本論文は、芸術家小説の元祖あるいは典型とされるルートヴィヒ・ティークの『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』(以下『シュテルンバルト』と略記する)を扱い、この作品の内容と位置づけを、他の作家の芸術家小説や、ティーク自身および執筆直前まで親友であったヴァッケンローダーの生涯や思想、作品と比較しながら論究したものである。

 

 序章および前半の3章では特にこの小説の成立過程や歴史的背景を述べ、後半の3章では作品の性質を、同種のテーマを扱った他作品と比較して論じた。終章ではそれまでの内容を踏まえつつ、この小説の含む芸術家小説性を包括的に検証した。

 

 序章については、しばしば短編「金髪のエックベルト」を書いたロマン主義作家として片付けられがちなティークという作家について、翻訳や編集、朗読など多彩な活動をした人物であることを紹介し、読者の関心を喚起するために書かれた。『シュテルンバルト』の分析と直接関わる部分ではないが、しかしティークという人物の性質についての理解を与えることが、本論文全体を読み進めるうえで役に立つと考えている。

 1章では、『シュテルンバルト』が芸術家小説史においてどのような位置にある作品かを確認する。ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』がひとつの礎石となり、またディドロ、ゲーテ、ハインゼの作品が芸術家小説の前提を作り上げたうえで、若きヴァッケンローダーとティークが芸術家小説の典型と言える作品を生み出す一連の流れを述べたほか、『シュテルンバルト』に対する当時の評価、また『シュテルンバルト』が影響を与えた、ホフマンの作品や他の芸術家小説の展開についても簡潔に述べたので、作品の重要性についても読者に伝わるものとなっている。

 2章では、『シュテルンバルト』にティークの友人ヴァッケンローダーが与えた影響を、とりわけ2人の共作である『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』と『芸術に関する幻想』の読解を通じて論じた。2人の友情関係についても伝記や書簡をもとに詳細に論じたほか、ヴァッケンローダーの芸術観や、『シュテルンバルト』成立に彼が果たした役割についてもここで述べた。共作した2作品の分析においては、類似する箇所が『シュテルンバルト』に見つかる場合にはそのたび言及した。この章によって、『シュテルンバルト』の芸術観が、いかに多くヴァッケンローダーに負っているかが明らかになる。

 3章では、ティーク自身の初期小説の成立過程が説明され、またそれらの小説と『シュテルンバルト』が比較される。まずティークがどのような教育を受けたのかを、外国語教育や読書歴、演劇への関心などについて詳しく述べて、模倣の才に優れた彼が具体的に誰の影響を受けて創作したのか見えやすくした。次に、『シュテルンバルト』は十分に若書きの作品であるが、早熟のティークはそれ以前からギムナジウムの講師らに才能を見出され、創作活動に携わってきたため、そうした創作における協力関係について述べた。とりわけベルリン啓蒙主義を代表する出版者ニコライは決別するまでにティークの著作をいくつも刊行し、イェーナ以前のティークを育てた人物であるから、彼との関係を重視して論じた。最後に、ティークの初期作品と『シュテルンバルト』の共通点と相違点を、いくつものキーワードに沿って論じた。とりわけ感傷性、詩、恋愛などの共通点はヴァッケンローダーの著作にはあまり見られないため、『シュテルンバルト』のティークらしさを確認するに好都合である。他方で、たとえばニヒリズムについては『シュテルンバルト』にはあまり見られないように、『シュテルンバルト』がティークの作品として異質な存在であるのも事実であって、このことは、ティークがあくまで共作として、ヴァッケンローダーに配慮して書いたことを想像させる。

 

 4章からは『シュテルンバルト』のテクスト分析を中心とし、他の作家や作品を比較の対象としている。4章では芸術家と社会という、ややありふれたテーマを扱う。これは芸術家小説に読者が最も期待するテーマで、とりわけトーマス・マンが仕上げたと言えるものである。ティークが活動した時代はマンとは遠く離れているが、ティークは『シュテルンバルト』においてすでに、その後を予感させる形でこのテーマを扱っている。これはヴァッケンローダーが「ベルクリンガーの生涯」ですでに試みたテーマだからだろう。「ベルクリンガーの生涯」では、財を持つだけで芸術を解さない人々への批判や、ひとの役に立てる職人に対する芸術家の劣等感、そして芸術家の社会への苦手意識や、宗教あるいは牧歌的雰囲気への逃避欲求などが先取りされている。したがって『シュテルンバルト』の分析は、これら素朴なヴァッケンローダー的価値観に対して、ティークが風刺や懐疑を挟みつつも、それなりに肯定する、そのバランスを作中において確認する作業となる。くわえて、たとえば貴族階級とおおむね良好な関係を保つところはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の影響が見られるなど、『シュテルンバルト』は長編小説だけに、作中にはひとつの軸にまとめきれない細部の多様性が存在している。この章はテーマが典型的であるためにより一層、そうした多様性を可能な限りすくい上げるものとして書かれた。

 5章では芸術家と狂気というテーマを扱う。ホフマンが確立したテーマであるが、狂気と創造力等を結びつけた言説は古代からあり、また悲劇や叙事詩にも狂気は登場人物の性質として描かれる。それらがティークの愛読するセルバンテスやシェイクスピア、ゲーテらを経て、芸術において肯定しうる性質としてティークの作品に持ち込まれたと考えられる。『シュテルンバルト』において狂人とされるのは山上に住む画家アンセルムやイタリアで出会うカミッロであるが、彼らは優れた絵を描くわけではないにせよ、その言葉はシュテルンバルトに芸術について再考させるほどの説得力を持っている。むしろ主人公が持つ感じやすさがこの狂気に近いものとして描かれ、デューラーはその危うさをシュテルンバルトの資質としても捉えている。とはいえ、他の登場人物、ルーカスやボルツは彼の感傷的な性格を詩人のようで画家に向かないと述べており、ティークがこの作品で一面的に狂気を肯定していないのも事実である。そうした作中の肯定的な意見と否定的な意見を掘り起こし、ティークが両面からどのような検討を重ねているかをありのままに説明した。

 6章で扱う理想の美と地上の美の葛藤については、文学研究上まだ典型が確立されていないため、読者に類例を提示することから始めるのが適当である。具体的にはカルデロン『不名誉の画家』、ホフマン「G市のイエズス会教会」「アーサー王宮」、バルザック「知られざる傑作」を扱う。これらは、それぞれに大きく内容の異なる作品であるが、理想の美と現実の美の葛藤によって、芸術家が悲劇的な結末を迎える(「アーサー王宮」はその明らかな裏返しである)という点で共通する。この葛藤はヴァッケンローダーの作品の画家には見られないが、ティークの作品では『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』や『芸術に関する幻想』に含まれる小品でもテーマとしてほのめかされている。『シュテルンバルト』ではよりはっきりと、主人公がゼバスティアンに宛てた手紙のなかで、マリーという地上の美と接近する恐怖を述べている。この章では主人公の他の女性との関わり方や、作品が未完に終わった理由とも結びつけて、ティークが『シュテルンバルト』でこのテーマをどのように扱ったかを、些末に思える箇所にも目を配って論じた。

 終章では、ここまでに提示した知識や解釈を材料として、登場人物の配置をもとに『シュテルンバルト』に盛り込まれている芸術家小説性についてまとめた。この作品は、登場人物が章ごとの主題に合わせて推移していくため、それぞれの登場人物の作中の意義を調べていけば、作者がそこで論じようとした主題を理解することができる。この章では、芸術の有用性といったすでに論文で扱ったテーマから、遍歴の重要性といった芸術家小説性と言いがたいテーマまで、特に本論文でこれまで扱いそびれた登場人物に焦点を当てて説明し、作品の主題を取りこぼさないことを心がけた。なお、作品全体と登場人物について最も俯瞰的に論じた章であるため、作品自体の内容に関心を抱く読者が全体を把握するうえで最も参考になることを意図して書いたものである。

 

 参考文献のほかに、付録として、未訳の長編小説であることを考慮して、各章ごとの出来事一覧と、作中でも印象深い芸術論が展開される3箇所の翻訳を収めた。これらは論文の内容を理解する上で役に立つものである。