本論文では、北京政府時期の雲南省における塩業行政について考察している。清朝の末期から中華民国にかけて、外国勢力が進出するなか、中央政府と地方政府との間で対立の傾向が見られた。北京政府期の塩業行政は、塩税が政府の重要な財源となっており、かつ外国勢力が借款の債権者の立場から介入を行っていた。

塩業行政では清朝に至るまで、製塩業者は専用の戸籍に編入されていた。塩商は明朝末期より、大口の納税と引き換えに、政府が設定した販売区域において、排他的な運輸・販売の権利を得ていた。清朝末期から中華民国にかけて、こうした塩商の特権性と区域制限が、塩業行政における変革の対象として主に論じられてきた。

雲南省政府は、中華民国期を通じ、中央政府から政治的に自律していた典型的な地方政権であり、また塩税への依存も深い。雲南の山がちな地勢は、中央政府の統治が及びにくい背景となった。塩業においては輸送コストが高く、明朝や清朝で重視された有力な塩商は形成されなかった。ゆえに、製塩の現場が雲南の塩業行政においては重要であった。清朝期、大量の移民が雲南に流入し、塩井の開発が進んだ。塩井は産塩地としてだけでなく、政府や漢人による文化的な拠点、塩を媒介にした周辺地域との交易拠点など、多様な側面を持つ地域であった。こうしたことから、北京政府期における雲南の塩業行政は、地方における政府と地域社会との利害関係を、中央政府や外国を交えつつ分析のできる格好の事例といえる。

本論文の構成として、序章では本論文の問題意識を説明したほか、中華民国期以前の塩業行政と雲南についての概略や、主な引用史料の紹介を行った。第1章では北京政府期以前の雲南の塩業行政として、清朝時期を中心に論じている。まず、塩井における塩の生産工程について、先行研究を踏まえて説明を行った。雲南における鉱業との関連など、従来指摘の少なかった点にも言及しつつ、政府による間接的な行政管理を確認している。そして、19世紀後半からの塩業行政について考察した。ここではムスリム蜂起による混乱以降、省政府が光緒新政のもと強まりつつあった中央政府の圧力を利用しつつ、塩井の行政管理の権限を現地の武将や官吏から回収していく過程を指摘している。

第2章では中華民国成立前後における、全国と雲南の塩業行政を論じた。その上で、北京政府期の初期に、雲南塩運使の蕭堃が提言した改革案と、それに対する中央政府や稽核所機構の反応について検証した。北京政府期は塩業において、外国人を管理職に置く稽核所機構が創設され、改革の機運も高まっていた時期である。しかしこの時期の塩業についての研究で、塩の生産について言及した政府の改革方針は、これまで取り上げられることが少なかった。雲南の塩業では産塩場が重要な行政拠点であり、地方政権と域内の社会との関係を考察する上で、生産の改革は重要な分析対象である。蕭堃の産塩場における改革案では、製塩業者の生計を維持するため、産塩場自体の整理には否定的であった。一方で、個々の事業者ごとに分散している従来の製塩を、共同の製塩場を建設することで統合し、政府の管理を強めようとする構想もあった。しかし、稽核所機構や中央政府は、塩税徴収が主たる関心事であり、採算性のない産塩場は閉鎖させる方針であった。また、特に稽核所機構は塩業における自由化への指向が強く、政府による生産への介入に否定的であった。特に後者の点について蕭堃の改革案は、製塩公司の経営を通じた全国の塩業改革派による主張から影響を受けていた。そして、この点をめぐって塩業改革派が稽核所機構から、蕭堃と類似の批判を受けていたことを、本章では指摘している。

中華民国期の雲南における塩業研究では、改革については主に国民政府期が注目されてきた。しかし、北京政府期では、蕭堃以降も塩業改革が続けられている。第3章ではそうした改革の試みとそれに対する反応について考察した。従来、利用の少なかった当時の史料に、塩業行政の政府文書を毎月、あるいは数か月ごとに収録した『雲南塩政公報』がある。稽核所機構の年報などと対照させて分析することにより、改革に積極的な雲南の稽核所機構と、消極的な塩運使などの省政府、反発する製塩業者による三者の特質と相互の関係を見出すことができる。

蕭堃が改革を提起した時期と異なり、雲南の稽核所機構は生産現場における改革にも意欲的であった。そうした改革は、塩井の坑道管理や製塩の権利など、従来慣習に拠っていた製塩業者の権益の制限・解消に関するものが多い。しかしこうした改革には、現地の実情を踏まえない急進的なものや、実施したものの失敗に終わった事例もあり、現地の塩業行政の機関やそれを統括する塩運使、製塩業者らに批判されている。塩運使には、蕭堃と同様に、現地の塩業行政を担う立場から製塩業者の生計や権益を維持しようとする傾向が強かった。背景として、製塩業者や坑道の採掘労働者への報酬は、制度上は政府が支給していたが、低く据え置かれていたので、政府が塩の横流しを黙認する慣習があった。また、既存の有力な製塩業者やその関係者には、官吏や軍人、議員として雲南省の政府権力に進出している者もいた。省政府による改革に対する慎重な姿勢からは、省内の政治的安定を優先する傾向も窺うことができる。

第4章では北京政府期の雲南における運輸・販売政策について論じた。雲南塩業に関する研究には、塩業行政による生産、運輸・販売の範疇に沿って各時代ごとに論じる傾向がある。清朝のムスリム蜂起から続く製塩業者による生産と運輸・販売の兼業を踏まえ、本章では雲南で何度か繰り返された運輸・販売の統制策を考察した。特に、省内では短期で、周縁地域では長期で、公司組織を通じて行われた運輸・販売の統制に注目した。政府が政府と民間の中間的な存在として公司組織を起用する事象は、中華民国期において全国の塩業行政にも見られ、塩業改革の争点の一つでもあったことを、本章では指摘している。運輸・販売の統制策をめぐっても、省政府と稽核所機構との意見対立が窺える。稽核所機構は省議会とともに、製塩業者や塩商らによる運輸・販売の自由化に支持を与え、省政府を掣肘する存在であった。

塩業改革派は塩商の販売区域の独占を打破するため、既成の塩を精製して運輸・販売する公司を経営しようとした。しかし、稽核所機構は公司が製塩業者から直接塩を購入することを容認していない。塩税を徴収するため、政府が生産と運輸・販売の兼業との間に介在して、製塩業者と塩商が直接取引したり兼業したりさせない点で、稽核所機構も中央政府の塩務署や省政府の塩運使と基本的には同じ方針であった。

第5章では国民政府期を扱った。北京政府期に試みられた改革の多くが、国民政府期にも継承・発展されている点を本章では指摘している。改革に対する製塩業者らの反発は、国民政府期でも類似した形で示され、中央政府への陳情など新たな展開を見せた。従来の先行研究において、張冲の改革案は雲南の塩業近代化の動向を示す事例として位置づけられている。本章では、張冲の改革案やそれを継承した省政府の政策から、産塩場における公司にも注目した。各地の製塩場における製塩公司は、生産と運輸・販売の兼業が許されてはいたが政府の統制を受けていた。日中戦争期については、自由取引から統制・配給の政策へ、旧態の製塩の淘汰を目指す改革方針から新旧の製塩事業者の併存へ、中央政府が北京政府期の雲南省政府と類似した方針に転換した点を指摘している。

終章では塩業行政の改革における経済活動の自由化と、政府による統制的な秩序化という矛盾した指向の併存に注目しつつ、地方政府の地域社会や中央政府との関係を考察した。

 こうした考察から得られた結論として、中華民国の塩業行政において、政府と民間の中間者的な存在への依存から、結局のところ国家や地方の政府は脱却できなかったことが示された。こうした中間者的な存在は、旧来のものとしては同業者団体があるが、中華民国期以降は公司組織の形態でも機能していた。政府は必ずしも同業者団体や公司組織を、統制組織として再編できていたわけではない。しかし、国家統合の機運が継続する情勢の中、国家と社会の間にある中間者は、清朝以降も政府や地方社会の利害を代表・調整し続けてきたといえる。

そして、中華民国期の雲南における塩業行政からは、地方における政府や社会が、中央政府を交え、三者の間で相互に利用・対立する複雑な関係が浮かび上がる。省政府は中央政府に対立する反面、その域内では中央政府の方針を名目に、域内の産業や地域への管理を強化しようとした。自らの既得権益を脅かす改革や統制政策について、製塩業者は稽核所機構の無理解を省政府に訴えたり、あるいは省政府による製塩場建設に反対する意見を中央政府に陳情したりした。塩商は、省政府の統制政策の批判において、自由取引を標榜する稽核所機構と意見が一致していた。しかし、運輸・販売を兼業する製塩業者との競合について、省政府は塩商の生業を庇護する役割を担っている。中央政府では稽核所機構が、塩業の従事者の生計よりも塩税徴収を優先していたが、零細な製塩業者や塩商に権益や競合の機会を与えることができるような提言や批判を、省政府に行ってもいた。

こうした関係のなかで、省政府は省内の政治的な安定を重視して、地域の社会における利害を調停する役割を、現状維持の傾向を帯びつつも、果たしていたのである。