本論文の目的は、原敬政友会内閣期における田中義一陸相の陸軍指導に焦点を当てて、第一次世界大戦(以下、大戦と略す)が近代日本、特に陸軍に与えた衝撃の意味と、それを契機とする陸軍の自己改革過程を、国民・皇室・帝国との関係の再定義という視点から、総合的に考察することである。

そのため、本論文では以下の視角から分析を行った。第一に、陸軍にとって「大戦の衝撃」は、純軍事的な次元を超え、自らのあり方を規定してきた国家の諸領域、すなわち国民・皇室・帝国との関係を動揺させ、その立て直しを迫るものであった。第二に、大戦の勝利がどの陣営に帰するかは最後まで予断を許さなかったので、その情報収集及び勝敗分析によって成立した「大戦の教訓」には、互いに矛盾する内容が混在しており、その意味で大戦後の陸軍の進路は決して自明のものではなかった。第三に、田中義一は日露戦後から一貫して陸軍と国民・皇室・帝国の一体化を目指してきたが、「大戦の衝撃」でこれまで築いてきた各領域との関係が動揺すると、その再定義を最優先課題とし、原との協力の下で陸軍改革に取り掛かった。こうしたトータルな視点に立ち、トータルウォーとしての「大戦の衝撃」と、それを契機とする陸軍の自己改革過程を、田中の思想と行動を通して考察したのである。

本論文は六章構成となっている。第一章では陸軍の武官派遣による大戦情報収集活動を、第二章では勝敗分析を通して陸軍内で成立した「大戦の教訓」の多面性を、第三章では日露戦後から軍民一致論を訴え掛けてきた田中にとっての「大戦の衝撃」の意味を考察した。そして、第四章から第六章にかけて、田中率いる陸軍が、大戦後に動揺しつつあった国民・皇室・帝国との関係を再定義していく過程を検討した。最後に、大戦勃発から終戦後にかけ、大戦研究のために欧米へ派遣された陸軍武官の詳細なリストを附表として載せた。その結果、本論文では以下のような結論を得た。

大戦勃発直後の時点で陸軍は、戦争の早期終結を予想したこともあって、ヨーロッパへの武官派遣には消極的であった。しかし、大戦二年目から派遣武官の人数が増え、その活動に関する制度も整備されるなど、武官派遣による情報収集活動は本格化した。なかでもフランス・イギリスに最多の武官が派遣されたことから、陸軍の主な大戦情報源はこの両国であったと判断できる。その一方、陸軍は大戦中にはスイス・スウェーデンなど、ドイツに隣接する中立国への武官派遣を強行し、講和成立後は大規模な調査団をドイツに派遣するなど、ドイツ情報の獲得にも熱心であった。しかし、日本からの頻繁な武官派遣や中立国における強引な武官駐在に対して、連合国の反応は必ずしも好意的ではなかった。

ところで、陸軍がドイツ情報の獲得を重視した背景には、派遣武官の収集した大戦情報に基づいて行われた勝敗分析があった。大戦勃発直後の陸軍は、連合国よりドイツの軍事的能力を高く評価するとともに、大戦の勝敗はドイツとロシアとの間で決まると予想した。次に、大戦中期から休戦直前までは一貫してドイツの軍事的能力を高く評価したのに対し、連合国の軍事力による勝利の可能性を極めて低く見積もった。そして、ドイツの善戦から精鋭軍・国民教育・軍国主義などの教訓を得ていた。それだけに、ドイツの革命と敗北は大きな衝撃であり、陸軍は大戦後の勝敗分析を通して、国民皆兵主義・経済的自給自足・自覚に基づく服従などの新しい教訓を得たが、ドイツの善戦から得られた教訓の一部は、同国の敗北後もなお有効性を失っていなかった。その点で「大戦の教訓」の意味は多面的であり、大戦後の陸軍は岐路に立たされていたといえる。

こうした状況の下で、大戦後の陸軍改革の方向を決めたのが田中義一であった。田中は日露戦争の経験から、将来の大戦争に備えるため、在郷軍人を媒介として軍民関係の緊密化を図り、自ら活発な講演・執筆活動を行った。また、大戦中には軍民一致論を訴え掛ける対象を青年・未教育補充兵・女性へと拡大していくことで、陸軍と国民との接触面を極限まで広げた。一方、田中は陸軍の存立基盤を皇室と国民の両方に求めるとともに、皇室に働き掛けて軍民一致論に対する理解と支援を獲得しようとした。さらに、植民地朝鮮における青年団の設立を構想し、機関紙『戦友』を通して朝鮮の実情を内地に紹介するなど、本国と植民地との「結合」強化にも積極的であった。

そして、大戦の勃発と総力戦化は、田中に軍民一致の必要性をいっそう痛感させ、国民への訴え掛けを活発化させる動機となった。また、日露戦後からドイツを軍民関係の模範としてきた田中にとって、大戦中におけるドイツの善戦は、自らの論理の正当性を裏付けるものであった。しかし、シベリア出兵宣言と同時に国内で起こった米騒動は、在郷軍人や青年団員が騒動に参加した点、鎮圧のために出動した軍隊と民衆が衝突した点、軍民一致が最も要求される出兵の最中に銃後で騒動が発生した点、これまで軍民関係において否定の対象としてきた、ロシア革命を連想させる事態になった点で、大きな衝撃を与えた。さらに、ドイツの革命と敗北、各国の帝政の崩壊と帝国の解体など、大戦終結前後における国内外情勢の急変は、田中がこれまで築いてきた、陸軍と国民・皇室・帝国との関係に破綻を来しかねないものであった。そこで、田中率いる陸軍は、大戦後、この三つの領域との関係の再定義を課題として、自己改革を試みるのである。

それでは、具体的にどのような処置が取られたのか。第一に、米騒動を契機に軍隊と国民との間に生じた亀裂は、大戦後、現役・在郷軍人の生活難による思想的動揺の危機と、徴兵制度撤廃問題に象徴される国内外の反軍・平和思潮の高揚によって、さらに深まった。そこで、田中は軍人の生活安定と国民の兵役負担軽減を通して軍民関係の修復を目指した。まず、軍人の俸給・恩給を大幅に引き上げるとともに、在郷軍人救済のための軍事援護団体の設立に自ら関与した。また、軍隊内務書・軍隊教育令を改正して兵営内における軍人の待遇改善に努めたのみならず、従来歩兵などに限られていた二年在営制を全ての特科兵に拡大実施した。その過程で、「上原派」や山県有朋などからの反対を排するのみならず、所要予算の獲得のために大蔵省との対決姿勢を厭わず、原にも積極的に働き掛けるなど、田中の主体性が目立つ。

第二に、大戦後の陸軍は世界的な君主制の危機、大正天皇の軍務遂行困難による「大元帥の不在」、大戦中に膨張した皇室収入に対する国民の反感、騒擾時における皇族軍人率いる軍隊と民衆との衝突の可能性などの問題に直面していた。ところで、田中は日露戦後の時点で、天皇の戦時統帥権行使が天皇制維持にもたらしうる危険性を認識していた。そこで、大戦後は「大元帥の天皇とそれを支える皇族軍人」像をやや弱める代わりに、皇室を軍人の生活保護に積極的に関与させることで、「軍人の保護者」という新しい皇室像を創出しようとした。まず、軍隊内における皇族軍人の住居や、陸軍特別大演習終了後の宴会を質素にするなど、天皇・皇族自ら倹約を実践する姿を演出した。次に、皇室収入の一部を軍事援護事業に充てるよう、皇室からの内帑金の下賜を仰いだ。最後に、皇族軍人を部隊指揮から退かせるとともに、彼らに軍人に相応しい能力を備えることを求めることで、皇族男子の軍人化慣例の実質化を図った。

第三に、大戦中における植民地人の戦争動員、大戦後の帝国の解体と諸民族の独立、植民地朝鮮における三・一独立運動の勃発などによって、日本の帝国支配秩序は揺らいでいた。その中で、陸軍が改めて注目したのが「朝鮮人軍人」の存在であった。彼らは韓国併合の過程で生み出された副産物的な存在であり、併合後は日本の陸軍軍人に準じて取り扱われるとされたが、実際は内地人軍人と同一の待遇は受けられず、帝国内におけるその地位も極めて不安定であった。そこで、大戦終結直前に陸軍中央及び出先軍の新首脳として登場した田中と宇都宮太郎は、帝国内の「統合」強化のため、「朝鮮人軍人」を積極的に利用した。まず、進級・叙位叙勲・給与・恩給などの面において、「朝鮮人軍人」に対する従来の差別待遇を撤廃した。次に、彼らに日本の陸軍軍人または準軍人としての法的地位を付与した。最後に以上の措置を、三・一運動後の朝鮮人に対する平等な待遇と「同化」を象徴するものとして宣伝した。

以上のように、大戦は国家の全領域を動員して戦われた総力戦であっただけに、戦争の影響も全ての領域に及んでいた。その意味で大戦後の陸軍が直面した課題も、純軍事的な次元を超え、大戦の影響を受けて動揺しつつあった国家の諸領域との相互関係をいかに再定義するのかという、まさに国家の中での自らのあり方に関わる問題であった。ところで、田中は日露戦後から一貫して軍民一致論を訴えており、その中で陸軍と国民・皇室・帝国は一体をなしていた。それだけに、田中は「大戦の衝撃」の意味を正しく理解することができ、彼の指導の下で、大戦後の陸軍は自ら進んでこの三つの領域との関係の再定義に取り掛かったのである。なお、その過程でドイツ・モデルに対する一定の見直しが行われたことも、本論文では明らかにした。

最後に、従来、「大正デモクラシー」に代表される当時の社会変動への適応、総力戦体制構築、軍備近代化などの面で論じられてきた、大戦後の陸軍の「失敗」について、陸軍は国民・皇室・帝国との新しい関係を模索したものの、そこには限界があり、永続性を持つ関係の構築には至らなかったという展望を提示した。