本稿は、中国と日本、さらには東アジア全域にわたって広く行われてきた易経の学問が、王朝政治の制度的な支えがなくなった時代において、どのような形態で存続していたのか、という問題関心に基づき、清末以降の中国と明治以降の日本がともに遭遇した文化転換期における経学を研究対象とする。

この近代における易経学のあり方という問題について、下記の如く二部に分けて論じる。第一部では、清末から民国期の中国における易経学の展開を、曹元弼・杭辛斎・尚秉和・顧頡剛らの人物像を描きながら、彼らの学問における易経学の位置づけ、及びその時代の思想全体における彼らの学問の位置づけを論じる。その中で、遠藤隆吉・内藤湖南・本田成之・津田左右吉などの日本の知識人における関連する思想とも比較研究を行いながら、両者の間に存在するダイナミックな学の連動や共通要素の究明を試みる。第二部では、日本の知識人が有していた「経」に対する意識について論じ、江戸時代における易経の実用主義という主要な特徴に触れながら、明治期における経書の学問と政治との結びつきを探求することを試みる。

 第一部の序説では、まず概論として、清末民国期に語られた経学を俯瞰する。当時多種多様な形で存在していた経学の類型には、経書の権威性を保つ聖人の学、現代学科体制におけるディシプリン化された経学、経学的図式を用いながらそこに新思想を内包した学などがあった。これらの学の存在は、文字訓詁・文献考証などを中心とした伝統の経学とは異なり、世情の変遷に伴い経学が豊かに変貌したことを物語っている。また、経学史の叙述と経学教科書の興起は、西学の移入による経学の相対化に応じて生じた当時における一大現象である。

 第一章では、社会の転換や新学の興起といった思想背景のもと、経学研究が周縁化されてきたとはいえ、知識人の精神世界において経書は依然としてかなりの影響力を持っていたことについて、曹元弼(1867~1953)という経学者の易経研究、及びその周辺にいた張錫恭(1858~1924)・馬貞楡(1867~1953)・唐文治(1865~1954)らの人物の紹介を通じて論じる。曹元弼の易説は、主に『周易学』『周易鄭氏箋釈』『周易集解補釈』といった著作の特徴から明らかなように、考証的な清朝乾嘉期の学術の遺風を受け継いだものであり、そして、その学問には漢易を重んじる傾向があり、また恵棟をはじめとする呉派の学風からの影響が見られることを論じる。

第二章では、伝統学問の内部においてさらに多様な形態や新たな進展が現れた具体例として、杭辛斎(1869~1924)という人物を取り上げる。杭辛斎は長く『国聞報』・『中華報』などの啓蒙的報刊の創刊や運営に参与したが、晩年獄中の奇遇によって易を伝授され、その後易の研究に専念した人物である。彼の著書には、伝来した科学・哲学の吸収や転換期における視野の開放などの要素の影響により、易のテキストや思惟に対する創造的な解釈が見られる。特に彼は、易の解釈法において、「経を詁む」という狭き門に束縛されてはいけないという宣言を行い、大きく変遷した世界情勢に応じて日本・アメリカなどの地に向けた「世界の眼光」を提唱し、また易のような古典を媒介として教育・法律・政治などの新思想を導入することによって、経学方法論を革新しながら経学研究の新たな回路を開こうとしていた。また、第二章では、ほぼ同じ時期の日本において、杭辛斎から関心を示されていた遠藤隆吉の易研究にも同様の動きが見られることを論じる。近代における経学の立脚地を模索する際に、両者はともに経典に対する字句の考証のみを学問の象徴とすることに反対し、さらに当時の人々が理解しやすいように、易の論述法の平易性及び応時性を提唱した。

第三章では、尚秉和(1870~1950)という人物とその易の詳細を取り上げ、清末の思想界には西洋の学や革命の思潮がもたらした「新」の一面以外にも、伝統的易研究の内部により豊富な一面があり、象をはじめとする易の研究は依然として生命力を保ち続けていたことを論じる。尚秉和は『焦氏易林注』『焦氏易詁』『周易古筮法』などを著し、その易に関しては、『易林』解釈や易象認識及び易筮説に独自の見解が見られ、易解釈史に新たな解釈体例を提供している。特に、漢の書物とされる『焦氏易林』から獲得された易象から、中爻・伏象(対象)・覆象(反象)・大象などの易例に敷衍し、新たな『易林』解釈、及び『周易』解釈に導いていた。その上、卦爻辞の応用は重要であるが、やはり象こそが一番大切であるという主張があり、彼の実践した筮案の二、三の例からその見解の内実を窺うことができる。本章では、それが清末民国期の中国において解易体例を革新する得難い事例であったことを指摘したい。また本章の最後に、清末に見られる尚秉和と同種の易象説、茹敦和・蔡首乾・卞斌・徐昂など清末の易研究者たちにみられる易象説、及び彼の易説が日本の学界、主に近藤龍雄・薮田嘉一郎らによって紹介された様子やその反応に触れている。

第四章では、中国の顧頡剛(1893~1980)をはじめとする古史弁派や内藤湖南をはじめとする『支那学』諸学者の説を取り上げ、革命や新文化運動などに伴って思想界において伝統学問に対する清算が猛烈になされるようになり、このような事情を背景として経学をめぐる論争が陣地を史学に移して再び行われたという現象について論じる。易のテキスト、易の作者、十翼の成立年代、及び易と占筮の関係などの問題に対する検討は、伝統易学から受け継がれたものであると同時に、中国においてであれ、日本においてであれ、転換期においては科学的・実証的・批判的・西洋的な方向に傾いていった。具体的に言えば、楊向奎(1910~2000)による今文経学者としての顧頡剛像、顧頡剛と崔適(1852~1924)の学的継承関係は、今古文論争は陰陽五行説に起源するという説にあることを論じながら、顧頡剛らは、経書の弁偽学の延長として、今文経学式の事業を広めていることを指摘したい。『古史弁』思潮の高揚とほぼ同時に、明治・大正期の日本には、易はもと何であったのか、経と伝の成立の絶対年代がいつであったのか、また卦爻の構成や筮数などが再び関心を惹かれるようになった。1920年に発刊された『支那学』という雑誌に掲載された経典テキストの確定に関わる論考、特に内藤湖南(1866~1934)「易疑」・本田成之(1882~1945)「作易年代考」など、及び武内義雄(1886~1966)・津田左右吉(1973~1961)らの易考は、経書成立の歴史を考証的に探究したことであり、そこから終末期を迎えた旧漢学の様子を垣間見せている。このように、新たな学術的秩序を樹立しようとしていた思想界の動きは、経学の領域に疑古あるいは疑経/伝の観念の湧出から検証され得る。このような文化的心理が、転換期の東アジア全域にわたる経書研究において共通した問題意識として応用されていたことを指摘し、本章に登場する多くの学者の史学領域における問題解決の論理を分析しながら、それが経学的な色彩を帯びていたことを明らかにする。

第五章では、日本における易経学の「近代」について論じる前段階として、まず日本の知識人が意識する経と伝とは何かという問題について考察する。具体的には、宋元中国と対照的な江戸日本における「古易」現象を考察の手掛かりとする。「復古」と呼ばれる宋元中国の「古易」運動は、「経を経とし、伝を伝とす」という刊行形式の問題から始まり、経と伝の関係へとの問題が派生し、さらに『易経』解釈の革新に及んだ。そこで、江戸時代の『易経』に関する著作に見られる「古易」思潮を、宋元中国の復古運動の延長として位置づけることでその流れを整理することを試みる。また、伊藤仁斎・太宰春台・新井白蛾・中井履軒などの儒者の著作に対する分析を通じて、江戸時代の儒者が経と伝の関係や『易経』の性質をめぐって展開した討論、及び朱子学への批判などについて論じる。その上で、思想史研究の立場から、経典解釈における共通する問題意識の中に、日中の儒学における異質な構想や動機が含まれていた状況を明らかにしてゆきたい。

第六章では、新井白蛾(1715~1792)という人物と日本の易占の伝統を取り上げ、経書自体が江戸日本の庶民生活に深く浸透していたという前提に立ち、当時隆盛していた易占の伝統を探究することを試みる。まず、白蛾の学統と易説を分析したうえで、学問としての文字訓詁や意味解釈の辞章の易を排斥し、易は占の実践によって活用すべきものであるとする白蛾の立場を指摘する。次に、主として白蛾の取蓍法及び梅花易の占法に触れながら、馬場信武の梅花易和字解、真勢中州の四十八策説及び根本通明の三十六変筮法について詳しく解説する。最後に、明治以降における白蛾の易占の受容について論じる。

第七章では、日本近世漢学の終末を迎えた一例として根本通明を取り上げ、彼の易象説が長子相続制や革命否認という明治日本の国体論に結びついていたことを論じる。そして、通明と中国の文人・官僚であった呉汝綸が交わした書簡において、両者の持論は真っ向から対立したが、それが各自の背後に存する学術環境と緊密に結びついていたことを明らかにする。また、故郷の秋田県において養成された通明の易が「秋田派易学」の雰囲気に影響を受けていたことを指摘し、明治期の日本における地方儒学の一側面に触れる。このように、通明の易を例として、明治期に天皇を中心とする政治体制を正当化することにおいて、経学が思想資源として大いに作用していたことを解明する。