地方支配は,あらゆる国家にとって,その存立を維持するうえで不可欠の営みであり,地方支配のあり方には国家や時代の特質が現れる。本研究はかかる問題意識のもと,室町幕府と在地勢力の関係に特に注目しつつ,室町幕府の地方支配の展開を成立期にまでさかのぼって検討し,その特質を論じるものである。

序章「本研究の目的と課題」では,2000年代以降の室町幕府研究,特に「室町幕府―守護体制論」をめぐる議論を整理しながら本研究の課題と視角を説明した。序章補論「書評 大薮海著『室町幕府と地域権力』」は,「非守護地域権力」論に対して私見を述べたものであり,著者の立場を理解する際の一助とした。

本論には,既発表論文に若干の新稿を加えた全7章(補論2本)を便宜3部に分けて配列した。各部・各章の概要は以下の通りである。

第Ⅰ部「室町幕府地方支配体制の展開」では,軍事制度・遵行制度の検討により室町幕府地方支配の展開を通時的・総合的に明らかにすることを試みた。軍事制度・遵行制度を取り上げたのは,室町幕府の課題が敵対勢力に対する軍事的勝利及び荘園制の維持にあり,この点に地方支配の特質が現れると考えられるからである。

第1章「初期室町幕府の軍事制度の特質と文書」では,初期室町幕府軍事制度の再検討を行い,軍事遂行のあり方から当該期における地方支配の特質を考察した。近年の軍事制度研究では足利一門・譜代被官部将に大きな軍事指揮権が与えられた一方,外様守護の軍事指揮権が制限されたことが指摘されてきた。第1・2節では後者の論拠となった「二重証判制度」等を「中世文書の当事者主義」の観点から検証し,国人の主体的な恩賞申請の結果と位置づけなおした。第3節では,従来の軍事制度研究の分析視角では初期室町幕府を実態以上に強力なものとして見誤る恐れがあることを指摘したうえで,軍事指揮権の「制限」という議論に批判を加えつつ,当該期の軍事制度は足利一門・譜代被官部将を積極的に起用し集権的な軍事制度の構築を目指しながらも,実際には外様守護や有力国人層等,前代以来の在地勢力に依拠せざるをえなかった点に特質があることを論じた。

第2章「南北朝期室町幕府の地方支配と有力国人層」では,「非守護地域権力」への注目が高まる15世紀室町幕府研究との接続も視野に入れつつ,「守護ではないにもかかわらず地頭御家人に対する軍事指揮権を行使した国人」を「有力国人層」と定義し,その動向を検討した。第1・2節では鎌倉期以来の実力をもとに地域社会において大きな存在感を有した有力国人層が,地頭御家人の軍事指揮や所務遵行の使節にあたり,室町幕府の地方支配を支えていたことを明らかした。また,室町期に入ると守護支配の展開にともない有力国人層の活躍の場は狭まっていくものの,在地における勢力を維持し続け,守護に匹敵する領域支配を実現する者もおり,彼らが「非守護地域権力」に展開していくとの見通しを提示した。第3節では室町幕府が彼ら有力国人層を将軍直臣として支配体制に位置づけていたことを指摘した。

第3章「使節遵行にみる室町幕府の地方支配」では,室町幕府の下知執行手続である使節遵行が如何なる勢力に命じられているのかという点に着目して地方支配の展開・変容を論じた。第1・2節では南北朝期の使節遵行について論じ,両使や国大将・在地勢力等の多様な勢力が使節に指名される初期の遵行制度から,原則として守護に遵行が命じられる「守護遵行制」への展開を論じた。一方,第3節では15世紀半ば以降,守護のみならず近隣領主に対して紛争当事者への合力を命じる型の遵行命令が運用されるようになることを指摘し,その運用実態を具体的に検討した。第4節では近隣領主に合力を命じる軍勢催促が見られることに着目し,遵行制度との関連を考察した。「合力」を命じる使節遵行・軍勢催促に象徴される「地域的合力体制」の展開は,室町幕府の地方支配が地域社会の合力関係に再び依拠するようになったことを意味するものと捉えられ,ここに地方支配の変容の画期を見いだせることを論じた。

第Ⅱ部「室町幕府と守護・国人」は,個別事例の検討に重きを置いた論考を配した。対象の違いにより各章の問題設定は一様ではないが,いずれも本研究の主題と関連する話題を扱っている。この意味で第Ⅰ部・第Ⅱ部は全体と個別の関係にあり,両者の総合化により室町幕府地方支配の展開と特質を立体的・具体的に描き出すことに努めた。

第4章「南北朝期播磨における守護・国人と悪党事件」では,播磨守護赤松氏権力の形成過程を室町幕府地方支配の展開と関連づけて論じるとともに,守護権力の形成が地域社会や荘園領主の動向に如何なる影響を及ぼしたのかについて,播磨国矢野荘の悪党事件を事例に考察した。第1節では守護赤松氏の軍事指揮権及び播磨国における使節遵行の運用実態を検討し,観応の擾乱期の画期性を指摘した。第2節では,第1節で論じた守護権限の変化と密接に連動しながら,矢野荘「悪党」の行動様式が変化することについて指摘したうえで,矢野荘におけるいわゆる「悪党の守護被官化」とは,室町幕府の地方支配の変容にともなう守護権限の変化を背景に,在地武士の側が守護権力を呼び込む動きであったと位置づけた。

第5章「南北朝期における河野通盛の動向と伊予守護職」では,第2章において「有力国人層」と位置づけた河野通盛の動向を,同氏が伊予守護職を獲得するまでの経緯と関連づけながら論じた。第1・2節では関係史料の再検討を行い,議論の出発点となる史料を確認した。第3節では河野氏の伝統的な軍事指揮権が次第に狭められていくことを指摘したうえで,観応の擾乱期に在地勢力の掌握が喫緊の課題となると,河野通盛は守護に補任されたことを指摘した。擾乱の収束後,河野氏は守護識を失うものの,南北朝後期には再び守護職を獲得することに成功する。河野氏が自立性を維持したまま幕府体制に復帰したことは,後年伊予が「不相似近国」と評される前提になったとの展望を示した。

第6章「南北朝・室町期における出雲朝山氏の動向とその役割」では,古代以来の在地勢力である出雲朝山氏を取り上げ,その動向と役割を論じた。第1・2節では鎌倉・南北朝期における活動を検討し,朝山氏が古代以来の勢力と都鄙における活動を前提に,室町幕府下では備後守護に任じられ,その解任後も出雲の有力国人層として地方支配を支える存在であったことを指摘した。第3節では足利義満の近習朝山師綱(梵灯庵)の政治的活動について論じ,第4節では師綱の失脚後,朝山氏は古代以来の自立性を喪失することを指摘するとともに,朝山氏の旧領を獲得した佐々木塩冶氏が室町・戦国期にかけて台頭することから,朝山氏の没落を中世出雲の地域秩序の転換点と位置づけた。

第Ⅲ部「室町幕府と遠国」では,いわゆる「室町殿御分国」を主たる検討対象とした第Ⅰ・Ⅱ部に対して,室町幕府と「遠国」の関係について,室町幕府と九州,特に今川了俊の探題解任をめぐる一連の経緯を中心に考察し,「遠国」という政治的区分の形成過程について論じた。

第7章「今川了俊の探題解任と九州情勢」では,室町幕府政治史上,著名な事件であるにもかかわらず,従来その実態が明らかでなかった今川了俊の探題解任について,九州情勢との関わりを重視しながら検討した。第1・2節では南九州経営の行き詰まりと大友氏内訌の展開を論じ,了俊が九州大名と敵対する経緯を明らかにした。第3節では,足利義満は当初了俊を支持していたものの,九州大名との対立及び九州経営の崩壊を知り,探題解任を決断したと指摘した。了俊の探題解任により,九州情勢の主導権は探題から九州大名に移り,室町幕府と九州の関係は緩やかな統合関係へと移行した。その意味で了俊の探題解任は,九州が上意の如くならざる「遠国」としての位置づけを獲得するうえで,決定的な契機となる出来事であったと位置づけた。

第7章補論1「今川了俊の京都召還」では,第7章で十分に論じることのできなかった,応永2年における大友氏内訌の激化から京都召還までの政治情勢に改めて焦点を当て,探題解任に至る具体的な経緯を考察した。探題解任の要因が九州情勢の悪化に求められること,なかでも大友氏内訌との関連性が強く認められること,足利義満が解任を主導したとする説が誤りであるという第7章の論旨を確認するとともに,大友氏内訌の様相と九州武士の動向を具体的に検討するなかで,了俊の「京都召還」の実態が九州からの「敗走」であったとする,新たな捉え方を提示した。同補論2「京都召還後の今川了俊」では,これまで今川了俊の京都召還直後の発給と考えられてきた遠江半国守護関係史料の年代推定を検証し,京都召還の段階で探題解任が決定していたとする先行研究の見解を否定した。

終章「結論と展望」では各章の検討結果を整理し,結論に代えた。