本稿は古代日本の財政業務の具体像、およびそれらを形作っていた租税の性格がいかなるものだったかを考察したものである。

 序章では、日本古代財政史研究における従来の研究視角を整理し、日本の古代租税の歴史的性格を踏まえて財政業務の構造的特質を把握すべきこと、摂関期以降の国家財政業務を詳細に分析した上で律令制がどのように展開していったかを考えるべきであることを指摘した。

 第一部「律令財務行政の構造と特質」では、唐と日本の財政制度の比較を通じて、日本の財務行政の特徴を抽出する作業を進めた。

 第一章「律令官衙財政の基本構造」は、律令官司制がいかにして租税を経費として運用していたかについて、予算会計論・財政官司論の視角を継承しつつ、日本古代の財政担当官司である民部省・主計寮の職掌を、唐の財政官司と比較しつつ検討した。律令国家の各官衙の必要経費は、事業ごとに必要経費をそのつど申請・受給するものであり、主計寮が審査にかかわった。唐の皇帝は予算担当官司である度支が作成する年度予算の報告を受けていたのに対し、日本の天皇は国家財政の運用に関与しない。また官司ごとの請求も次第に固定化し、財政担当官司である主計寮の予算機能は意味をなさなくなる。官衙必要経費の調達方法としては、律令制当初は畿内から祭祀必要物を調達するという律令制以前の慣行を継承した制度のみが機能していたが、律令官僚制の進展により必要経費が増大すると、畿外の地方財源を官衙必要経費に充てる交易雑物制の拡大がその需要を満たした。さらに決算制度については、唐において比部という官司が、各官司が自立的に運用する独立財源を含む全官司の財政運用を監査していた。日本は比部の職掌を民部省・主計寮の職掌に継承したものの、各官衙の備品状況を確認するだけで年間予算との関係は薄く、律令制当初は官衙独立財源も存在しなかったため、決算制度の意義は小さかった。このようなシステムで運営される日本の律令官衙財政は唐のそれとは異質なもので、地方からの貢納物の支配層による再分配という、律令制以前のあり方に規定される部分が大きいと結論づけた。

 第二章「律令租税免除制度の硏究」は、従来の租税論に欠けていた租税の免除という視点を導入し、律令国家における租税免除の意義について論じた。唐律令制における租税免除制度は、身分的特権、特定役務に従事する一般人民、儒教理念に基づく免除、再生産維持を目的とする免除に分類できる。日本は唐律令を継受するにあたり、これらを全面的に輸入することで、支配者集団の特権を確立し、また律令法に基づく支配者としての天皇の正当性を支える論理の構築を目指した。これは九世紀には国司の部内支配に依拠した地方支配体制が進む過程で、国司を対象とする免除へと実態を変えつつ生き続け、十世紀には受領統制制度の一環として再解釈されたことを指摘した。

 第三章「唐賦役令の受容」は、官衙財政や租税免除が成立する前提となる、律令租税制度の成立過程について、唐で租税制度を規定した律令の篇目である賦役令を、日本がどのような形で継承したかを検討した。日本の賦役令は唐賦役令のそれを、本質的相違を前提としつつも枠組み自体は忠実に継承した。日本古代における調・庸などの租税や雑徭・雇役といった力役は、律令制以前の在地豪族が担っていた貢納制や力役供出を制度化したものであったが、唐賦役令の体系的継受はそうした従来の慣行の制度化において不可欠なものであったと言える。

 第二部「平安時代における財務行政の展開」では、第一部での検討を受けて、十世紀以降における国家的統合機能を認める立場から、律令財務行政がこの時期にどのように展開していったのかを明らかにした。

 第一章「摂関期の財政制度と文書」では、摂関期における財政手続きの中で用いられる文書の役割の分析を通じて、当該期の国家財政の全体像を構造的・総合的に把握するための基礎的考察を試みた。宮廷儀式等に必要な物品の調達過程で作成される請奏という文書は、天皇の御用の物品を管理する官司に出給を申請する文書が、十世紀後半に機能を拡充させて成立したものであり、請奏は儀式ごとの予算書のごとき性格も有し、受領国司からの租税徴収の前提となる手続きであった。一方官人の給与や食料は、律令制本来のあり方では地方から納入される租税によって支払われていたが、租税納入が停滞するようになると、位禄官符・大粮官符という文書が作成されて受給者本人に手渡され、本人が地方官から直接支払いを受ける体制に変化した。このような種々の財政文書の作成によって、摂関期の財政制度は安定的に機能していたのであり、摂関期の財政制度は諸司・諸家に財政的権利が分与される方向がある一方で、それらを統合する国家機構の役割も大きく、この点に摂関期の国家としての特徴を見出だすことができると指摘した。

 第二章「熟国・亡国概念と摂関期の地方支配」は、十世紀後半以降に見られる、税収が豊かな国のことを指す「熟国」と、税収が不安定で統治が困難な国を意味する「亡国」という語に注目し、熟国・亡国概念の制度的構造について検討を加え、摂関期の地方支配のあり方の一端を明らかにすることを目指した。当該期には国ごとに一定の税物を割り当てて随時徴収する新たな財政制度が成立するが、律令制の原則である課丁把握はしだいに形骸化し税額とは直接関係なくなったため、実際にどの国にどれだけの額を負担させるのかを決定する上で熟国・亡国の別が財政制度として確立した。熟国に対しては優先的に料物を割り当て、亡国に対しては良吏を任命し租税免除や公文審査の特例措置をとるなどして復興を図ることにより、受領統制を通じた地方支配の構造が成り立っていた。しかし受領は亡国への赴任は望まず自らの利益を求め、熟国受領の私富は成功や有力貴族への奉仕として回収され、院政期には次第に権門による熟国の独占が進行し、本来的な地方支配のあり方とは乖離していった。

 第三章「平安中後期の民部省勘会」は、地方から提出される租税納入・地方財政運営に関する帳簿を民部省管下の主計寮・主税寮(二寮)が監査する公文勘会の、摂関・院政期における構造とその意義について論じた。二寮に提出される文書は律令制的支配体制に則ったもので、摂関期には既に実態と乖離した文書になっていたにもかかわらず厳密に審査され公卿会議で受領の評価を決める参考資料とされた。さらに減省、勘出、越勘、班符といった極めて煩雑な手続きが義務づけられていた。これらは公卿連合が受領を統制することで成り立つ当時の地方支配を構造的に支えていたものであり、地方支配を象徴的に示す業務として重視され、二寮の役割は極めて大きいと評価できる。

 付章「当任加挙考」では、平安時代の受領統制の仕組みに関する補論として、平安時代に見られる出挙(イネの運用)の一形態である「加挙」という制度がいかなる意味をもったかを検討した。従来加挙については漠然とした理解しか存在しなかったが、平安時代の諸史料を検討することにより、当該時期の加挙には、①地方財源の欠失分を補うために翌年度繰り越し分を運用すること、②寺社の財源として運用し毎年納入する目的で地方の国の財源の一部を割き置くこと、の二つの意味があることを指摘し、②の用法において国司の任期中に新たに加挙された財源を特に「当任加挙」と呼んだことを解明した。さらに②の加挙が行われた理由は、一度財源を設置すればそれを運用することによって恒久的に財源を確保できるという出挙制度の特質によるものであり、摂関期においても出挙制度の理念は生きていたことを指摘した。

 終章では上記の検討を総括した上で、日本律令財政の特質とその平安時代以降の展開過程を整理した。八世紀当初、調庸の貢納制的性格を前提に、中央官衙財政は貢納物の再分配という本質を持ち、物品請求や出納などの業務にも原初的形態を残していた。しかし八世紀中葉から九世紀にかけて伝統的な在地豪族が没落し、国司を通じた地方支配が進展すると、租税免除は国司の負担軽減へと性格を変え、中央納物は宮廷儀礼等で不可欠な物品のみが延喜式に固定化し物品請求方式も硬直化する。物品納入も保管官司を介さずに各官司に直接納入する方式へと変化した。こうした中で成立する請奏や、給与・食料等の官符国宛制は、地方豪族による保管官司への納入が行なわれなくなった段階に対応し、文書のみによる国家的財務行政の成立という点で、原初的財政形態から脱した段階であると言える。さらに、この時期の国家体制は受領統制を通じた地方支配であったが、形骸化しつつも様々な手続きによって保たれていた公文勘会や、熟国・亡国の別という実質的な負担可能国の認知とそれを前提とする租税免除などにあらわれているように、律令制本来の仕組みを再解釈することで求心力を保持していた。このような国家構造が律令国家の最終的帰結であった。

 以上のように本稿では、古代国家の財政業務について二部を通じて検討し、その歴史的特質と展開過程を明らかにした。