本論の課題は、「禅」イメージの歴史的形成過程を明らかにするため、とくに日本文化史で語られた「禅」を、中世後期の禅僧・一休宗純(一三九四年~一四八一年)とその「像」の形成過程に即して具体化することにある。アニメなどを通じてその名が知られている一休は、実像について謎が多い存在である。一休自身のことばを録した『狂雲集』『自戒集』では破戒的でエロティックな精神がみられながら、直弟子たちが記述する『一休和尚年譜』では生真面目な師として語られるなど、その実相は容易に摑み難いのである。

必須である『狂雲集』や『自戒集』の研究は措いて、禅学・文学・中世史学(文化史学)・思想史学などの分野から個性ある一休論が提出され続けたのが、戦後の言論状況であった。戦後の一休論に共通する特徴は、一休における批判精神や反体制的姿勢や独立不羈の境地への着目である。戦争体験が生々しく、敗戦後が一種の乱世と思われた知識人にとっては、その反骨と独立不羈の「像」そのものが、各自が思索する大きな範例となったのではないか。それは、一休そのものの研究と一休の「像」の研究とを橋渡しする試みであるとともに、一休の「像」を通して近現代の日本で「禅文化」がどのように語られたかを思想史的に明らかにする試みとなる。とりわけ、太平洋戦争をはさんで前景化する一休の「像」とその問題意識から、戦後日本における思想史的諸問題を明らかにしようと試みた。

まず、一休在世当時~室町期~徳川期~近現代に到るまで、一休の遺した文献としてどのようなものがあるか、そして一休の「像」を語った文献にはどのようなものがあるかを整理し、宗教研究の方法論としての「像」の分析の意義を検討した【序章】。一休自身のことばから、同時代の宗門内の評価(『大徳寺夜話』など)や世俗における伝承などでは破天荒な姿として伝えられ、のちに「とんち坊主」へと変容していった文献的な変遷をたどった。

そのように一休は前近代から近代に到るまで語られてきたが、「禅者」一休を近代的知性を以て論じた先蹤として、前田利鎌を取り上げた【第一章】。ニーチェ哲学を先駆的に研究したひとりでありながら、居士として熱心に参禅した利鎌の臨済論は、伝統的な臨済禅理解としても、或いは「人間」臨済の精神における「自由」や「主権」を鋭く見抜いた論述としても着目される。そのように見出された「自由」の体現者として一休を取り上げ、イエスやサーニンとともに「一所不住の徒」であるとした利鎌の所論は、近代的「修養」の一類型ともいえるものである。これとは対照的に、性善説的な理想的人格として一休を取り上げる教養派文学――その代表の武者小路実篤――を分析し、いわば大正期から昭和期に到るまでの「修養」と「教養」の相違点を一休の「像」から検討した。

このように参禅などの鍛錬によって「型」を自己に打ち立てていく「修養」に較べて、「教養」が新文化を妄信して伝統を軽視することを「型」の喪失と看做し、そこから軍国主義や皇国体制の台頭をゆるしたものと批判したのが、唐木順三である【第二章】。唐木は「近代」の末路としての太平洋戦争を反省し、一切が無に帰した戦後に新たな文化と思想がどのように確立されるかを構想していた。そのため唐木の中世文化論は、戦後の状況下で改めて「伝統」の源泉を問い直すものとなり、焦点を「下剋上」の世に身分を越えて能楽や作庭など新たな文化を創出した「中世」に当て、その「中世」で大いに受容された「禅」に着目するのである。即ち、すべてを灰燼に帰す応仁・文明の乱世において「虚無」を見出し、そこから新たな文化を芽吹かせるような室町期を代表する精神のひとつに一休が位置づけられたのである。唐木の一休論ないし中世文化論における「虚無からの創造」という着想の内実と背景を明らかにしつつ、戦後直後の言説における「伝統」と「近代」の位置づけを分析した。

唐木と同様、敗戦を機に一切の価値観の顚倒――戦前ならば「狂」と看做されていたような反体制的な姿勢が、敗戦後には一種の常識と看做される時代状況――に愕然としたのが、歴史家の芳賀幸四郎であった【第三章】。中世文化史を専門とする一方で人間禅教団の師家でもあった芳賀もまた、戦時体制へ批判の眼を向けるうえで一休の所謂「狂」に共感を覚えていた。更にここには、戦前の歴史学における皇国史観への反省もみられた。下剋上の世である中世都市の環境ではあらゆる身分や職種が混交し、むしろ最下層民の習慣や風俗や芸能が「東山文化」として昇華され定型化された、とみられたのである。御落胤でありながら、階級をまたいで縦横無尽に世の腐敗を批判した一休こそ「東山文化」の象徴とされた。このようにして、唐木における中世文化への着眼は、芳賀などの「東山文化」論における反皇国史観的意識へ深まり、或いは「下剋上」の時代にあって新たな文化の担い手になる「民衆」への着眼につながっていく。そうした戦後歴史学の問題意識を帯びた一休の「像」と「東山文化」論が、ドナルド・キーン氏らの所論にも強く影響していたこと――更には「禅と日本文化」という枠組そのものが国際的に語られること――を、批判的に考察した。

唐木や芳賀のみならず、禅学者の市川白弦もまた、戦時体制への絶対批判(自他ともに批判)として一休の精神に学んだひとりである【第四章】。とりわけ市川は、西田・大拙における「即」の論理(と時代認識)を批判的に継承しようとする強い問題意識を有していた。西田や大拙を受容しつつ、小笠原秀実における「般若空」のアナキズムをも引き受けていった市川は、「空―無政府―共同体論」を構想するとともに、「空」(垂直の自由)と「無政府・共同体論」(水平の自由)との交点に打ち立てられる「原点ヒューマニズム」を体現する範例として、一休の「風流ならざる処も也(ま)た風流」の精神――ドロドロしたところで生き抜こうとすることがそのまま高邁な自在洒脱の境涯ともなること――を措定する。そのように、「仏土は遠く離れた無限の彼方にしか無いから、即ち今=此処が仏土である」という――「AはAでないからAである」という――「即」の構造として世界を捉えようと試みた市川の思想と一休論の関係を分析した。

このように相次いで提出された一休論に対して、厳密な文献分析に則って初期禅宗史研究を切り開いていった柳田聖山は、従来とは異なる一休の解釈を提示した【第五章】。禅学や中国文学の文献学的知見を用いた解釈は、破戒やエロスを悉く禅と漢詩文の「伝統」の表現であると看做すものであった。そのように宗門のドグマとは一線を画して戦後の科学知に基づく分析は斬新なものと評価されたが、その背景にも柳田自身が理念とした――久松真一の下で受容し、鈴木大拙に影響された――禅がみられた。即ち、歴史学かつ文献学で探究されるべきものであると同時に、公案に打ち込むことでしかわからぬ体験知でもある、というものである。その結果、一休を理解する際にも「解釈無用」の「宗教的エクスタシー」として味わうべきと論じるに到った。このような柳田における一休の「像」とその問題意識としての禅の捉え方を分析し、その功罪を考察した。

 そもそも一休の『狂雲集』は難解を以て知られるが、そこに独特の魅力があったことは水上勉や加藤周一をして小説を書かしめたことからも感ぜられる【第六章】。これらは森女(に関する表現)を通じて一休のエロスと詩想に肉迫しようと試みたのであり、多少不明な部分があっても、詩句という“点”を創作という“線”でつなごうとしたといえるものであった。唐木や加藤は、一休の「像」についてはじめ小説としてしか描かなかった部分を、評論として深めていった。このなかで一休は、「破戒」と「持戒」、「悟り」と「エロス」、「大自信」と「自己批判」、「世捨人」と「世事への毒舌家」、「自力」と「他力」などと複数の位相で「矛盾」を抱える存在と捉えられていく。そうした「矛盾」を「超越」しようとして詩作を重ねていく禅僧、と捉えたのである。そうした「像」は水上や唐木や加藤が小説という創造的方法で提出されたものであったが、それはまた戦後知識人が世情に対してどのように関わるかを考えるときに直面した「矛盾」を反映した「像」ともなっていったと考えられる。このようにして、一休の「像」を語るなかで、加藤周一などの戦後知識人が直面していた「矛盾」と「超越」の問題を考察した。

以上のように戦後の一休論を辿っていくと、それはいわば禅的な意匠を深く考察して語ることにより「伝統」と「近代」を再考しようとする戦後史の一断面であったことに気づかされる。しかもそのように禅が語られる際に、実に頻繁に立ち現れるのが、西田幾多郎や鈴木大拙の所論である。戦後史において、禅の「思索」と「体験」を徹底的に考え抜いて表現しようと苦闘した西田・大拙は、戦後知識人による一休論においても不可避の絶対的存在だったことがみえてくる。本論の随処に両者の名が確認できること自体が、戦後史的言説の一特徴といえよう。

各論を導いた一休の「像」(の性格)で顕著だったのは、自らが「伝統」を担う大自信を表明しつつ、それまでの(禅門の)「伝統」では直面することのなかった乱世に飛び込んでいった、ということである。いわば一休は、大自信と現実への対峙とのあいだで引き裂かれていく存在と考えられた。自分のみが臨済禅を担い得るという覚悟――故に堕落した宗門を唾棄すること――と、その宗門を滅ぶままにせず何らか支えねばならぬという使命感と、そのあいだを往還する存在、と捉えられていった。その両極性のあいだで矛盾しているようにみえながら、何ものにも縛られぬ真の「自由」を希求する存在として、戦後における一休の「像」は立ち現れて来た。そのような一休の「像」を通して、禅宗で伝統的に言われる「自由」――自ら由ること――を、近現代に活きる形で表現していたものと考えられたのである。戦後史の只中で一休の「像」を論じることは、「伝統」を向うに置いて「自由」を探究するものであったと結論付けられるだろう。