本研究の目的は、ロシア沿海州や韓半島の中東部・南部地域を中心とする沿東海地域における新石器時代の考古学文化の動態を明らかにすることである。先学の研究により、韓半島東海岸を通じての新石器時代の交流関係や文化の動きがおおむね明らかになっている。最近、沿東海地域のいくつかの地域では新たな遺跡が多数発掘調査され、これら先学の研究成果をより具体化することができる基礎が築かれた。本研究は、先学の先駆的な研究と考古学的な調査成果に支えられたものということができる。一方、韓半島新石器時代が展開・変容していく過程を体系化する方法として、「考古学文化」という概念を適用したのがこの研究の特徴といえる。

序論の第1章~第3章では、本論文で対象時期や地域を体系的に説明するための研究方法として使用する考古学文化の概念について論じた。考古学文化の概念の導入は韓半島新石器時代を東北アジアという大きい枠で理解するための方法であり、そのため韓半島周辺の国で使っているさまざまな考古学文化の中で中国やロシア、そして日本の小林達雄が設定した様式概念と並立できる考古学文化を韓半島新石器時代に適用・使用しようとすることを述べた。特に中国やロシアのように考古学文化を使用しながらも時間的な区分に問題のあった北韓でも、主体思想によって変質される前までは中国やロシアと同一な考古学文化概念を使用していたことを明らかにしたことが成果といえる。考古学文化が持っている限界を克服するための方法として、日本考古学の系統という概念を紹介し、研究対象地域に対する筆者なりの編年や時期区分案を提示した。

本論の第Ⅰ部では、沿東海地域における狩猟採集社会の交流ネットワークを論じた。

まず第4章で、狩猟採集社会における極東平底土器分布圏の諸文化の様相について考察した。土器の系統的分析や広域にわたる土器の動きを通じてルドナヤ文化やベトカ文化、ボイスマン文化の変遷とその裏面に内包している人間の活動様相や社会の特徴を読み取ることを試みた。特に、本章ではロシア沿海州地域と韓半島中東部地域間の明確な並行関係を確定したことが重要な成果であり、これを通じて鰲山里文化にロシア沿海州地域の影響がどのように現れたのかを具体的に示すことができた。鰲山里類型の時期になると押捺文土器が主体となり、隆起文土器が客体的に存在する点、横方向区画線内に文様を施文し、さらにこれを反復する押捺文土器の文様構成、壺の安定的出土、そして細長方形磨製石鏃の出現など、ロシア沿海州地域との類似した変化が読み取れる。以後、文岩里類型になると押捺文土器施文具での多歯具の盛行、隆起文土器の製作技法、同一個体における押捺文と隆起文の共存、エンドスクレーパの存在という共通点以外にもボイスマンⅠ・2期の土器そのものが出土するなど、ロシア沿海州地域との交流がさらに密になっていたことを明らかにした。さらに、このような作業を通じて、狩猟採集社会の時期における沿東海地域の動態や交流の実態をより具体的に示すことが可能となったといえる。

第5章では、狩猟採集社会の時期に韓半島南部地域に分布していた韓半島平底土器文化群の様相について考察した。 韓半島平底土器文化群は 鰲山里下層類型・竹邊-安島文化の時期には韓半島中東部~南部地域に同じような土器群が分布していたが、煙台島文化となると沿海州地域の影響で押捺文土器が主体となる中東部地域とは異なり、隆起文土器が主体となる方向に変化していく。しかし土器以外の道具組成においては依然として中東部地域との交流関係を維持しながら、一方では日本列島との交流関係を示す土器や道具が存在している点についても言及した。

第Ⅰ部の結論に該当する第6章では、狩猟採集社会の時期における沿東海地域の広域編年を組立てて3段階に区分し、各段階別交流の様相や特徴を明らかにした。狩猟採集社会の第1段階には、韓半島中東部~南部地域に平底の刺突押捺文土器や朱塗土器を特徴とする類似性が高い土器群が広がっていた。狩猟採集社会の第2段階に鰲山里層類型が出現して竪穴住居の築造が明確になり、主体をなす押捺文土器はロシア沿海州地域と類似した方向に変遷する一方、韓半島東南部-南部地域では隆起文土器が主体をなす煙台島文化が現れて、両地域の土器群は互いに異なる発展の道を辿ることになる。狩猟採集社会3段階になって韓半島中東部地域で現れる文岩里類型の土器を見ると、ロシア沿海州地域からの搬入土器により確実な並行関係を探ることができる一方、韓半島平底土器文化群に類似した文様モチーフを持つ隆起文土器が主体となるなど、この時期に沿東海地域の交流が最も盛んとなっていた。特に、第3段階ではべトカ文化とボイスマン文化、煙台島文化で共に集団墓が確認されている点で、沿東海地域の交流ネットワークを通じて広域にわたって死後の世界観が共有されていたことを明らかにした。

狩猟採集社会の時期には、大きく見て沿東海地域は極東平底土器に系譜が求められる土器群によって占有されていた。それがこの時期の沿東海地域の交流ネットワークを特徴付けたと筆者は考えている。

第Ⅱ部は沿東海地域での緊密な交流体制が断絶した時期、すなわちこの地域に初期農耕が伝わり、ネットワークの変容が起こった時期を対象とする。

第7章では韓半島平底土器文化群が分布した地域に拡散した中西部系統の韓半島尖底土器に属する瀛仙洞文化、岩寺洞文化、水佳里文化の土器編年と文化内容について検討している。岩寺洞文化は、今まで低く評価されていたと考えるこの文化の重要性について喚起する目的で設定したものである。韓半島新石器時代の前期や中期の時期区分を、水佳里文化ではなくこの岩寺洞文化を用いて行わなければならないという意見を提示した。水佳里文化では、特に、煙台島文化の時期に農耕が始まったと主張する意見の根拠になった貼付文土器に対する型式学的・層位的分析を通じて、その貼付文土器が水佳里文化に属することを明らかにした。

第8章では、まず極東平底土器分布圏での初期農耕の出現過程に当たるハンシ文化類型の分離設定について取り扱った。ハンシ文化類型の設定は、既存のボイスマン文化5期と既存のザイサノフカ文化の最も早い段階をそれぞれ当該文化から分離し、統合した。そして西浦項遺跡出土土器の再検討を通じて歯車文土器群に注目し、今まで縄線文土器として取り扱われて来た歯車文土器群の実態を明らかにし、ハンシ文化類型の細分をおこなった。最後に縄線文土器の系統についての既存の意見を検討し、土器の変化のみならず生業において雑穀農耕の出現を特徴とする時期に規定することができる点に注目して、雑穀農耕の出現が自生的なものではなく、中国華北地域からの拡散によるのであれば、縄線文土器の系統も宮本一夫の見解のように西側の地域に求めなくてはならないのではないかと考えた。

ザイサノフカ文化において代表的な雷文土器を細分する案はさまざまな研究者によって提示されたが、筆者はグヴォズジェヴォ4遺跡出土遺物に対する観察結果や西浦項4期の雷文土器の分析に基づいて西浦項4期をザイサノフカ文化Ⅱ1段階、農圃期をザイサノフカ文化Ⅱ2段階と分けて理解できるとした。

第9章では沿東海地域に初期農耕が広がったことによって、それ以前の時期のネットワークが変容していく様相について検討した。極東平底土器であるボイスマン文化3・4期と韓半島尖底土器の瀛仙洞文化の時期に沿東海地域は狩猟採集社会から初期農耕社会へと転換する激変期を迎え、その後は極東平底土器と韓半島尖底土器との併行関係を考古学的に明らかにできなくなる。初期農耕社会の時期の極東平底土器分布圏と韓半島尖底土器分布圏における交流の様相も狩猟採集社会の時期とは異なった様相で展開し、活発な交流が行われることはなかった。そして韓半島尖底土器分布圏においては水佳里文化3段階に南から北への強力な動きが見取られるし、極東平底土器分布圏では狩猟採集社会の時期とは異なってロシア沿海州地域とアムール河下流域との交流関係はほとんど確認されない。極東平底土器分布圏と韓半島尖底土器分布圏の間に交流ネットワークがあまり形成されなかった理由は、系統が全く異なる土器集団によって農耕化が進行されたためであると考える。

結論では、Ⅰ部とⅡ部で分析した結果に基づき、アムール河流域~沿海州~韓半島南部地域に至る沿東海地域における新石器時代の文化の動態を整理し、沿東海地域の狩猟採集社会が初期農耕社会へと変遷していく過程における交流ネットワークの変容の様相について検討した。

狩猟採集社会時期の沿東海地域では韓半島中東部地域において土器だけから見れば極東平底土器と韓半島平底土器文化群という大区分が可能であったとしても、その境界は断絶的でなく漸進的な文化の代替が認められる。石鏃の様な狩猟具、釣針・石銛などの漁撈具、石皿・磨石などの食料加工具といった狩猟採集経済体制を反映する道具類の存在の有無や形態の違いという観点からは、極東平底土器と韓半島平底土器文化群のような明らかな境界が認められないというのが重要である。

それに対して、初期農耕社会における沿東海地域のネットワークの様相を韓半島中東部地域とロシア沿海州地域を基準として比較すると、土器だけでなく道具上の形態や種類の差異が共に極東平底土器分布地域と韓半島尖底土器分布地域の間で見られる。このような断絶様相が認められるのは、全く系譜関係の異なる土器群、即ち人間集団の違いに拠るものであろうという意見を慎重に提示した。