1 研究の目的

 

本論文の主題は,パーリ仏教文献に説かれる聖者(ariya)のあり様と,その聖者の位に至るための修道の解明である.仏典における思想や教義に関する諸概念は,本来,実践を通して修行者によって実現されることを目指して説かれているので,様々な思想や教義の意味を確定するためには,それらの教説を実践者との関係において明かすことが必要である.けれども,これまでの仏教研究において,仏教の重要思想は,それ単独で議論され観念的なものとして理解・解釈されており,修行に関する教説内容も,ブッダの教えに従う実践者として,悟りに向かう過程を具現化した聖者のあり様と関係づけて考察されることはなかった.本論文は,仏教研究におけるこうした空白を埋めるために,ニカーヤを中心に,論蔵・註釈書などのパーリ仏教文献に説かれた重要な教義概念を対象として,聖者と修道に関する記述を分析・考察し,初期・上座部仏教の聖者のあり様を明かすとともに,思想や修行に関する教説を体系的に解釈し,聖者の修道について解明することを目的とする.

 

2 論文の構成

 

本論文の本論は,二部構成となっており,主要な考察内容は次のようである.

〔第一部〕パーリ文献には,典型的な聖者の類型として,「四聖者(預流者,一来者,不還者,阿羅漢)」と「七聖者(倶分解脱者,慧解脱者,身証者,見至者,信解脱者,随法行者,随信行者)」が説かれており,この聖者の段階に入っていない人は「凡夫」である.本章では,パーリ文献において聖者がいかに理解されているかを明かすために,凡夫との比較考察を含めて,凡夫と聖者の意味,特性,類型などについて考察する.また,凡夫と聖者それぞれの特性を表す定型句と,凡夫と聖者が対比され説かれる文脈の内容を比較・分析し,凡夫と聖者を区分する基準となる要素を明かす.

〔第二部〕聖者が果の成就に至るための実践修行法,そして聖者において修道が完成されていくあり様を明かすために,聖者の最初の段階である「預流者」と,最高の段階である「阿羅漢」について,同一の聖者への道の途上にあるものとして,同一のカテゴリ,すなわち聖者の果の成就の要件である「信-定-慧」に着目して考察をおこなう.預流者になるためには,信と智慧とによる二つの方法があるという従来の研究とは違って,本論文では,預流者の特徴であり条件である「三結の除去」の方法の解明によって,預流者となるために信と智慧がともに用いられることを明かす.また,この信が阿羅漢まで具え続けられることを明かし,阿羅漢には信がないと解釈されてきた従来の研究と異なる見解を示す.それから,二種の阿羅漢(倶分解脱者と慧解脱者)を中心に聖者の禅定成就の様相について考察し,漏尽智の内容に基づき,心解脱と慧解脱,阿羅漢が消滅する煩悩とその消滅のための修行法,四聖諦における「四聖諦に対する智慧」の完成などの考察を通じて,阿羅漢の解脱について解明する.

さらに,〔付論〕において,聖者のあり様に関する詳細な説明が施されているPuggalapaññatti-aṭṭhakathāの「論母(mātikā)」と「一法(ekaka)」を和訳し,パーリ文献における聖者と修道に関する註釈的解釈を確認する.

 

3 考察の内容

 

凡夫と聖者を区分づける基準となるのは,①有身見,②五蘊の無我に対する智慧,③五蘊の生滅に対する如実知見,④四預流支の有無である.このうち①は凡夫の特性,残りは聖者の特性であり,それぞれ,預流者が除去すべき束縛(結)とそれの除去に働く要素であって,これらは修道において相互対置の関係にある.預流者であることは三結(有身見・疑い・戒禁取)を除去していることであるので,三結を除去する方法は預流者となる方法にほかならない.三結のうち,自我に対する誤った見解に起因する邪見である「有身見(sakkāyadiṭṭhi)」と「戒禁取(sīlabbataparāmāsa)」は,無常苦無我の智慧によって除去されるが,この智慧は上の②・③と異ならず,仏法僧などに対する確信がない状態で起こる「疑い(vicikicchā)」の除去に働くのは,④の四預流支のうちの「仏法僧に対する確固たる浄信」である.

これらの五蘊に対する智慧と三宝に対する確固たる信は,預流者が具える智慧と信の内実であるので,三結とそれらの除去法との相応関係によって,預流果の成就に智慧と信とによる独立した二つの方法があるのではなく,智慧と信がともに働き,ともに用いられることがわかる.このことは七聖者においても確認される.七聖者のうち,預流道・預流果にいる随信行者・信解脱者と随法行者・見至者は,信精進念定慧の五根をすべて有しながら,すぐれた根である信と智慧とによって分類された聖者の類型であって,それぞれ信と智慧によって道と果を得るのではなく,信と智慧の両方をともに用いるのである.

このように,預流果を得るための要件は信と智慧であり,このうち信は預流果の段階で完成する.それゆえ,阿羅漢果の成就と関連して信が取り上げられることはなく,阿羅漢には信がないと解釈される傾向があった.しかし,文献上の記述を綿密に検討すると,阿羅漢にもブッダに対する親愛である信があり,預流果で完成された信が阿羅漢まで具え続けられることがわかる.

阿羅漢の禅定成就は,七聖者のうちの二種の阿羅漢においてよく表されており,倶分解脱者は禅定を成就して,慧解脱者は禅定を成就せず阿羅漢果を得る人として説明されているように見える.しかし,様々な文脈から慧解脱者が四禅を成就すると解釈可能であり,倶分解脱者は必ず無色定以上を得る人,慧解脱者は四禅を得る人として区分づけられる.信が預流果で完成するといえば,定は不還果で完成し,不還果で完成された定は,阿羅漢果においても具え続けられる.不還果における定の完成は,四禅の成就を意味するので,これによっても,二種の阿羅漢は,禅定を得るか否かではなく,禅定成就の能力によって区分されていることが知られる.

漏尽智の内容によると,阿羅漢の解脱は,四聖諦に対する智慧によって,「欲漏(kāmāsava)」,「有漏(bhavāsava)」,「無明漏(avijjāsava)」の三つの煩悩が消滅され,心解脱(cetovimutti)と慧解脱(paññāvimutti)が具えられた状態である.心解脱は,心に関係する,それの除去に禅定が必要な煩悩(欲漏と有漏)が消滅された清浄なる心の状態を意味し,解脱の途上にあるものとして位置づけられる.一方,慧解脱は,解脱に導く究極の智慧が具えられた状態,すなわち智慧の完成によって,無智という煩悩(無明漏)が消滅された状態を意味し,心解脱の後に得られ,この両解脱をもって解脱は完成する.

心解脱と慧解脱が具えられている状態は,三つの煩悩が消滅されている状態にほかならない.すなわち,禅定の成就と無常苦無我の智慧によって,最初の「欲漏」が消滅された状態は,不還者の心解脱であり,その程度が深まった,禅定の成就と無常苦無我の智慧による「有漏」の消滅は,阿羅漢の心解脱である.また,四聖諦に対する完全な智慧による「無明漏」の消滅は,阿羅漢の慧解脱である.このように,それぞれの消滅法の具体的な内容は異なるが,漏尽智の説明において,これらの煩悩は三つとも四聖諦に対する智慧によって消滅せられると説かれているので,それぞれの煩悩の消滅法が,四聖諦に対する智慧の内容を構成することがわかる.また,註釈書には,預流果の段階で除去される「見漏(diṭṭhāsava)」を含む四種の煩悩もが,四聖諦に対する智慧によって消滅せられると説かれるので,この智慧は,最初から煩悩の消滅に働くことがわかる.このように,四聖諦に対する智慧は,聖者の各段階で異なる程度で機能し,最終的にはその前の段階で経験されたすべてのことが含まれた智慧として,無智の消滅に用いられる.

四聖諦の体系における解脱は,苦の原因である「渇愛(taṇhā)」を消滅させることによって,苦である五取蘊から解放されることである.苦の消滅に導く道である八聖道の体系から見ると,渇愛は最後にある「四禅」を意味する「正定(sammāsamādhi)」によって消滅せられる.しかし,「渇愛」の消滅には,四禅の成就のみならず,渇愛が生ずる対象に対して愛しいと思わないための無常苦無我の智慧が必要である.このことは,渇愛と同義である生存と関係する二つの煩悩(kāmāsava,bhavāsava)や十結における三つの貪欲(kāmarāga・rūparāga・arūparāga)の消滅に,禅定と智慧がともに用いられることからも知られる.正見から正定に進む八聖道の体系において,四禅の成就とともに無常苦無我の智慧によって,渇愛が消滅された状態が心解脱である.

一方,慧解脱を解明するためには,「正見」に有学のものと無学のものがあることに注目する必要がある.正見とは,四聖諦に対する智を意味し,八聖道の最初の要素としての正見は,有学が有する四聖諦に対する智慧である.しかし,八聖道を「戒定慧」の三学体系として理解する場合,最後の「慧」に当たる正見は,有学の智慧を意味すると見なせない.この場合の正見は,八聖道と「正智(sammāñāṇa)」,「正解脱(sammāvimutti)」を内容とする「十無学法(dasa asekhā dhammā)」において,無学が有する正智を意味し,八聖道を完全に実践し渇愛を消滅させることによって,苦の消滅を実現させた四聖諦の完全な体得による智慧である.この智慧が具えられ,最後の煩悩である無智が消滅された状態が慧解脱である.このようにして,四聖諦と八聖道の体系のうえで,四聖諦に対する智慧によって,生存に関する煩悩と無智という煩悩が消滅せられた,心解脱と慧解脱が得られる.