本論文は、「近世日本の災害」を事例として、「災害と宗教」研究という、宗教学における新しい研究分野の必要性を提起し、その可能性を考察する研究である。

 第一章では、「災害」概念が「自然性と人為性」、「歴史性と地域性」をもつため、その定義が容易ではないことを指摘した上、本研究の作業仮説的な「災害」の定義として、「事態性」、「被害性」、「社会性」、「宗教性」という四つの特徴を提示した。災害をめぐる宗教学的理解の歴史は、「象徴としての災害」と「事態としての災害」を対象にした研究とに区分できるが、本研究は「事態としての災害」、その中でも「トラウマとしての災害」を研究対象にする。「トラウマとしての災害」は、人間の限界状況を作り上げ、物理的被害のみならず、心理的な衝撃と苦痛をもたらす。そうした「災害」をめぐる近世日本の人々の「認識」と「対処」を、とくに「呪術」・「終末」・「慰霊」・「象徴」という宗教学的観点から分析することが本研究の目的である。

 第二章では、近世日本の災害研究の資料論として「災害見聞記」の重要性を考察した。中世日本の『方丈記』と『立正安国論』は、具体的な災害をとりあげてその際の人々の認識と対処の様子に言及しており、また近世の災害記録に大きな影響を与えた点で、近世「災害見聞記」の原型といえる。災害を見聞しそれを書き残すこと自体を目的とする本格的な「災害見聞記」は近世から登場し、近世日本の災害研究に欠かせない資料となる。その中で1662年の近江・若狭地震の「災害見聞記」である浅井了意の『かなめいし』をとりあげて分析した。『かなめいし』には、近世初期京都での地震災害をめぐる人々の多様な認識と対処がよく描かれている。地震災害を防ぐための「呪術」として、地震除けの呪文、歌の札を貼ること、託宣、鹿島信仰が紹介されており、また地震災害による「終末」意識として「泥の海」と「火の玉」などのイメージが提示されている。その中でも「世なおし」の呪文と「泥の海」の終末意識は、これ以降近世民俗・民衆宗教史における変革論と救済論との関連を推測させる点で重要と思われる。

 第三章・第四章・第五章では、近世災害における災害死者の発生・埋葬・慰霊と記憶の問題を考察した。とくに災害は「大量の無縁死者」をもたらすという点で量的にも質的にも特殊な死者発生の状況を作り上げる。

 第三章では、1657年の明暦の大火という火災を事例としてとりあげ、「災害死者」をめぐる様々な問題を考察した。とくに火災による大量死者の問題を考察する方法として、集団埋葬地に開創された「諸宗山無縁寺回向院」という寺院に注目した。回向院は明暦の大火の災害死者の慰霊のために諸宗派の寺院から僧侶が集まり、合同慰霊を行った超宗派的な寺院として誕生したという認識が、江戸時代から始まり、現在まで続いている。しかし、当時の資料を再検討することで、慰霊の儀式に集まった僧侶は、浄土宗の僧侶で、その儀式も浄土宗の追善供養の作法によるものであったことを明らかにした。それを踏まえて、「諸宗山無縁寺回向院」という回向院初期の名称の意味が、「諸宗」の「無縁」死者を「回向」する寺院であることを、集団埋葬の意味や、近世寺檀制度における死者処理の限界を考察することから示そうとした。また、近世における回向院の歴史全体を通して、回向院が様々な災害死者や事故死者などの慰霊の空間、または庶民信仰・娯楽の空間にまでその性質を拡大していくことになった背景には、災害死者の慰霊に参加する幅広い生者の関わりがあることも指摘した。

 第四章では、1732~1733年に西日本を中心に発生した享保の大飢饉を事例としてとりあげた。まず、享保の飢饉の概要と死者発生の場面をみるために、藩の記録や「災害見聞記」を参考にし、冷害と虫害による飢饉の発生から凶作による米価の上昇、食糧不足による移動、その中で人々が行き倒れて死に至る過程を描いた。そして、飢饉死者の個別埋葬と集団埋葬の様子、藩による施餓鬼の実施の様子にふれた。それに加え、民間での災害死者の埋葬と慰霊の様子をみるために、『飢人地蔵物語』という資料をとりあげて、そこに収められた供養塔と地蔵像の銘文を分析した。その分析から現在も福岡で行われている「川端飢人地蔵夏祭り」とその地蔵像に中心とした「飢人地蔵信仰」の歴史が、飢饉死者の集団埋葬地の上に死者慰霊の目的で建てられた「地蔵像」から出発した可能性を指摘した。それは、飢饉当時に多く建てられた地蔵像の銘文から確認される。また供養塔の銘文からも、村の飢饉死者を集団埋葬した場所の上に塔が建てられたことや、供養塔が村共同の慰霊を目的に建立されたこと、災害死者が「三界万霊」・「餓死亡霊」など集団的存在として捉えられていることを確認した。こうした地方での飢饉死者の事例から、民俗信仰としての地蔵信仰が飢饉死者慰霊のかたちで表れたという点は注目に値する。

 第五章では、第三章と第四章での議論を踏まえて近世災害死者の全般的な特徴を考察した。とくに近世災害死者をめぐる生者の認識と実践を「無縁」の概念を用いて説明しようとした。死者としての「無縁」の概念には「無主」と「無遮」という動態的で、相互補完的なふたつの意味が存在する。「無主」が「無関係」を意味するとすれば、「無遮」は「無差別」・「無制限」を意味する。弔う縁者の不在という「無主」の死者は、生者によって認識論的に創出された周緣的な存在であり、中国、朝鮮、日本など東アジアでは共通に認識されている存在である。中世日本では、こうした「無主」の災害死者が「法界」・「三界万霊」と呼ばれており、近世に入ってはそれらとともに、「無縁」・「有縁無縁」などの名称も登場する。それは様々な近世災害死者の供養塔と地蔵像の銘文を通して確認される。この「無縁」・「有縁無縁」・「三界万霊」として認識された近世の災害死者の意味は、その名称に込められている「無縁死者」と「無縁生者」の動態的な関係から把握しなければならない。それは生者による災害死者の「無主性」の認識の過程と、集団埋葬や慰霊における無縁死者の「無遮性」の創出という過程で表れており、災害死者が「平等的」・「諸宗的」・「集団的」存在として認識されていたことからよく確認される。このような災害死者の「無縁」という性格は、災害死者自身がもつ性格というより、無縁死者供養に参加する「無縁生者」との関係性の中で現れる性格である。

 第六章と第七章では、「象徴」のキーワードを中心に近世末の災害と、その後登場した絵画に注目し、災害の認識と対処における「災害象徴」の意味を考察した。

 第六章では1862年に起きた文久麻疹大流行と、その際に江戸で登場した「はしか絵」という絵画を対象とした。「はしか絵」が麻疹大流行という災害事態をめぐる認識と対処の象徴化であるという観点から、「はしか絵」全体を分類し、個々の絵を具体的に分析した。災害原因の象徴化としての「はしか絵」には、麻疹を起こす超自然的な存在が描かれており、また詞書には麻疹の周期性や症状の説明も書かれている。その原因論を踏まえて、災害対処の象徴化として麻疹を防ぐ、あるいは治す超自然的な存在、また呪術や養生の情報の紹介、ひいては世相を描く風刺の側面も表れている。このように、本研究において災害事態との緊密な関係の中で把握した「はしか絵」は、従来指摘されてきた呪術紹介の側面のみ、あるいは医療情報の共有の側面のみにとどまらない多様な内容が表れており、それは「緊急事態における災害認識や災害対処の象徴化」という実用的な側面によるものである。一枚の「はしか絵」の中に呪術性と情報性が同時に表れていることも、災害の事態を理解し、それを乗り越えようとする「実用性」の観点から評価すべきである。

 第七章では、「はしか絵」をめぐる議論をさらに拡大させ、近世末の災害とその後に登場した絵画全体を「災害錦絵」として分類し、それらを分析した。「疱瘡絵」、1855年の安政江戸地震と「鯰絵」、1858年の安政コレラ大流行と「コレラ絵」、1862年の文久麻疹大流行と「はしか絵」がそれである。災害をめぐる認識と対処の象徴化として「災害錦絵」が登場したという観点から、三つの共通する問題をとりあげた。一つ目は災害を起こす存在と防ぐ存在が悪神と善神として描かれている点である。「鯰絵」のみこの悪神と善神の間に象徴変換が起こっており、それを象徴変換と無変換の理論から考察した。二つ目は「災害錦絵」における笑いと悲しみの問題である。従来に提示された「災害錦絵」の諧謔と風刺に対する説明を再検討するとともに、「災害錦絵」における「死」と「悲しみ」の表現にふれ、「災害錦絵」は「災害見聞記」とは異なり、「災害」自体をありのままに表現することが目的ではなかったことを指摘した。三つ目は、「災害錦絵」の代表的な実用性である「呪術性」の問題である。「災害錦絵」の呪術性は、絵自体を用いる「物理的呪術性」とともに、図柄を通して表れる「象徴的呪術性」の両側面を考慮しなければならない。この三つの問題の考察から、当時の他の錦絵と区別できる「災害錦絵」の特徴が指摘できた。それは「災害」という緊急事態における災害認識と災害対処の象徴化として、実用的な目的をもって現れたということである。

 第八章では、本研究全体をまとめてその意義を提示するとともに、本研究で十分考察できなかった課題や、将来的に取り組むべき課題について、日本宗教研究の観点、比較研究の観点、一般理論化の観点という三つの観点からふれ、「災害と宗教」研究の将来的な可能性を考察した。