本稿はフランス植民地期のサイゴン市を対象に、都市におけるベトナム人政治運動の限界性について、都市そのものの形成過程と都市における政治運動の展開過程という二つの側面を通じて再検討することを目的としたものである。本稿の考察の対象は、フランスの植民都市サイゴンの形成期(1859年~20世紀初頭)、ベトナム人の政治運動がサイゴン市で興隆した時期(1920年代~1930年代)の二つの時代である。

本稿は序論、第1部、第2部、結論からなった。第1部は、第1章と第2章に分けられ、第2部は、第3章と第4章に分けられた。

序論「植民地期サイゴン市議会選挙研究の意義」では、まず植民地期コーチシナにおけるベトナム人の政治活動の中で、諸議会を通じた運動が仏領期の当初から第二次世界大戦の開始まで重視されてきたこと、諸議会の中でもサイゴン市議会がベトナム南部の植民地期の政治史を理解するうえで極めて重要な意味を持っていたことを示した。次に1920年代から1930年代にかけて、サイゴン市議会におけるベトナム人の勢力の中心が仏越提携主義のインドシナ立憲党からインドシナ共産党系とトロツキスト系のグループの選挙協力によって形成された「労働派」に移動したという事件に対して、従来の研究でどのような議論が行われてきたか検討した。そのうえで、本稿の課題を、植民地の都市の政治面・経済面・社会面の特殊性が、サイゴン市議会に代表される諸議会におけるベトナム人の政治運動の性質をどのように規定したのかを明らかにすること、および各党派の運動がどのような限界を抱えていたのかを明らかにすること、という2点に設定した。

第1部「植民都市の中のベトナム人」はフランスが阮朝治下の嘉定省を占領した1859年から、周辺農村の合併によるサイゴン市の拡大が終息する20世紀初頭までの、植民都市サイゴンの創成期を扱った。サイゴン市は、フランスの植民都市であるがゆえにフランス行政が適用されるという政治的特殊性、住民人口のうちベトナム人の比率が低く、フランス系企業と華人・インド人を中心としたアジア系移民の経済活動が活発であったという経済的特殊性、住民の社会階層構造が農村部のそれと異なっていたという社会的特殊性を持っていた。第1部では、植民都市の空間の中でベトナム人住民が置かれていた政治的・経済的立場が、サイゴン市におけるベトナム人の諸議会を通じた政治運動をいかに規定したのかを考察した。

第1章「サイゴンの都市形成とベトナム人:居留地の不在」は、植民地化直後の時期において、植民地政庁の政治支配システムと土地支配システムにおいて被支配者であるベトナム人がどのように位置づけられていたのかを確認することを目的とした。占領当初から19世紀末に至るまでのフランスの都市政策の基本は基本的にベトナム人の排除であった。20世紀初頭に至るまで、農村とサイゴン市では「自治」の主体が異なるものという認識が仏越側双方で共有された。植民者のための空間である植民都市―現地人のための空間である農村、という二項対立的な考え方からは、植民都市内に現地人の居留地を留保することに対して、支配者側の発想も、被支配者の要求も生まれにくかった。対現地人行政の面で、植民都市と近郊農村との間の断絶の度合いが大きかったことは、サイゴン市の形成過程の大きな特徴であった。

第2章「公有地払い下げに対するベトナム人の対応:農村への退行」は、1865年~1908年の間におけるサイゴン市内外の土地の所有権の起源と権利移転の過程を記録した1908年の公用収用調査史料を素材に、土地所有者の民族別属性の長期的変遷過程を分析することで、フランスの土地政策に対するベトナム人の関与のあり方を論じることを目的とした。ベトナム人は植民地建設期に市内の土地を払い下げられていたにも関わらず、土地投機ブームを背景に土地を他の民族に売却するものが多く現れ、結果として市内におけるベトナム人の土地所有率は後退した。対して市外の土地は基本的にベトナム人が占有する状況が20世紀初頭まで継続したが、1870年代以降、少数ながらベトナム人から華人・インド人への土地所有権の移転がみられるようになった。植民都市創成期の親仏ベトナム人は、植民都市サイゴンの都市社会に同化しその内部で経済的影響力を維持するよりも、むしろ植民都市から距離をおき、農村に退行する傾向があった。フランスのコーチシナ占領直後から19世紀初頭に至るまでのサイゴン市の形成史を振り返れば、サイゴン市には、ベトナム人の都市政治運動の母体となりうるベトナム人の住民社会や、その主な担い手となりうるベトナム人資本家層や地主層が十分に存在していなかったのではないかと考えられる。

第2部「ベトナム人の都市政治運動の限界」は、20世紀前半にサイゴン市議会議員選挙の現地人議員枠をめぐって行われたベトナム人の政治運動の分析を通じて、サイゴン市を舞台とする仏領期のベトナム人政治運動の限界性を検討する部分であった。この後半の二つの章では、序論で挙げた課題の第2点目、すなわち、植民地体制下の政治システムが規定したベトナム人政治運動の限界性の再検討を行った。

第3章「インドシナ立憲党と普通選挙:1920年代のサイゴン市議会選挙の展開」は1920年代にサイゴン市議会議員選挙の現地人議員枠をめぐって行われたベトナム人の政治運動の分析を通じて、植民地体制下の多民族構造と植民地体制下の政治システムがどのようにベトナム人の都市における政治運動に限界性を与えたのかについて考察することを目的とした。

1926年までに完成したサイゴン市議会選挙の制度は、男子普通選挙をその最大の特徴とした。しかしながら、普通選挙を原則としながらも、実際の登録有権者は成人男性人口のうち圧倒的に少数であり、投票率も低かった。サイゴン市議会の現地人議員枠には、多民族構成のサイゴン市において、現地人(実質的にはベトナム人)の利害を代表するという役割がフランス植民地政府によって与えられ、またベトナム人から期待されてきた。一方でベトナム人登録有権者はベトナム人の経済的立場の向上や選挙制度の民主化という民族主義的・理念的なレベルを重視するベトナム人上層住民と、日常レベルの公約を重視するベトナム人下層住民という二階建ての構造になっていた。ベトナム人の上層住民と下層住民の関心が一致しないことは、サイゴン市議会に期待されていた本来の役割、すなわち多民族構成のサイゴン市において、現地人の利害を代表するという役割に限界をもたらした。また、インドシナ立憲党のサイゴン市議会を通じた民族主義的主張は、1929年までにフランス植民地政府の検閲と同党の消極性によって行き詰まり、サイゴン市議会が民族主義的主張の実現の場所となりえないことが明らかとなった。ベトナム人登録有権者の間では、アジア系外国人コミュニティーに対する政治的・経済的な対抗は熱望されなかったから、反アジア系外国人という主張を通じて、サイゴン市のベトナム人コミュニティー全体が結び付く可能性も低かった。

第4章「『労働派』の台頭と限界:1930年代の『労働派』の議席拡大の再評価」は、1930年代、すなわちインドシナ共産党系とトロツキスト系の選挙協力によって形成された「労働派」が勢力を伸長させた時期、サイゴン市議会議員選挙とコーチシナ植民地議会選挙の現地人議員枠をめぐって行われたベトナム人の政治運動の分析を通じて、1930年代後半のサイゴン市における議会政治に中心的な役割を果たしたのはどのような階層の人々であったのか、という問題を考えた。1933年4月~5月の「労働派」の公約は、一見すると階級闘争が前面に打ち出された文面となっており、急進的な主張が多く含まれている。しかしながら実際には、「労働派」の公約のうちの多くには、1920年代にインドシナ立憲党によって、民族主義的なニュアンスをともなって主張された事項が潜り込んでいる。一方1933年選挙時のインドシナ立憲党の公約は、1929年までの同党の公約に比べて大幅に後退し、曖昧模糊とした文面になっている。1933年の「労働派」の議席拡大は、登録有権者の急進化を示す現象というよりは、むしろ登録有権者がインドシナ立憲党を見放した結果を示す現象として理解すべきである。1933年~1939年の間のサイゴン市議会・コーチシナ植民地議会の議会選挙の登録有権者数=選挙の規模自体は縮小傾向にあり、左派候補の当選は浮動票によるところが大きかった。したがってサイゴン市議会・コーチシナ植民地議会の左傾化はインドシナにおける人民戦線運動の拡大の証左にはならない。1937年のサイゴン市議会議員選挙において、保守派のインドシナ立憲党も革新派の「労働派」も、同様に官吏を選挙戦の主たるターゲットとしていた。官吏が政治情勢の帰趨を決していたという現象は1939年のコーチシナ植民地議会選挙でもみられた。普通選挙制度が導入され、1920年代には労働者が票田化していたにも関わらず、サイゴン市議会議員選挙を通じた政治運動に限って言えば、1930年代の「労働派」はサイゴン市において幅広い社会階層の人々の結集に成功していない。植民地期のサイゴン市議会を通じたベトナム人の都市政治運動は動員力の点で大きな限界を抱えていた、というのが本稿の主張である。