本論文「青森県津軽方言の情報の表示をめぐって」は、青森県津軽方言話者の対面調査、調査票の集計、昔話の書き起こし資料、『高木恭造詩文集』などの方言文学、方言コーパスの活用などによって津軽方言の文法記述を行い、さらに情報構造と示差的目的語標示(Differential Object Marking)という観点から、対格標識や文末詞に見られる情報表示の一般化を試みたものである。第一部で全体的な文法記述を行い、第二部では津軽方言における対格標識が形態的バリエーションに富むことを紹介した上でそれらの使用の動機を追究し、第三部で文末詞を文タイプごとに整理してタイプを超えた意味フレームの抽出を試みており、第二部と第三部において津軽方言がさまざまな助詞をどのように情報表示に用いるかを論じている。東北方言の一つであり青森県西部で話されている津軽方言は、京阪で失われた古い日本語の特徴(ハ行唇音ァ・フィ・フェ・フォなど)を残している一方で、方言内部で独自に変化した特徴もあり、結果として全国で最も理解しにくい方言の一つとされる。古態を残す保守性と、特に音韻や形態における独自性とを併せもつ同方言は多くの研究者の関心を惹き、地元の研究家や国語学者による文法書や辞書が編まれてきた。こうした先行研究は津軽方言に習熟していない読者が抱く疑問に応えきれない場合があり、それによって自ら津軽方言を習得し生成できるような記述が求められている。また従来は調査者の関心のある言語現象に的を絞った調査票に基づく調査が主流であったため、津軽方言の談話資料が著しく少なく、調査者と話者が調査中に意識していない言語現象が見逃されがちであったことから、著者は話者の自然談話観察により集積したデータを活用することで、より実際的な文法の記述を企図した。当然ながら、アクセントや語彙の網羅的調査は調査票による面接調査によってしかなしえないので、本論文は、面接調査を自然談話によって補うことで、語順や文イントネーション、語用論など話者自身が意識しない言語現象を抽出し記述することを目指したものである。

津軽方言の文法概説である第一部では、同方言の音韻、音声と形態論を中心とする文法記述を行った。津軽方言の自然談話に基づく包括的な記述文法や談話の文字起こしテキストはいまだ少ないため、本部の記述に用いたデータは自身が青森県南津軽郡田舎館村を中心として、東津軽郡今別町と青森市で行った調査の際の談話録音とその書き起こしに拠っている。音韻に関しては、音素と音節の同定や、カテゴリーとしてモーラを立てる必要が少ないという韻律的特質の記述に加え、これまで未解明であったイントネーションの調査結果を盛り込んでいる。平叙文も疑問文も下降調を取る方言が東北に存在することは既に先行研究で指摘されてきたが、平叙文と疑問文の下降調がピッチの下降幅の違いによって区別されている可能性が高いこと、そして疑問において顕著なピッチ下降が見られることを、本論文では方言研究史において初めて指摘した。音韻交替に関しては中古国語と比較して通時的発展過程も考察している。形態論では名詞、代名詞、数詞、複数接辞、格標示、準体助詞などを扱った名詞形態論と、動詞派生、時制、アスペクト、モダリティ、否定、授受動詞、存在動詞などに関する動詞形態論を提示したのち、形容詞、連体詞、間投詞、疑問詞、助詞の用法や、従属節などの統語論を包括的に記述した。中でも指小辞「コ」が偽物を指す用法をもつことは、本論文が初めて指摘した。敬語をはじめとする待遇表現については、現在も使用できる話者が70歳代後半以上の高年層に限られており、本論文は残り少ない機会をとらえてその記述を行った。授受動詞である標準語「やる」「くれる」と津軽方言「ケル」の対応に関連して、津軽方言における授受動詞の通時的発展過程も考察している。

第二部では対格標示の諸形式とその使い分けを扱った。津軽方言では他の東北方言と同様に、対格と主格は無助詞が無標の形式であり、テキストの性質にもよるが、対格名詞句のうち7 割から9割が無助詞で現れる。また津軽方言では無助詞に加え対格を明示的に表す6種の助詞(バ、オ、トバ、ト、ゴト、ゴトバ)という、計7種の対格形式が見られる。通言語的に、対格標識が複数ある場合、前接する名詞句の性質によって対格標識が使い分けられる現象が見られ、示差的目的語標示(Differential Object Marking: DOM)と呼ばれる。その性質は、Silversteinの名詞句階層と呼ばれる有生性に基づく階層、定か不定かという定性、情報構造、統語構造、および動詞がどのように主語や目的語を標示するかというアラインメントを含む。本論文では、津軽方言における対格諸形式を比較し、示差的目的語標示の有無を考察した。現在の津軽方言を対象とした予備的調査の結果では目立った差異が見られなかったため、昔話の録音に基づいた書き起こし資料である『むがしっこ』10巻(1985~2005年刊)から自身で作成した昔話コーパス中での用例を数える方法をとった。対格名詞句の過半が無助詞で現れ、主格も無助詞が無標であることから、主格名詞と対格名詞の有生性が同程度の場合などには、対格を助詞で標示する必要がある。そして対格標識のうち、有形の形式として第一に選択されるのがとりたての機能をもつ「バ」である。本論文はこの「バ」の機能に着目し、その他の有形の対格である「トバ、ト、ゴト、ゴトバ」が各々「ト」と「ゴト」ととりたての助詞「バ」に還元されると分析した。さらに「ゴト」と「ト」に関しては、形態的類似性と前接名詞句の共通性から、後者が前者の短縮によって生じた形式であると主張した。その結果、7つある対格標識は、「φ、バ、ゴト」の3つに還元されると提案した。3つの対格標識が併存することは日本語方言でも珍しいが、その背景として、周圏的に畿内から発信された各時代の対格形式が周縁部で更新されず集積した、古態保存による可能性を指摘した。また、対格表示形式の選択過程を再現できるよう、どのように選択されるかをフローチャートで図示した。

第三部では、本論文で文末詞と呼ぶ、文の終わりにおいて感動や強意などの様々な意味を添える終助詞、イ、オン、ガ、キャ、サ、ジャ、ズ、ド、ナ、ネ、ノ、バ、モノ、ヤ、ヨの機能を取り上げた。方言は日本語標準語に比べて、文末詞(終助詞)の形式も意味も非常に多様性に富むということが一般に知られている。標準語の文末詞の研究は「ね」「よ」を中心に盛んにおこなわれてきた歴史があり、そのための分析の枠組みも整っている。他方で、方言はその文末詞の多様性のわりに記述研究が進んでおらず、分析に有効な概念や手法も確立していない。方言学におけるアスペクト・テンスの研究が、日本語ひいては言語一般の研究に寄与する部分が大きいように、豊富な方言の文末詞を記述・分析することで、その研究成果だけではなく、分析手法などが方言学、日本語学、言語学にも有効なものとなる可能性が開かれている。しかしながら、文末詞の研究はいまだ有効な分析的概念が確立されているわけではなく、発展途上の初期段階にあるため、本論ではまずは用例に基づいて意味の記述を充実させ、全体的な意味記述を行うことによって文末詞の意味記述に有用な概念を抽出することを試みた。こうした基本姿勢に則って、第三部ではまず津軽方言の文末詞を統語的特徴によって整理したまとめを提示し、用法に基づいてその意味を記述した。方言の文末詞の意味を抽出するに際しては、共通語の文末詞「ね」「よ」に関する先行研究において用いられた有効な分析手法を当方言にも応用した。共通語の文末詞研究では長らく、当該の情報が聞き手の支配の及ぶ範囲内にあるか、話し手の範囲内にあるか、という実際の情報のありかを反映したものが文末詞「ね」「よ」の使い分けであるとされてきたが、本論文では情報のありかにかんする話し手の見込みこそが文末詞の使用の決定的な要因であるという方針に従い、話し手の認識、見込みを中心として津軽方言の文末詞の意味を分析し抽出した。その上で、複雑に見える文末詞の組み合わせも、構成性の原理が働いており分析可能であることを指摘し、その例として文末表現「ビョン」において、描写される事態が成立する(あるいは成立した)という話し手の見込みを表す「ベ」と、聞き手との心情・意図や知識量の差を埋めようとしつつも、聞き手に気まずさを与えまいとする話し手の配慮を表す「オン」が合成され、話し手が想像の中で真であると認識していることを一方的に聞き手に伝えるという機能をもつと説明した。構成性の原理の論理的帰結として、相容れない機能をもつ文末詞が共起しないことが予測されるが、そのことも「話し手が想像の中で命題内容を真と認識する」ことを表す「ベ」と、「話し手が命題内容が真であることを認識している」ことを表す「バ」が共起しないこと、あるいは「ベ」と「命題内容が真であることを話し手が認識している」形式である「ズ」が共起しないことなどによって例証されている。知識確認の要求を表す「キャ」が古語の「けり」に由来するなど、一部の文末詞については中古国語に遡る形式であることも論じられている。これら文末詞の機能の観察は、話し手と聞き手の知識状態の差を調整するという視点に基づいており、助詞がどのように情報を表示するかという本論文に通底する問題意識に貫かれている。

また、これら文末詞の出現例を談話資料によって調査した結果、一定の承接順があることが明らかになった。著者はこの承接順を下図のような最大4つのスロットとその順番を設定することによって説明し、このスロットのそれぞれが中右実の「階層意味論モデル」におけるモダリティ階層に対応する可能性を指摘した。

 

命題

認識的モダリティ

1

ガサ、キャ、ジャ、ズ、ド、バ

2

オン、ヨ

3

ネ、ガ

4

サ、ナ、ノ、ヤ

 

つぎに著者は、疑問文で用いられる一部の文末詞につき、同じ文末詞が疑問文だけでなく平叙文でも用いられる場合も考慮し、文タイプを越えて共通する意味の抽出を試みた。その結果、疑問文で主に用いられる三つの文末詞のうち、「バ」「ガ」「ナ」につき、「バ」は命題内容が真であることを話し手が認識していることを、「ガ」は命題内容の真偽には言及せず真偽判断を保留していること、「ナ」は命題内容の真偽に言及せず情報を是として受け入れる方に話し手の判断が傾いていることをそれぞれ表していると分析した。さらに、疑問文においてピッチの上昇の開始のタイミングに焦点やとりたての関与がある可能性を指摘した。

最後に著者は上記「バ」「ガ」「ナ」も上の表のスロット構造に照らして再考し、上の表の「認識的モダリティ」のスロットに「バ」が位置すると想定することで、文末詞の情報表示をより正確にモデル化することができると考察している。