本論文は、一九三〇年代の日本の地域主義(国際的なリージョナリズム)論と中国ナショナリズムとの相剋に焦点を当て、第一次世界大戦前後から昭和戦前期にかけて、日本の知識人の近代文明批判と地域主義論的な表現の変遷との関係を考察したものである。

序章では、戦前の地域主義論とナショナリズムとの関係及び東亜協同体論者の文明史的理解に着眼して、アジア社会論と近代批判の思想について、従来の研究視角と知見を整理した。そのうえで、第一次世界大戦以降の日本知識人の文明(批評・史的認識)論とナショナリズムへの態度を整合的に検討することが、一九二〇年代と一九三〇年代の地域主義論の思想的様相を考察する際の一つ有効な補助線になることを指摘した。

第一部は、第一次世界大戦前後から日中戦争以前の評論界における、近代文明批判と地域主義的なレトリックとが相互に絡み合った過程について検討した。

第一章「一九二〇年代の「社会化」的論壇――田中王堂と杉森孝次郎の文明批評とアジア論を中心に――」では、第一次大戦後に論壇で活躍し始めた文明批評家の田中王堂、杉森孝次郎が、大戦後の英米政治家が唱えた国際的な正義に違和感を示した理由を探った。それと同時に、王堂と杉森らの文明論、およびそこに立脚した中国ナショナリズムへの眼差しとアジアの捉え方をも考察した。第一次世界大戦前後から一九二三年にかけての日本は、多くの知識人が国際連盟の実現を通じた、英米デモクラシーの理想への期待を高めたが、他方で安易なデモクラシーの謳歌を警戒し、米国の軍国化・大資本国家への変貌に注意を呼びかけた学者や政界人も少なくなかった。国際協調主義が支配的であったと思われがちの一九二〇年代の評論界は、対米強硬論に対して謹慎と自重を求める知識人の呼びかけが持続的に存在したにもかかわらず、英米の資本主義的/侵略主義的攻勢に対抗しなければならないと主張し、東アジアにおけるナショナリズムの隆盛の次の段階として地域統合の可能性に注目する傾向が顕著になってきていた。

しかし、大正デモクラシー期の文明批評を最も代表する者とも言える王堂と杉森は、英米の勢力拡張への警戒を共有しながらも、アングロサクソンへの強い対抗意識からくるような、人種戦争を引き起こす恐れのある、政治的意味合いの強い汎亜連盟のような提案ないし言説からは、明確に距離を置いていた。王堂と杉森の文明論における個人主義と自由意志への尊重の姿勢は、彼らの国際関係評論にも強く反映することになったことを解明した。

第二章「一九三〇年代前半の国防思想普及運動――陸軍中堅層の擡頭と「アジア・モンロー主義」論――」では、満州事変前後の政治宣伝における陸軍上層部と陸軍省調査班ら中堅層の動向、及び軍部の政治宣伝において地域主義的な概念が多用された現象について考察した。従来の研究では、軍部の公的見解を代弁する陸軍パンフレットについて分析はなされてきたものの、その作成元である調査班自体については十分に検討されてこなかった。そこで、第一節では、陸軍省調査班に所属する中堅将校のイデオロギー性と、その思想や国防構想を明らかにした上で、彼らに対する軍上層部の支持的姿勢と、国防思想普及運動の変容を考察することで、事変期に半官製団体やメディア側と軍を繋ぐパイプ役として活動した中堅層が、軍部の行動に対する国民の支持調達に成功した諸要因を探った。また、事変期の陸軍省調査班の仕事の内容とそこに所属する将校のリストを附表に整理した。第二節では、事変期の政治宣伝において利用されたステレオタイプの一つである「独善的な米国外交」像が実は一九二〇年代初頭から既に、一部の陸軍中堅層とジャーナリストの間にしみ込むように形成されていたことを解明した。こうした考察を踏まえ、更に日本の大陸政策と米国のカリブ海政策の類似性を認識した中堅幕僚らの「アジア・モンロー主義」的主張が、事変後の帝国の公的な論述に反映された過程を明らかにした。

第三章「一九三〇年代前半の地域主義的レトリックの討論――「アジア・モンロー主義」論を中心に――」では、満州事変期に流行った「アジア・モンロー主義」のような地域主義的レトリックをめぐって、国際法学者と政治学者の批判に現れた地域主義への態度について分析を試みた。国際法学者の横田喜三郎とジャーナリストの清沢洌は共に、先進国の干渉によって政治的・経済的に圧迫された地域の反抗の実例に着目し、そこに現れた独立への自由意志を尊重する姿勢から、事変期の論壇に物議を醸した「アジア・モンロー主義」のような主張を非難している。しかし一方で、満州事変勃発後、東アジア事情に疎い国際連盟が東アジアの国際問題の解決を主導することに違和感を示した知識人も少なくない。政治学者の蠟山政道は、「アジア・モンロー主義」の主張における非理性的な論述とその論理の不明確さを指摘しながら、アジアにおける民族的反抗の問題は文明発展の段階の相違によるところが大きいと考えており、中国社会の近代国家としての政治力に懐疑的であった。日中戦争勃発後、蠟山は、日本の大陸進出がアジア地域の経営と開発といった共同の福祉を促進することに繋がるという理解のもとに、崩壊するであろう西欧文明のアンチテーゼとしての「東亜文化」と、それを創出する政治主体の問題を捉えようとしている。

事変期の「アジア・モンロー主義」というレトリックをめぐる議論は、用語それ自体を論証するものというよりも、世界観と思考様式の対立の深刻さを体現したものであり、論者それぞれの文明史的認識と近代化への態度がその言説に大きく影響している。「アジア・モンロー主義」論を取り扱う際には、論者によって、その表現と認識との間に乖離がある可能性に注意すべきであることを指摘した。

第二部では、戦時下を代表する評論家の保田與重郎の大陸旅行及び保田の東アジアの捉え方と文明論に着目して、革新官僚・東亜協同体論者と保田の中国ナショナリズムへの眼差しについてそれぞれ比較検討することで、各自の特徴を析出した。

第四章「保田與重郎の大陸体験――一九三八年五月日本占領下の北京訪問を手掛かりに――」では、戦時下を代表する批評家の保田與重郎が論壇に登場した歴史的背景、及び保田の友人竹内好が案内した、一九三八年五月の北京訪問を中心に検討した。一九三〇年代半ば、保田がリードした日本浪漫派というグループは、マルクス主義文学退潮後の文学的空白を埋めた。治安維持法と特別高等警察による社会主義的思想の弾圧が激しさを増した昭和初期、保田は、自らの国学の素養とドイツのロマン主義を基に、独自の古典論と近代主義批判を展開していた。ことに、盧溝橋事件以降、混乱した政治状況下で推進された政府の日中親善政策に対して、知名な評論家として発言権を持ち得た保田が、間接、直接に当局の施策を批判したことを考察した。

第五章「保田與重郎の東アジア認識――東亜協同体論と民族問題への眼差しを手掛かりに――」では、日中戦争直後の保田與重郎の対中認識及び地域主義への態度を検討した。その際、同時期の革新官僚と東亜協同体論者に見られた、様々な中国ナショナリズムへの態度を尺度としつつ、戦時下の言説空間における保田の位置を指摘した。中国旅行において、保田は、占領区統治の実際と中国の知識人に触れる機会を得た。「民族的なもの」への回帰を追求する信念から、保田は近代化過程におけるナショナリズムの発展に独特な見解を有していた。北京で見聞した知的混乱から、東亜協同体論者の追求した日本帝国主義の自己修正に同感しないばかりか、日本軍占領区で行われた日中提携や日中親善を目指す文化工作に違和感を示していたことを指摘した。

東亜協同体論者達の多くにとって、西洋列強に対してアジア地域統合を立ち上げることが、ナショナリズム隆盛の次にくるべき必然的な段階であり、アジア諸地域の唯一の生存方法だと考えられていた。しかしながら保田は、戦時下の政治的地域統合に対して、各地域に受け継がられる歴史および歴史的、文化的な共感の重要性を主張し、地域主義論の弱みを突き止めようとしていた。反西洋ないし反近代の文脈から見れば、一九三〇年代の日本は「西欧の没落」とか「近代の超克」というような言葉が甚だ素朴に受けとられはじめた時代であった。しかし、保田は、近代文明批判の態度を取りながらも、民族自決やナショナリズムに抑圧するような地域主義論に対して批判的であった。第二部では、保田が日中戦争後に流行した地域主義の流れに異議を唱え、歯止めをかけようとした存在であったことを明らかにした。

終章では、上記の考察を整理した上で、昭和初期における近代文明批判の思想と地域主義論的な表現の関係について保田を中心に論じた。文明批判の思想的系譜に属する保田は、国家の日中文化親善政策の欺瞞を批判しながらも、戦時下の大陸侵攻を日本民族の「偉大な遠征」と表現し、戦争肯定の言説になるに至った。戦前期、ことに日中戦争勃発から日米戦争以前の知識人の地域主義をめぐる思想的様相を考える際には、彼らの近代化とアジアの民族問題への眼差しを総合的に検討する必要があるとともに、彼らの言説に現れる表現と、その表現の水面下に流れる認識との落差にこそ注意すべきだと指摘した。