通して観察される姿勢がもたらす必然的な帰結を描き出すことで、人文学を揶揄していると考えられる。同時に、この偽りの賛辞は、学識を通じて観想的生と行動的生とを融合させるという市民的人文主義の目標が実現不可能であることを暴露していると思われる。皮肉にも、文人による社会参加、また、彼らと社会との融合を、彼らが誇る学識自体が阻害しているのである。経験から学ばれた実践的な知を求める社会において、読書から学ばれた学識しか誇るものがない文人は無用な存在であり、「生き方と振る舞いにかかわる事柄についての知識」は、「文芸/書物によって保全されている事物をめぐる知識」にほかならない。こうした学識の限界をアルベルティが自覚していたことは、『文芸』と同時期に執筆されたと考えられている諸作品、とくに『死者』と『家族論』に目を向けてみれば、明らかである。『死者』において、勉学の価値についての値踏みを誤った文人が揶揄されており、また、『家族論』において、学識と経験知との二項対立を踏まえて、学識の価値に対する疑念が、繰り返し示されているからである。結局、『文芸』を当時の支配的思想、つまり、市民的人文主義とのかかわりという観点から再検討すると、反骨精神に溢れたアルベルティが同時代の学問界に対し仕掛けた一連の学問的論争にこの作品が連なることが、明らかになる。