フアン・ルルフォ (Juan Rulfo, 1917-1986) は、特に短篇集『燃える平原 El Llano en llamas』(1953) と中篇小説『ペドロ・パラモ Pedro Páramo』(1955) によって文学史上に名を残した作家であるとされる。ルルフォ作品は、語る対象とその語り方、また断片で構成される小説の形式によって、メキシコをはじめとしたラテンアメリカの文学の趨勢に大きな影響を与えた。ルルフォ作品は、それまで注目されていなかったメキシコのさびれた村という場所とそこで生活する人々、その場所に積み重ねられてきた過去を新しい手法で描いた。

 ルルフォの作品において場所の設定やその描写は欠かせないものである。ルルフォ作品で描かれる作家が生まれ幼少期を過ごしたメキシコのハリスコ (Jalisco) 州、またその周辺の地域の描写は作品に場所の雰囲気を与えるという役割を担っているだけではない。場所はそこに生きる人々の内面と深く繋がって描写されている。ルルフォ作品の大多数の舞台はハリスコであるが、その場所に対しての作家の感情は複雑なものであろう。なぜなら、そこは父親が殺され、一族が没落し、幼少期以来二度と彼が定住することがなかった場所であり、また歴史上の様々な段階で戦いが繰り返された土地でもあるからである。

 ルルフォにとって具体的な場所とその風景は時間と空間を内包するものであった。本論文は、ルルフォがよく知る地域の記録や自らの経験を創作に用い、特定の場所及びそこで生きる人々の営みを文学的な方法で記録しようとしたという前提に立ち、彼の文学作品を分析する。ルルフォが生前に発表した作品の多くが、ある程度特定可能な実在の場所をモデルとしたフィクションである。ルルフォ作品における場所の重要性を明らかにし、またその場所で展開する出来事を語る手法の特徴を分析することが本論の目的である。特にルルフォ作品における個別の土地の歴史の重要性、場所と人間との関係性、その表現のため使用される語りの手法を明らかにする。

 ルルフォの創作において、親密な場所の自然環境や地形は大きな意味を持ち、また物語の展開にも重要な役割を果たす。しかし、この特定の場所を描く行為はルルフォ作品をその地を知らない人間にしか理解できない閉鎖的なものにしているわけではない。ルルフォはそれぞれの土地の文化や歴史を固有のものと認識し、メキシコ性という国家と関わる一つのものに回収することはなかったと筆者は考えている。そしてまたそれゆえにルルフォが土地、家族、記憶などをどのように作品に描いたのかという問題は、メキシコの地を舞台にしているとはいえ、現代の多くの土地で文学が担う役割を再度考察することにもつながる。特定の場所の経験は、普遍的な場所と人間の結びつきとも関係しているからである。

 本論では文学作品における場所についての定義を主にイーフー・トゥアンとエドワード・レルフの論に依拠しながら、作品内において象徴的に意味を付与された空間の使用だけではなく、主にルルフォと実際に存在する場所の関係、その場所で生活する人々の声を通じた場所の表象に注目し論じる。

 本論の独自性は、現在まであまり研究が進んでいないルルフォの年代記を中心とする歴史記録への興味を重視して論じる点、ルルフォの文学テクストを先行研究やルルフォが関わっていた様々なジャンルの活動も踏まえ分析・解釈する点、そして自明であると認識されているがゆえに不問に付されているルルフォにとっての「場所」の重要性をルルフォの創作態度や作品から裏付けようとする点にある。ルルフォが年代記等の歴史記録に学びながらもどのように場所から立ち上がる人々の生を描いたのかを検討する。彼が歴史記録への憧れを持ちながらも形にすることはできず、よく知る土地を描く際にはその地に生きる人々の語りや声を用いながら創作したことを示し、それが彼なりの方法で場所を記録することであったと考えてみたい。

 第1章「権力と小説」ではルルフォの年代記への興味、そしてラテンアメリカ小説と権力との関わりを取り上げる。第1節では年代記という記録が権力の正当化に資する要素をはらみながらも、場所や出来事を記す歴史の証人となる点におけるルルフォの態度を考察する。ルルフォが年代記を評価した理由を検討し、以下の論の前提とする。筆者は、ルルフォ作品は大文字の歴史史料と距離を置いた作品であり、またルルフォ自身は「国民的作家」という立場に居心地の悪さを感じていたと考えている。しかしその創作スタンスにおいては、権力と結びつく可能性をも秘めていたとも認識している。また年代記から開始されたともいえるラテンアメリカの文学が権力と結びつくことが頻繁に起こりうることを確認する。第2節では作品を発表した当時の批評、メキシコ文壇の状況を確認することで、ルルフォが国家的アイデンティティ模索の途上であったメキシコにおいて国民的作家とみなされてゆくプロセスを明らかにする。その後、主に『ペドロ・パラモ』における権力の表象、その解体の表現を第3節で検討する。

 権力や国家的なものとの関わりを踏まえつつも、作品の多くが彼が幼少期を過ごした場所を舞台としていることに注目し、ルルフォの歴史記述への興味と、彼の作品における歴史や過去の記述の方法について論じるのが第2章「場所・歴史・創作」である。いくつもの歴史の層をとどめている場所の描き方の一つの見本として彼は年代記をとらえている。発表された文学作品、紀行文およびアイデアを記したノート等も分析の対象としながら、ルルフォ自身が「声」の文化に属しながら、執筆活動をしたことを論じる。第1節では、ルルフォが実際に赴いた場所の歴史を記録しようとする態度がすでに創作へと向かっていることを指摘する。第2節では、彼が記録についての年代記および革命小説をどのように理解し、創作に生かしたのかという問いから出発する。ルルフォが出身地であるハリスコ州の年代記をふまえて創作したことを実例を挙げつつ示す。第3節では同じくハリスコ州出身の作家アグスティン・ヤニェス (Agustín Yáñez) の作品とルルフォ作品を比較し、ルルフォが先人に学んだ手法と新しく加えた要素を検討する。第4節では、具体的な場所をフィクション化する手法を『ペドロ・パラモ』および短篇等を用いて分析する。

 第3章「声を用いた手法の確立」では、場所を描く際にルルフォが採用した語りの手法の様々な試みについて扱う。ルルフォ作品における場所と登場人物の関わり方、登場人物にとっての身近な過去の表象が声を用いてどのように行われるのかを検討する。ルルフォ作品は主観的な一人称の語りによって特徴づけられているが、それは人々の話しことばの引き写しではない。第1節では、ルルフォが創作の初期のころには都市を語ろうとし、また一人称のマージナルな視点から物語を語る試みをすでに行っていたことを検証する。そして第2節では、短篇「燃える平原」の登場人物の語りを中心とした作品の創作のプロセスを追いながら、ルルフォの簡潔な文体、一人称の語りは大いに戦略的であることを示す。また、ルルフォの一人称の語りは主観的に情景を語るものであり、その際に場所の表象が登場人物たちの状態や心情を表現するために重要な鍵となっていることを指摘するのが第3節である。第4節では、ルルフォ作品における語りのテクニックを、主に一人称と三人称の操作に注目しつつ述べる。そして第5節ではルルフォがとらわれ続けた父親の死をいかにフィクションとして再創造したかを検討する。

 終わりには、ルルフォ作品が現代において様々な国の多様な状況に置かれた人々に寄り添うことができる小説であること、また創作の刺激となっている作品であることを指摘する。現代作家たちへの影響、またメキシコの現在の状況等を参照しながら述べる。人間と場所との関わり、場所から立ちあがる過去を語るという点において、ルルフォ作品は現在でも新しいことを示したい。

 ルルフォ作品を構成する要素にはメキシコの植民地時代の歴史や二十世紀史、また先行する世界の文学やメキシコの作家の影響、ハリスコの人々の会話など多くの要素が混在している。本論ではそれをルルフォと権力の関係、権力の表象、ルルフォ作品における場所、語りの手法等を軸にしながら論じた。ルルフォの歴史および歴史を内包する場所への興味は、権力に資する危険もはらみつつ、結果的には一見すると歴史史料や記録とは見えないような作品に結実した。ルルフォ作品は場所に内包されている積み重なった時間をその場所に住む人々の声をフィクション化することによって記録する方法であった。

 ルルフォは生まれ育った場所からインスピレーションを受けながらも現実とは異なるパラレルワールドを創造した。そしてその作品はまさに完全な現実の引き写しでないことによって、普遍性を獲得することができたのであろう。