近松門左衛門の浄瑠璃作品は、その研究の最初期において、シェイクスピア悲劇と比較され、人間性を表現した作品として評価されてきた。それらの研究では、近代につながる資本主義や民主主義の萌芽を見出し評価しようとするため、近世における仏教の影響、近世封建社会における規範、朱子学の発想など、多くの要素が見落とされ、あるいは低く評価されている。悲劇として評価しようとする研究以外に、「情け」や武士の規範との関係に注目する研究もあるが、いわゆる世話物を対象としたものが主であり、近松が作り上げた思想構造全体を解き明かすに至っていない。近松の浄瑠璃作品の思想構造に注目する研究は、かえって供犠など古代や中世の構造を利用するものが多く、近世封建社会の特質を取り上げない傾向がある。これらの先行研究を踏まえ、本論では、近世の思想構造をもとに、近松が作り上げた思想構造全体を解き明かそうと試みた。

 序章では、近松が情けという人間的な情感を描こうとしたこと、また古浄瑠璃と異なる、太平の世を祝賀する新たな結語を創作したことに注目し、近松が、私的な情念から秩序の成立を導くという朱子学の発想を背景に作劇を行ったことを明らかにした。また、近松作品がいわゆる勧善懲悪の筋を作り上げたこと、のちに悪や畜生と呼ばれる人物を主役とする作品を作ったことを踏まえ、その思想構造の変化を解き明かす必要があることを確認した。本論ではそのため、最初期の時代物から、敵役の特徴が確認できる一連の時代物と世話物、代表的な世話物、敵役的な人物を主役とする世話物を検討の対象としている。

 倫理思想としては、近松の思想構造を明らかにし、近松が人間の実在をどのようにとらえたかを論じることで、近松が人間における悪をどのように捉えていたかを問うことができる。情念から秩序を導こうとする朱子学の発想から、敵役的な人物を主役とする作品が生まれるのであるとすれば、近松作品の検討から人倫秩序におさまらない人間の本体が見出せよう。

 一章では『出世景清』を対象とし、私的な情念と秩序との関係を解き明かした。『出世景清』の検討から、誠実な情念を持つ景清が、その誠実さゆえに秩序から突出すること、景清の平家への忠義が頼朝に認められることで、誠実な情念のままに世の秩序に加わり、太平の世の秩序を作りあげる一助となることが確認された。近松の思想構造には、秩序から突出するほどの誠実な情念が認められることで、秩序が更新されるという動的な要素がある。誠実な情念を持つ存在は、たとえ秩序からはみ出しても、秩序の中央にいる存在に認められることで、秩序に加わることができ、救われる。秩序を作り上げた存在も、そもそもそのような誠実な情念を持つ存在であり、秩序から突出する情念の持ち主であった。秩序から突出する誠実さこそ、秩序を作り上げ、強化するものなのである。一方で、このような秩序と人倫世界のうちにあって、誠実な人間関係を築かない存在もいる。誠実な情念を持たず、私欲に基づいて行動する敵役である。敵役が立役に規範的に対立する存在であるとすれば、秩序に反する悪と言える存在は、秩序から突出する立役景清ではなく、秩序のうちにありながら、誠実な人間関係を築かない敵役十蔵ということになる。

 二章では敵役の特徴を確認した。まず曾我物の検討を行い、敵役が計量可能で代替可能な財貨や力によって関係を築こうとすること、死を恐れることが確認された。ついで『堀川波鼓』の検討から、敵役が女の命を懸けた誠実さに応えたくない、恋愛関係に通う真情が理解できない存在であることが明らかになった。しかし同時に、敵役が誠実な関係を恐れ避けるということは、誠実な関係の根底に、命を懸けた切実な情念があることを、ある意味で承知しているということも予感された。

 三章では『曾根崎心中』を扱い、近世町人世界における秩序と情念の関係を確認した。お初と徳兵衛とが人倫秩序における理想を目指した時、二人が人倫世界から突出し、死によって二人の間だけで理想の関係に至ったことが明らかとなった。そのあり様が周囲の人々の心を動かし、人々に人倫秩序の理想を意識させることで、秩序の更新に結び付いた。一方で、人倫秩序の理想がいつのまにか人倫世界から突出してしまうということから、人倫世界を形作る人々のうちに、秩序とは相容れない部分があるということも明らかとなった。

 ついで行った『曾根崎心中』の敵役九平次の検討から、秩序と相容れない部分とは、理想的関係に対する尻込みであり、理想的関係に感じる正体の分からない怖さであると確認できた。理想的関係には生の意味があると同時に死の気配があり、尻込みや恐怖は人間の生きたいという思いに起因する。秩序によって人間は生きているからこそ、それによって死ぬこともある。よりよく生きたいがゆえに人倫秩序の理想を求める時、死を受け入れがたい人間は、理想を前にして立ち止まる。そこで立ち止まらないのが立役であり、そこで尻込みすることが敵役の端緒である。人倫秩序の理想を前に、二つのあり方に分かれるのが、立役と敵役である。

 四章では『女殺油地獄』の検討によって、敵役の後退りについて確認した。これによって、敵役の尻込みは制御できるものではないことが明らかになった。それは自己として現に存在し、生き死ぬことの受け止め難さに関わるものであり、人間が自己の存在理由を知らないまま生まれる以上は、すべての人間が敵役のように、自己の存在理由に対して後退りをする可能性があるということである。

 結論は以下の通りである。近松門左衛門の浄瑠璃作品において、人倫世界の秩序は、関係に通う誠実な情念によって求められた。他者と誠実に関係しようとする時、人は秩序に則って関係しようとする。しかし、時に他者と誠実に関係しようとするあまり、人は人倫世界から突出し、また人倫秩序から逸脱してしまうことがある。その時、人はその誠実な情念を証明することで、人倫秩序の統制者や周囲の人々に認められ、人倫世界に回帰することができる。突出、または逸脱した者が回帰した人倫世界は、その者の誠実な情念を含み込むことで人倫秩序を新たなものとして強化する。一方、人倫世界のうちには敵役のような不誠実な者も存在する。彼らは一見誠実な者と規範を異にするようだが、不誠実であることは、実は誠実な者との関わりを前提としている。関係を裏切るには、まず関係の中で生きることが必要である。人は普通人倫世界の中に生まれ、その人倫秩序を規範として志向する。人々が人倫秩序に則り、互いに誠実に関係しようとするとき、その関係に徹しきれない者、関係の前で立ち止まる者が不誠実な者である。対して関係に徹していく者が誠実な者である。命を懸けた誠実な関係は、相手のかけがえのなさに向き合うと共に、己のかけがえのなさを突き付けられるものである。その関係は、生きがいとなり、死ぬ理由となる。不誠実な者は、誠実な関係に含まれる死を恐れ立ち止まる。あるいはそこに露わとなった己の正体を拒否して後ずさる。財貨を通した交換可能で計量可能な関係は、誠実な関係を拒否した不誠実な者にとって好ましい関係である。不誠実な者の、誠実な関係を前にした後退は、制御できるものではない。それは自己として現に存在し、生き死ぬことの受け止め難さに関わる。敵役つまり人倫の世界におさまらない人間の正体とは、人間が自己の存在の根底を了解できないということである。