本論文は、『万葉集』にその作品が認められる歌人・山部赤人の作品と表現について考察したものである。

 本論文は、序章・第一篇・第二篇・第三篇・終章から成る。

 序章では、最初に、いわゆる「歌人論」の意義について述べた。『万葉集』研究においては、歌人論が主要な方法の一つであり続けてきた。しかしそれは、署名のある作品からその作者像を想像、造型し、その作者像から作品を解釈するという循環的な論法に陥ることが少なくなかった。一九六〇年代に入ると文学研究全般にテクスト論の波が押し寄せ、『万葉集』研究も次第にその影響を被ることになる。九〇年代~ゼロ年代にかけては歌人論の有効性が改めて問い返されることとなったが、本稿では、「歌人論」が今日でもなお条件付きで有効であることを論じた。それは決してかつてのように歌人を実体化することではなく、あくまでの同一署名を持つ作品群の特質の追究である。本論文に即して言えば、赤人歌(より正確を期して言えば、「山部赤(明)人」という作者署名を持つ個々の作品)の特質を探ることで、その作者の文学史上の位置を探るものである。

 第一篇は六つの章から成る。かつては「宮廷歌人」と称されるほど、赤人は行幸に従駕して詠作した讃歌が多く、長歌反歌を含めて彼の作中の三割を超える。その行幸従駕歌をこの第一篇では取り上げた。

 第一章では神亀元年の紀伊国行幸にて詠作された作(6・九一七~九一九)を取り上げた。そこでは、赤人の作が時間と空間とを構える作が、この時に出された聖武の詔の中の「遊覧」という語と密接な関係を持つのではないかと結論づけた。また、赤人の行幸従駕歌の長歌の殆どが「やすみしし 我ご大君」という語句を冒頭に据えている。赤人は同時期に行幸従駕歌を詠じた歌人である笠金村・車持千年に比して、王権讃美を表現しようとする意図が強いことが窺えるのだが、それは当該紀伊国行幸従駕歌に限らず、彼の行幸従駕歌全体の主調であると考えられる。

 第二・三・四章では吉野讃歌(6・九二三~九二七)について論じた。吉野讃歌の第一歌群(6・九二三~九二五)・第二歌群(6・九二六~九二七)が一括して『万葉集』に収載されていながら、この二つの歌群が同時に作られたことを疑う左注が附されている為、同時作か否かが論じられてきた。第二章では、少なくとも『万葉集』巻六編者は同時作と見ていないことを論じた。稿者もまた非同時作と捉え、以下の第三・第四章もその結論に従って考察している。

 第三章では吉野讃歌第一歌群の表現性を考察した。この歌群の長歌は人麻呂の吉野讃歌の類似性がかねてより指摘されてきたが、赤人が新たに試みた表現を指摘した。特にその対表現は、対象(当該歌では「吉野」の自然)を二つの要素に還元・局限し、それ以外の要素を持ち込まないことで、対象の表現の完全性を目指そうとするものであったと考えた。これは他の長歌にも言えることであるが、特に吉野讃歌にその傾向が強いと指摘した。

 第四章では吉野讃歌第二歌群の表現性を考察した。第一歌群に比して第二歌群は、意の不分明な箇所が見当たらず、解釈上の問題点がなかったこともあって論じられることが少なかった。しかし本論文では、長歌冒頭の「我ご大君は」という、取り立て助詞「は」を加えた言い方の特異性、行幸先の土地を讃美することが当時の行幸従駕歌の様式であった中で「大君」の行動のみを叙述してゆくことの特異性を指摘した。そうしてそれは、聖武即位直後初めての吉野行幸という一回的な場に於いて、新帝聖武の、帝王としての振る舞いである「狩り」とその躍動感を描き出そうとしたものであったと結論づけた。

 第五章では神亀二年の難波行幸の際に詠作された、難波行幸従駕歌(6・九三三~九三四)を取り上げた。この長歌は末尾「仕奉之 貴見礼者」の訓が定まっていなかったが、集中の語法の用例と比較検討することで「仕へ奉るが 貴き見れば」という訓が正しいという結論を導き出した。また、赤人の行幸従駕歌中、吉野讃歌以外の作に於ける長歌には、どれにも人々の漁撈採取の様が詠まれていることを指摘、それらは王土で生産活動に精励する王民の姿を描いたものであると結論づけた。その意味でも、赤人は、吉野行幸とそれ以外の土地への行幸(『万葉集』に限って言えば、紀伊・難波・印南野)は、その目的や意図を異なるものと捉えていたであろうことが想定される。

 第六章では神亀三年の印南野行幸の際に詠まれた印南野行幸従駕歌(6・九三八~九四一)を取り上げた。この作品は、長歌では行幸地の印南野を讃美し、それを王権讃美に以て代えるという従来の様式を取っていながら、反歌は、それまでの赤人の行幸従駕歌と異なって家郷思慕の念が直接的に詠まれている。そのため、かつては長歌と反歌との間に脱落を想定する説さえ存した。本論文では行幸従駕歌にはそもそも家郷思慕を詠む歌が多く見出せることを指摘し、人麻呂的な、行幸地の佳景を讃美する様式と家郷思慕を歌い上げる様式との結節点に当該赤人歌は位置付けられるのではないかと結論づけた。それはこの当時に於いて、〈公〉と〈私〉とは対立するものでは決して無く、〈私〉を含みこんで〈公〉は成り立つものであるという機構を反映したものであると考える。

 第二篇では、赤人が地方で詠作した作を取り上げた。なお、第二篇・第三篇で考察の対象とした作品は全て詠作年次未詳である。

 第一章は、富士山を詠んだ不尽山歌(3・三一七~三一八)を考察の対象とした。当該長歌の末尾に「語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ」という表現が登場する。これは一般的には讃美表現と理解されていたが、ミヤコの官人である赤人が、異土であるアヅマの事物をミヤコに告げ知らせようとする意図が込められた表現であったのではないかと考えた。従って、不尽山の形容の表現もまた、この山がミヤコに伝えられるべき意味を持つものとしての叙述になっていると読むべきであると結論づけた。

 第二章は伊予温泉歌(3・三二二~三二三)を取り上げた。これは、作者が伊予の温泉(現在の道後温泉)を訪れた際の作である。当該長歌の「歌思 辞思為師」は定訓・定説を見ない箇所であったが、これを検討し、斉明天皇が、かつて舒明天皇とこの地に遊んだ時に夫が詠んだ歌を想起していると捉えた。それは、歌というものが、単なる言語行為・言語作品であるのみならず、ある歴史的な事柄の記録・記憶という機能をも担っていたのではないかということをも指摘しての立論である。そうして、赤人もまたその歌を想起して歌を詠作することで王権の連続性が示されることになるのではないかと結論づけた。

 第三章は真間手児名歌(3・四三一~四三三)を考察した。これは東国は下総国葛飾郡真間(現在の千葉県市川市)の伝承の美女手児名を詠んだ作である。最初に、解釈が分かれている「倭文機の 帯解きかへて」という部分についての諸説を整理、検討し、これは手児名に求婚する男性が帯を交換しての意であるという解釈を支持した。次に、これは本篇第一章で取り上げた不尽山歌と同じくアヅマで詠まれた歌であり、ミヤコの人間である赤人のアヅマ観が反映した作であろうと考えた。また、同時期に活動した高橋虫麻呂にも真間手児名を題材にした作があるが、虫麻呂が伝承の内容に興味を示したのに対し、赤人は時間について感動しているという差違が見出せた。これは時間に対する感覚というものを赤人の資質として挙げ得る徴証になるのではないかと思われた。

 第三篇は景物歌を扱った。

 第一章は、『万葉集』巻八の春の歌四首(8・一四二五~一四二七)を取り上げた。この四首は大伴家持らによっても享受されていたことがうかがえ、平安時代にも広く親しまれていたと言える作であり、当時から現在に至るまで評価されてきている歌である。四首それぞれについて、訓や解釈の分かれている部分を検討した上で、表現の特質を述べた。それらに共通する点としては、時間というものが対象の表現に於いて巧みに取りこまれており、特異な効果を上げているということであった。特に、現在の景を叙述する際、その景が何らかの形でそれに関わる主体の過去を含み込んでおり、現在の景に奥行きをもたらすという特質を挙げることが出来る。この、一首が時間を含み込むということは、王朝和歌にも繋がる特質であるとは先学によって指摘されてきたことでもある。

 第二章は「韓藍」を詠んだ歌(3・三八四)の考察を通して、赤人の景物歌の特質を探った。この歌は、「韓藍」に女性を譬えた歌ではないかという指摘がかねてから存したが、これはむしろ景物に相聞的な情調を纏わせることによって一首の情緒を増す効果を狙った作ではないかと述べた。

 終章では、最初に、赤人が登場した時代背景を説明した。すなわち、彼が活躍したのは聖武朝の初期であったが、彼は生母が藤原氏であり、血統に弱点を抱えていた。従って、その即位は慣例からすれば異例なのだが、そうであるからこそ幾度も瑞祥が現れ、聖武こそ天も嘉する大王という演出が為される。赤人の王権讃歌もこのような文脈で読まれる必要があると述べた。ただし、そうではあるとしても、個々の作品には、赤人独自の表現性が認められることを、本論で考察してきたことを確認するかたちで述べ、赤人の表現の特質は、対象を十全に乃至より効果的に表現せんとする意志の反映であったのではないかと結論づけた。