本論文「淡路方言の記述と系統」は,筆者の現地調査で得たデータを基に,方言学,言語学的な視点から淡路方言の詳細な記述を行うとともに,淡路方言の歴史,系統について考察することを目的とした。

 本論文は第1部「淡路方言の総合的記述」,第2部「特定地域の個別的記述」,第3部「淡路方言の歴史と系統」の3部構成から成る。第1部では淡路方言全体に関する共時的な総合的記述を行った。淡路方言の中にも様々な変種があるが,ここでは淡路方言全体に関わる内容を中心に扱った。

 1章では,本論文の前提知識となる淡路島の地勢と沿革および淡路方言の概要について説明した。淡路島は瀬戸内海の中で最東部かつ最大の島で,本州と四国の間に位置し,現在は兵庫県に属し,方言区画でも近畿方言に分類されてきたが,江戸時代には徳島藩の所領だったこともあり,淡路方言には兵庫県を中心とした近畿地方西部の影響と徳島県を中心とした四国地方の影響があると考えられ,所属が明らかでないことを説明した。また,本論文での淡路方言の定義について述べるとともに,筆者が行った淡路島および沼島での調査方法と話者,調査日程についてまとめて提示した。

 2章では,淡路方言のこれまでの研究史,すなわち先行研究についてまとめた。淡路方言の先行研究は昭和の初期からと日本語の方言の中ではかなり早い段階から行われているものの,地元の研究家によるものの比重が大きく,方言学・言語学的な整理が必要なことを述べた。

 3章では,淡路方言の音声・音韻について,先行研究を基に筆者の調査データにより修正を行いつつ整理した。特にガ行・ダ行における前鼻音について,同様に前鼻音が見られる東北方言の1つである盛岡市方言と対照しつつ詳しく記述し,前鼻音を伴わない濁音と音韻的な対立をなさないことから,ガ行・ダ行の子音ともに音素としては1つを立てれば良いことを示した。

 4章では,淡路方言の動詞・形容詞の活用と音節の融合を中心に記述した。活用では様々な基底形と派生規則を設定し,例えば動詞命令形は基底に|-e|を立てることで活用型を問わず統一的に表層形を導けることなどを示した。また,音節の融合では単一の形態素にはない[tja], [sja], [w̃a]のような二次的な拍が現れることを示し,また音節の融合にはいくつかの種類があり,モーラを保存する例と保存しない例があるが,両者は変化が生じた時期が異なると考えられることを主張した。

 5章では,淡路方言のアクセントの記述を行った。淡路方言のアクセントは京都や大阪と同様に中央式に属するが,名詞の3拍H2型の残存や動詞終止形での3拍H1型など,中央式の中ではやや古い特徴を保持していることを示した。また,淡路方言では促音が核を担うことがあり,関連して,促音の前後で核の位置が対立すると考えられる例についても分析した。さらに,中央式諸方言に観察される時空関連語における助詞「の」の低接についても幅広く調査し,アクセント変化に意味が関係する興味深い現象であることを述べた。

 6章では,淡路方言に見られる文法の特徴についてまとめた。助詞「ガ」・「ハ」の融合形は,概ね標準語の「が」・「は」が現れる位置に対応し,主語と主題をマークするのに対し,目的語はゼロ標示が普通であることから,淡路方言が有標主格型であることを述べた。一方で,北部では動作主的でない主語がゼロ標示も許容する例があることから,近畿中央部のように主語も目的語もゼロ標示を基本とする体系へ移行する過程にある可能性を考察した。また,淡路方言には「ヨル」と「トル」が共起する形式「ヨットラ」があることを示し,「ヨットラ」の成立過程には「トル+ワ」>「トラ」が終助詞(文末詞)として文法化したと考えるべきことを述べた。さらに,疑問詞疑問文の主文では,述部が連体形あるいは条件形を取るという,中国方言や四国方言と共通の現象が見られることについても記述した。

 7章では,淡路方言の語彙の特徴について記述した。[キキビス]「踵」を例に,C1‒C2‒C2 → C1‒C1‒C2という不規則な音変化について,類例とともに示した。また,[グチナ]「蛇」を例に,動物名の語頭濁音形についても考察を行った。[タトム]「畳む」などからは,現在は観察されないがかつてはバ行・マ行ウ音便が淡路方言にも存在したことを主張した。

 8章では,7章までで中心的に記述しなかった淡路方言の地域差を中心に取り扱い,アクセントや語彙についての淡路島内50地点程度の言語地図を描き,それを基に淡路方言の共時的な下位区分を試みた結果,現在の3市にほぼ対応する形で北部,中部,南部に3区分されることを示した

 

第2部では淡路方言の中でも特に特徴的な地域について個別の記述を行った。8章で述べたように,淡路方言には地域差が見られるが,その中でも特に特徴的な地区と現象について,ここで個別に記述した。

 9章では淡路市北淡方言の重起伏調というアクセント現象について記述した。重起伏調は日本全国でもいくつかの方言に見られるが,淡路方言のように式の対立がある方言における重起伏調は比較的珍しく,その記述は重要であると考えられる。特に,北淡の重起伏調に見られるL式文節が先行した場合の語頭隆起強化は,重起伏調から有核に転じる有力なプロセスの1つと考えられる。

 10章では洲本市由良方言の語頭子音連続について記述した。由良方言は近畿方言では珍しい連母音の融合が見られるなど特徴的な方言として知られるが,語頭に促音が立つ例が多いなど,音素配列でも特殊な点がある。この方言の語頭子音連続に見られる最大の特徴は,長さの三項対立が見られることである。これは今のところ他の日本語の方言には見られない特異な現象である。

 11章では南あわじ市沼島方言のアクセントの2単位形について記述した。この方言では淡路方言の中でも複合語を中心にアクセントの2単位形が豊富に観察される。主に共時的な記述を行いつつ,一部で通時的な説明を試み,沼島方言の2単位形が持つ歴史的な位置づけについて論じ,沼島方言の淡路方言内での系統的位置についても考察した。

 

第3部では淡路方言の歴史的発展とその系統関係を論じた。これまで共時的に記述してきたデータを,通時的観点から捉え直すのがここでの目的である。

 12章では,淡路方言の地域差の成立過程を考察し, 8章で行った下位区分を通時的観点から修正し,改新的特徴,すなわち古態の保持ではなく新しく変化した要素の共有に注目することで,淡路方言は北部と中南部にまず大きく2区分される上,中部は系統学でいうところのいわゆる側系統にあたり,洲本・五色・由良を単一の方言区画とするような系統的なまとまりはないことを明らかにした。

 13章では,淡路方言と周辺方言との系統関係について論じた。周辺方言との類似はこれまでも指摘されてきたが,改新的特徴に注目したところ,淡路方言は四国方言とアクセント上の例外を共有しており,それが中央式の成立する体系変化前に遡ると考えられることから,系統的には近畿方言よりもむしろ四国方言に近いと考えられることを示した。

 最後に,本論文のまとめと今後の展望について述べた。本論文では淡路方言を総合的に記述するとともに,淡路方言の系統についても考察した。淡路方言のこれまであまり知られていなかった特徴を明らかにするとともに,系統関係についても,これまで近畿方言に分類されてきた通説には修正が必要であることを主張した。