本論は、世阿弥の能楽論の芸術論としての特質を明らかにすることを目的とする。より具体的には、世阿弥が理想の演技をどのように捉えていたか、よい俳優の条件とは何であり、作品にはどのような仕掛けを施すべきであると彼は考えていたのか、そして実際、彼が残した作品にはどのような仕掛けが施されているか――これらの点を、世阿弥の遺したテクストを批判的に読解することにより、明らかにする。

 世阿弥の能楽論についての研究はこれまでにも多くなされてきたが、伝本の発掘、諸本の比較・校合、本文確定に向けたテクスト批判・校訂の研究は現在に到るまで継続して行われているのに対して、内容理解・解釈の研究は前世紀後半にいったん下火になり、研究にやや遅れが生じている。特に、美学的・芸術学的観点から能楽論を検討することは、その必要性がかなり早くに訴えられていたにもかかわらず、これまで十分にはなされていない。本研究はそうした現状を踏まえ、世阿弥の理論的著作を主たる材料として、彼の思想のとりわけ芸術論としての特質を吟味することを試みる。

 能は演劇的パフォーマンスの一種である。演劇的パフォーマンスを構成する要素はいくつか考えられるが、本論では、俳優、演技、作品の三つの要素を重点的に取り上げ、議論の軸に置く。すなわち、本論の主題と問いは大まかに以下のような形で分節される。

(1) 俳優論:よい俳優とはどのような者か

(2) 演技論:よい演技とはどのようなものか

(3) 作品論:よい作品とはどのようなものか

 これらの問いを世阿弥のテクストに即して検討すること、それによって、彼がどのような芸術観、演技観を持っていたのか、また、彼の考え方はどのような特徴を持つものと評価されるかを明らかにすることが、本論の目的である。

 

 第一部では、俳優の魅力について論じる。第1章では、世阿弥が芸の魅力を〈花〉にたとえたことに着目し、舞台に〈花〉が咲くとはどのような事態か、世阿弥が俳優の魅力をどのように捉えていたかを明らかにする。〈花〉は、身体的な魅力としての〈身の花〉、精神力ないしは繊細な心遣いの表れとしての〈心の花〉など、いくつかの層を内に含みこむ。だがそれらはいずれも、〈花の種〉ではあっても上演の成功をもたらす決定的な条件ではない。舞台に〈花〉が咲くためには、それらの〈花の種〉が〈能〔作品〕の位、目利〔観客〕、在所・時分〉などと〈相応〉する必要がある。観客や在所・時分の状況は様々であり、何が、あるいはどのようなわざややり方が〈花の種〉として最適か、一律に定めることはできない。むしろ、その時その場の状況に応じてその都度柔軟に演技を組み立てられること、それができることが、魅力を開花させる最大の〈種〉なのである。

 第2章では、〈相応〉としての〈和合〉が実現した時に感じられる面白さ=〈めずらしさ〉とはどのようなものであるのか、分析する。世阿弥は、〈面白い〉とは〈めずらしい〉と同義であると考える。〈めずらしさ〉には、意外性の契機と必然性の契機が含まれる。この二つは方向性として反対を向いており、両立させることは難しいが、世阿弥によれば、両者を同時に感じさせるのでなければ〈面白さ〉は生起しない。それができる者こそがよい俳優なのであり、そのような形で演技がなされた時、上演はあたかも人の手を離れてそれ自身の力で〈おのずから出で来〉たように感じられるだろう。世阿弥が理想としたのは、そのような事態である。

 以上の検討から、〈花〉は俳優と観客の間に棲まうものであり、上演の成功は様々な要素の〈和合〉〈成就〉という形で、いわば関係性の上に成り立つものであることが明らかになる。

 第二部では、演技を扱う。〈和合〉を実現するため、役者は諸々のわざや演技をただ行うのではなく、〈和合〉を可能にするような仕方で行う必要がある。それはどのような仕方か。

 第3章では、謡および舞について論じる。世阿弥は謡を謡う際、どこから・どのように声を出すかに繊細な注意を払うよう指示している。彼が提示したスローガンが〈一調・二機・三声〉である。演者は舞台に出て最初の一声を発する際、場の状況、とりわけ観客の期待の方向・度合いをよく見計らって、それに〈和合〉するように声を出さなければならない。場の状況を読み取る手がかりとなるのが、〈機〉である。〈機〉とは心が取り得るある状態であり、個を超えたところで流れ漂っているものである。ここを切り口に、演者は観客の〈感〉に訴え、一座の〈感応〉を達成することができる。また、〈機〉は人だけでなく心を持つあらゆるもの(天・地・人のすべて)に想定されるので、これを手がかりに役者は〈天地の和合〉をも引き出し得る。謡(およびそれを身体で形象化した舞)は、天地人をつなぐメディアなのである。

 第4章では、物まね演技について論じる。能は演劇であるので、役柄の表現が必要である。世阿弥の模倣演技についての原則は、〈よく似せる〉ことである。しかしこれは、人物の外形を事細かに似せることではない。役柄ごとに〈我意分〉を見定め、それに〈成り入って〉演じることである。対象〈そのものに成る〉時、似せようという作為は消え、〈それらしさ〉がおのずと漂うようになる(似せるのではなく似る)。彼の理想とする〈大様な能〉においては、細かな演技はむしろ障害となる。〈我意分〉を踏まえ、それに〈成り入って〉、かつ、音曲(謡)の〈かかり〉の助けを得ることで、細かに似せることなく、それでいて十分な説得力を持つ〈物まね〉を行うことができる。

 第三部では、作品について論じる。世阿弥は演技者であると同時に作家でもあった。世阿弥が残した創作論のテクストを読解し、また実際に作られた作品を分析することで、彼の〈作品〉観を明らかにする。

 第5章では、創作論のテクストを読む。世阿弥は作品創作にあたり、〈序破急〉の理念を中心に据えた。多くの作品論と同様、彼もまた作品の〈まとまり〉を重視するが、〈まとまり〉をつける機能を〈完結性〉には期待しないのが彼の考えの特徴である。彼は、作品全体を序破急に沿った形で構想した上で、序破急の中ほど(破と急の間)に何らかの形で山場を作ることをよしとした。山場を作ることで作品は一定の輪郭と〈まとまり〉を得るが、それで作品の〈統一性〉は十分に担保されるのであるから、それ以上に強い〈まとまり〉をつける必要はないというのが彼の考えであった。このような方針に従って作られた作品は、いわば作品性を弱め、自然物に近づく。作品もまた、人為を離れ〈おのずから出で来る〉ことが望まれるのである。

 第6章では、世阿弥の作品《班女》を取り上げて分析し、和歌的な修辞法を用いて詞章を綴ることを世阿弥が好んだ理由を明らかにする。《班女》の詞章は、古歌を引用したり、縁語や掛詞を用いたりするなど、和歌的な手法をふんだんに用いて綴られている。華やかではあるが、見る者にわかりにくい印象を与えることは否定できない。しかしこれは、世阿弥が意図して行なったものであった。彼は、理解をつまづかせ、認知を拡散させることで、観客がより能動的に参与してくることが期待できると考えた。和歌的な修辞法は、観客の想像力の飛躍を促す仕掛けであり、上演の成就をより好ましい形で引き出すための方策であった。

 ここまでが、俳優・演技・作品に関する検討である。この後、派生的な、しかし本論の関心に深く関わる問題を二つ取り上げ、議論を補完する。

 第四部では、観客について扱う。第6章で見たように、世阿弥の作品は観客をある意味で混乱させるわけだが、鑑賞の経験として、混乱を楽しむなどということがあり得るのか、それはそもそもどのような経験なのか。第7章ではこの問題を、世阿弥の有名な文言〈秘すれば花〉の検討を通じて考える。世阿弥によれば、観客に芸を見せる時には、〈秘する〉こと、ある種の〈謎〉をかけることが有用である。しかしそれは、観客をただ驚懼させるためではない。〈謎〉に向き合うことは、概念を拡張し、美意識を更新するきっかけになる。芸を鑑賞するとは〈理解〉を得ることではなく、美的な体験を深めること、内なる創造を行うことである。〈秘する〉こと、鑑賞を撹乱することは、観客の参与をより創造的なものにせんとする工夫だったのである。

 第五部では、教育論を取り上げる。世阿弥は教育に関わる主張をいくつか展開しているが、その中で特に興味深いテーゼが〈初心忘るべからず〉である。第8章ではこのテーゼを取り上げる。世阿弥は、〈初心〉、つまり未熟な時の自分を忘れてはいけないという。それは、今の自分(〈後心〉)はかつての自分(〈初心〉)との対比のうちにしか捉えることはできないからである。〈初心〉を忘れないことで、今の自分の状態を的確に把握し、自分の位置を見定めることができる。しかし〈初心〉には、かつてあった自分だけでなく、あり得た自分、あり得べき自分も含まれ得るだろう。〈初心〉を忘れないとは、あらゆる事態のあらゆる可能性に開かれた自分であること。世阿弥はそこまで考えていた節がある。それはもちろん、〈花〉が無限の可能性を持つことと一体のことである。

 

 以上の検討を通じて、本論は全体として次のことを主張したい。世阿弥自身は確かに〈強い芸術家〉であったかもしれない。しかし彼は決して単に戦闘的・攻撃的であったわけではないし、役者たちにそれを求めたのでもない。〈花〉を実現するために必要なのは、上演の場に〈和合〉を実現させる力、すなわち、敵対・拮抗ではなく参与を促す繊細かつ緻密な知性としたたかさ、そして何より、可能性に開かれた柔らかさ、しなやかさである。