こんにち我々はバッハの受難曲やカンタータを、大した違和感なくコンサートホールで聴く。従来は教会の中で、時には典礼の一部として演奏されていた音楽が世俗的な環境で聴かれるようになる現象―我々はそれを教会音楽の世俗化と呼ぶ―は、19世紀に入って急速に進んだ。しかし、聖俗二分法的思考の根強いキリスト教社会において、それはいったいどのような論理で正当化されたのか。これは近代の合理精神は伝統的な宗教的価値をいかに受けとめたのかという、より大きな問いと関連する。本論はこの問題を19世紀前半ドイツ語圏のオラトリオ・ブームに即して考察する。このブームにまつわる宗教性についてはこれまでも、この時代一般の教養志向や宗教趣味といった傾向が指摘されてきたが、教会的なものの世俗化を許容する、否むしろ推進する、その具体的な動的原理は充分には解明されてこなかった。本論が導き出した結論は、オラトリオは教会的でない宗教性を拠り所にした、高度に知的な芸術的エンターテインメントとして教会外で振興されたというものである。

 

 オラトリオの流行は、ナショナリズムと教養主義を背景に起こった。その際、それまで宗教的内容を持つ管弦楽付きの大規模な声楽曲という緩やかな共通認識しかなかったこのジャンルについて、改めてその本質を見極めようとする議論が活発になされた。本論第1章は、直前の時代には教会音楽の範疇にあったオラトリオがそこから解放される様子を言説上に確認する。注目すべきは「教会と歌劇場の中間ジャンル」という新しい位置付けである。複数の論者はこのジャンルの起源に立ち返ることで、オラトリオと教会の必然的な結びつきを否定した。だが、オペラは通俗的娯楽の代表である。劇場風なものに罪悪を見る感性が残る当時、オラトリオがそれに近づく危険にはいかなる説明が与えられたのか。

オラトリオは次の二点でオペラのような娯楽には成り下がらないとされた。第一は視覚的演出の欠如である。聴衆はそれを想像力で補わなわねばならないゆえ、オラトリオは精神的に高等な芸術とされた。そこには「オペラの国イタリア」に対する「オラトリオの国ドイツ」の精神的優位というイデオロギーが働いている。第二は、リブレット(台本)の宗教的内容と教会様式という音楽的要素である。それはオラトリオに実践的に取り組む市民の修養にふさわしいものとされた。

 

 第2章はオラトリオ論の内実の分析である。当時の議論の最大の論点はリブレットの詩の形式(エピック、リリック、ドラマチック)だった。オペラへの接近とは、具体的にはリブレットのドラマチック化を指す。第1節は年代順にリリック派、中立派、ドラマチック派の代表的な見解をとりあげ、その流れを追う。

リリックは、詩と音楽によって普遍化された感情世界への没入を本質とする。ミヒャエリスはズルツァー『一般芸術理論』を補強しつつ、この形式を推奨した(1805年)。リリックな詩に多い普遍的な主体への「正体不明」という批判に対し、彼はそれは教会音楽を聴く上で高揚されるべき共同体的な宗教感情の主体だと反論する。

 だが多感主義時代が去ると、リリックへの批判的な見解が目立ってくる。フィンクは、オラトリオのように大規模な作品で単一の感情を高めていくのは困難であるとして、「擬似ドラマチック」を提唱した(1827, 28, 37年)。それはまるで紙芝居を見るかのごとく、筋を想像力によって補いながら、場面毎に変化する多様な感情を味わうリブレットである。

その後優勢になるドラマチック派は、鮮明な具象化と生き生きとした筋展開を重視した。そこでは聴衆は登場人物に自己移入し、数々の事件を追体験する。現実同様に未知なる先行きに、聴衆の関心は強く掻き立てられる。芸術を「隠れたものの啓示者」と呼ぶケーファーシュタインはその魅力を重視し、「退屈な」オラトリオを非難した(1843年)。

エピック派はごく少数だった。依然として定番の題材だった聖書は、もはや客観的な語りによっては当時の聴衆にリアリティをもたらさないからだった。オラトリオの持つ重大な内容は、それゆえリリックによって普遍化するか、聴衆の心を捉えるドラマチックな方法で表現されるべきと主張されたのである。

 

時代の先端を行くドラマチックだが、実践の場では重大な問題が生じた。聖なる存在の具象化の問題である。第2章第2節は、実際にこの問題が表面化した二作品をとりあげ、その内実を跡付ける。共に一人の男性歌手がキリストを演じる受難オラトリオである。ベートーヴェンの《オリーヴ山のキリスト》は、キリストの人間性を前面に出すリブレットが問題視された。それは三通りに表れる。第一は、出版社から作曲家へのリブレット変更の要請として、第二は英国では上演に際して常にリブレットが書き換えられた事実として、そして、ドイツのジャーナリズム上での批判としてである。シュポーアの《救世主の最期のとき》は、制作過程でリブレット作者と作曲家の間に激しい対立が起こった。いずれの場合も、オラトリオの宗教性を直に信仰の問題として捉える立場と、ドラマの虚構の力を重んじる芸術家としての立場が対立の要因だった。

 

 第2章第3節は、多くの論者が主張した主題の「重大さ」と、18世紀後半に美的範疇として確立した「崇高」の関連に注目する。「崇高」は宗教的であるが教会的ではない概念である。それは前世紀からヘンデルのオラトリオや《天地創造》をめぐって語られてきたが、1820年代の「最後の審判」を主題とする一連のオラトリオも、この概念の具現化の試みだった。本論はそれをシュナイダー/アーペルの《世界審判》、シュポーア/ロホリッツの《四終》で検証する。詩人アーペルとロホリッツは共に「崇高」に関する小論を書いていた。亡霊の美的表象としてそれを論じたアーペルは、自らの理想とするサタン像を《世界審判》にとりいれた。一方、ロホリッツは教会様式の音楽と歴史的発展を遂げた管弦楽にそれを見る。そしてやはり彼が崇高とみなす黙示録の聖句のみによってリブレットを構成し、作曲家に音楽上のアドヴァイスを行った。実際の演奏評を見る限り、アーペルの意図は聴衆に伝わらなかったが、ロホリッツの意図は概ね伝わった。

 

第3章は、実際のオラトリオ演奏の「場」に焦点を当て、その宗教性を論じる。具体的な考察対象は、ドイツでは英国の例を模範に1810年に始まった音楽祭である。それは一般市民の組織によって運営され、当初は「民族の祭典」的な性格を持っていたが、30、40年代に「プロフェッショナル化と商業化」への傾向が見られるようになった。その変化の中で、オラトリオ流行の背景にあった教養主義的な宗教性への関心はどうなったのか。

ここでは事例としてニーダーライン音楽祭をとり上げる。それは聖霊降臨祭に開催され、初日のオラトリオ演奏を慣例としていたが、教会暦に無配慮な演目や会場の性質に明らかなように、宗教的な雰囲気は希薄だった。1834年の聖職者グループの国王への直訴事件は、この催しが教会と対立的に捉えられていた事実を示す。そしておそらく教会への対抗意識から、音楽祭の主催者はその芸術的水準を高めることに腐心した。音楽祭実行委員会は非公式の定款で自らの目的を「完全なる創造物の普及」と言い表した。それは宗教に近い価値を芸術に認める表現である。

この音楽祭の最大の功労者メンデルスゾーンも、その芸術性の向上に尽力した。なかでも過去の巨匠の作品を可能な限りオリジナルな形で演奏しようとしたのは、作曲者の意図を正確に伝えようとする芸術家らしい使命感の表れであると同時に、聴衆が安易なヴィルトゥオーソ崇拝に陥らないための啓蒙的配慮であった。メンデルスゾーンがこの音楽祭のために使徒ペトロを主題とするオラトリオの制作を練った事実は、彼が聖霊降臨祭の教義的意味を確かに認識していたことを示すが、彼の関心はその教会的な宗教性ではなく、それが高度に芸術的な象徴表現を生み出す可能性にあった。

 

 第4章は、作曲家メンデルスゾーンの《エリヤ》(1846)の制作理念に迫る。《パウロ》(1836)からの作風の変化(エピック・リリックからドラマチックへ)は先行研究でも指摘されてきたが、本論はそれを当時のオラトリオ論と関連させ、《エリヤ》のドラマ性の特徴を踏まえて作品の根本主題を読み解いた点が新しい。

 リブレット協力者への書簡で目を引くのは、作曲者が対立するものの直接的な対峙によって生まれる迫力をドラマの整合性に優先させたこと、そして通常はドラマチックと相反すると捉えられる省察的要素(リリックな詩)を求めたことである。それは当時のオラトリオ論や前作《パウロ》への批判から、彼が作品全体を貫く根本主題の必要性を認識したことに因っている。筆者の考えでは、メンデルスゾーンはそこで「見えざる神の接近」という、極めて重い宗教的主題を設定したのである。神は存在するのか、しないのか。それは緊迫する場面を生み出す要因になると同時に、劇音楽が単なる「音画」になるのを防ぐ内容の重大性を保証する。預言者エリヤの物語は、手に汗握る最高のエンターテインメントとして、聴衆にリアリティを持って迫ってくる。この主題はまた、聖なるものの具象化の問題を回避した。さらには、謎解きの面白さを聴衆に提供する象徴表現の素材ともなり得たのである。

 

もはや奇蹟など信じない近代の教養市民にとってオラトリオが内包する宗教的内実は、このジャンルの通俗的な娯楽性を否定する根拠となり得る一方で、その享受にはドラマの虚構の力を必要とするというアンビヴァレントなものだった。高度に知的なエンターテインメントという論理はその矛盾を解消しつつ、オラトリオを教会外で推進する原動力になったのである。