高句麗の瓦は高句麗の遺跡の中で最も出土量が多く、その中には年代が特定できる紀年銘があるものや周辺の諸王朝のものと共通する単位紋様の要素を持っているもの、また、高句麗独特の紋様構成及び製作技法が確認できるものがあるため、年代を測る尺度としての意味をもつのみならず、当時の高句麗を巡る国際状況を知り得る一つの手掛かりになる遺物として重要である。

しかし、高句麗の瓦に関する既往の研究は以下のような問題がある。(一)高句麗の瓦であることが判断できる明確な基準が提示されていないため、集成資料のみならず発掘調査により出土したものでさえ、研究対象として扱うことが難しい。また、先行研究では取り扱った資料が高句麗の瓦であることを明らかにした研究が少ない。(二)紀年銘が確認できる高句麗の瓦や古墳出土の高句麗瓦の絶対年代について、研究者によっては意見の違いがあり、一致した見解に至っていない。(三)高句麗の軒丸瓦の場合、個別の型式ごとに編年研究が行われており、出土地域や型式を網羅して各軒丸瓦における共通の紋様要素の変化を分析した研究が見当たらない。(四)主に紋様のみを分析し、瓦の年代を論じた研究が多く、時期判断の材料として用いることができる製作技法などの要素を取り入れて検討した研究が見当たらない。(五)時期判断が可能な周辺地域や諸王朝の瓦と高句麗の瓦との詳しい年代比較が欠けている。

以上のような先行研究の問題を踏まえて、本研究は集安地域と平壌地域から出土した高句麗の瓦を一つの空間的枠組みにおいて捉える。今まで高句麗の瓦として報告された三千点余りの資料の中から、高句麗の瓦と判明できる資料を選別し、紀年銘、紋様、製作技法(主に接合技法)を中心に編年を行う。その編年に基づき、高句麗遺跡の造営時期や被葬者問題、高句麗における瓦の変遷がどのような歴史的経緯で行われたのかを論じたものである。本研究における主な研究成果は以下の通りにまとめることができる。

序章では、 高句麗の瓦に関する調査報告と先行研究を概観し、その研究を行う必要性や研究で取り組むべき課題を提示した。

第一章では、報告された実物資料の中で高句麗瓦を同定するための三つの条件を提示した。その条件とは(一)高句麗の古墳から出土したもの、(二)高句麗と関連性が認められる銘文があるもの、(三)高句麗の瓦と判断できる資料と同型の紋様や製作技法が確認できるものである。これらに基づき、高句麗の瓦といえる研究対象を抽出することができる。その結果、高句麗の瓦は軒丸瓦・平瓦・丸瓦・弦月瓦・烏衾瓦・背瓦・面戸瓦など、形態別には七種類の瓦類があり、軒丸瓦は三十四の型式に至る。これにより高句麗の建物の屋根は様々な瓦により覆われていたことを指摘できた。

第二章では、三十四の型式の高句麗軒丸瓦を紀年銘・単位紋様の特徴・接合技法などの技術的諸属性を中心に検討し、型式分類を行った。高句麗軒丸瓦の各型式から年代推定が可能な単位紋様の要素を抽出し、年代が確認できる周辺地域や諸王朝の遺物との比較により実年代について論じている。それを踏まえて型式分類をもとに構築した各高句麗軒丸瓦の相対編年の検証を試みた。その結果、高句麗における軒丸瓦の製作開始は三世紀末まで遡り、最も早い時期に作られた卷雲紋軒丸瓦は三世紀第四四半期から四世紀第三四半期までに集安地域の都城遺跡や巨大積石塚に使用されたものであることを明らかにした。次に四世紀第四四半期からは、集安地域で作られ初めた輻線蓮華紋軒丸瓦が、平壌への遷都を契機として平壌地域でも五世紀第二四半期から作られるようになり、六世紀第二四半期まで続けて作られたことを明らかにした。主に輻線蓮華紋軒丸瓦のみが作られた五世紀第三四半期とは異なり、五世紀第四四半期以後から六世紀にかけて様々な種類の軒丸瓦が作られるようになることを明らかにすることができた。今までの先行研究ではほとんど年代特定ができなかった三十型式以上の高句麗の軒丸瓦の新たな年代や初めての年代特定について論じることができた。

第三章では、第二章で検討した軒丸瓦の編年に基づき、高句麗遺跡の造営時期や被葬者問題についての検討を試みた。国内城はもっぱら高句麗中期の王城として平壌遷都以前の高句麗史を究明するうえで重要視されていたが、平壌遷都以後の六世紀にも軒丸瓦を用いる建物があり、旧都の王城が平壌遷都以後にも修理(修築)されていたことを明らかにした。また、既往の研究では四世紀に造営された遺跡とされる東台子遺跡は軒丸瓦を用いた建物があった時期がおおむね六世紀第二四半期以後のことであり、六世紀第三四半期以後にも建物の修理(修築)が行われていたものと結論づけた。高句麗中期の都城の背後山城として知られている丸都山城は出土した軒丸瓦に六世紀第一四半期まで遡るものが見当たらないため、軒丸瓦が葺かれた建物が初めて建てられた時期を六世紀第二四半期以後と推定できる。平壌遷都以前には瓦葺の建物は丸都山城には存在せず、平壌遷都以後も高句麗の山城として機能していたものと論じられる。 高句麗が平壌に遷都する以前に瓦を製作していたとする説については、平壌遷都以前には瓦葺の高句麗の建物は存在しなかったと論じた。大城山城は、今まで考古資料を用いた造営時期の想定が困難であったが、軒丸瓦の編年から五世紀第三四半期に築造されはじめ、六世紀にかけて建物の修理(修築)が行われたと論じた。大城山城が高句麗後期都城の背後山城として長く機能していたことを確認できた。清岩里寺址は五世紀第四四半期以後に造営された金剛寺の跡であることが文献資料だけではなく、軒丸瓦からも論じられる。また、元五里寺址は六世紀第四四半期には造営されていたことを明らかにした。定陵寺址は六世紀第一四半期以後からの造営が始まり、六世紀第三四半期にも建物の修理(修築)が行われていたと論じ、この遺跡と深いかかわりがあると想定される伝東明王陵の築造年代も定陵寺址の年代と同様であり、その被葬者を文咨王と推定した。

禹山三三一九号の造営年代は、既往の主な研究とは異なり三世紀第四四半期であり、古墳の被葬者を特定人物と断定することができないこと、また、高句麗積石塚における軒丸瓦の使用開始が既往の主な研究とは異なることを明らかにした。西大塚は四世紀第二四半期に造営された美川王陵であり、四世紀第三四半期に造営された千秋塚の被葬者は故国原王もしくは小獣林王、四世紀第四四半期に造営された太王陵は故国壌王陵、 五世紀第一四半期に造営された将軍塚は広開土王陵、五世紀第四四半期に造営された漢王墓は長寿王陵であると論じた。また、禹山九九二号や麻線二一〇〇号、禹山二一一二号は既往の研究とは異なり、王陵ではないことを明らかにした。

安鶴宮遺跡における造営時期の判断は、軒丸瓦の比較検討により既往の前期平壌城や高句麗末期の遺跡と判断することは難しく、高句麗滅亡以後から高麗成立以前のある時期に造営されたと論じた。

第四章では、高句麗軒丸瓦の編年を踏まえ、高句麗の丸瓦は縄紋の叩き痕跡を残す手法から無紋にする手法へ変化するが、丸瓦とは異なって平瓦は四世紀以後も両方の手法が併存することを明らかにした。また、広端部の先端に紋様が施された平瓦は集安地域の古墳のみで用いられたものであり、既往の研究とは異なって指頭紋がコイル紋より早い時期のものと判断した。その他にも、平瓦の広端部に三角紋・四角紋・コイル紋などを施した製法が高句麗の独自の造瓦技法であることを論じた。軒丸瓦が出土せず、平・丸瓦のみ出土する麻線二三七八号、山城下三六号、禹山二一一〇号、七星山八七一号などの積石塚の造営年代が主に三世紀第三四半期以前であると論じた。また、臨江塚や七星山二一一号の造営時期が主に三世紀後期頃であり、その被葬者が烽上王や西川王の可能性が高いと判断した。禹山五四〇号の造営時期は五世紀第二四半期になる。高句麗の積石塚には墓上建築物があり、高句麗の古墳から出土する瓦は墓上建築物の屋根を覆うためのものであることを面戸瓦をあげて論じた。

第五章では、高句麗瓦の変遷についてⅠからⅤ段階までの区分を行った。その上で、各段階における高句麗瓦と周辺地域の遺物に類似する技術的属性が確認できる歴史的経緯を論じた。高句麗瓦Ⅰ段階は高句麗における造瓦開始期であり、軒丸瓦は作られず、平・丸瓦のみを製作する段階である。高句麗瓦Ⅱ段階は軒丸瓦の製作開始期であり、外来的な紋様上の属性に高句麗の独自的な要素が加わり始める段階ともいえる。高句麗瓦Ⅲ段階はもっぱら輻線蓮華紋軒丸瓦のみが作られた段階であり、巻雲紋の伝統が解体され、輻線蓮華紋という新たな要素に再編成される。高句麗瓦Ⅳ段階は輻線蓮華紋軒丸瓦の製作から抜け出し、最も多くの種類の軒丸瓦が作られるようになった段階である。高句麗瓦Ⅴ段階は高句麗瓦Ⅳ段階に続いて多くの種類の軒丸瓦が作られた段階であるが、持続した単位紋様の伝統がなくなり、単純化・小型化するなどの変化が確認できる段階である。

高句麗の瓦の変遷過程の解明は高句麗史を研究するうえで基礎的な作業として重要である。今後、新たに高句麗の瓦と特定できる資料を増やすことにより補完し、より精緻な高句麗瓦の編年を構築していくことができると考える。新たに高句麗の瓦と判断できる資料が増えると、瓦と関連する高句麗遺跡のより詳しい造営時期を探ることが可能になろう。それが東アジア考古学全般において果たす編年軸としての役割は、決して小さなものではなく、文献では知ることのできない当時の国際社会の変化や文化の受容についても把握を容易にすることができるものと考える。