本論文は、1920年代~60年代に、さまざまな「生活改善運動」で呼びかけられた改善策の普及および変遷を論じる。この時期の日本の「生活」は、「洋風」のものや科学知識の導入・定着や都市化・工業化の影響を受けて大きく変化した。政府や諸官庁の外郭団体は国民生活の科学化・合理化を目指して官製運動の中で幾度も生活の改善を働きかけており、本論文ではこれらの試みを生活改善運動とする。1~3章および8章では牛乳飲用の推進と胚芽米食の普及に努めた消費組合(戦後は生活協同組合)をとりあげ、4章では軍服類似のカーキ色服を広めようとした陸軍の外郭団体被服協会の活動にふれ、5章では諸農村での労働着の改善が図られた結果1930年代前半にモンペに似た下衣の普及がみられた点を指摘した。6章では、4・5章で述べた運動の結果、日中戦争を機に被服協会の意図を超えてカーキ色服が流行したうえ、非常時の服として都市でもモンペが流行する過程を示した。各章の構成は、以下となる。

序章

1章 日本における消費組合の定着―家庭購買組合を事例として―

2章 消費組合における家庭会・婦人会の組織化と変容

3章 日本婦人団体連盟による「白米食廃止運動」

4章 初期被服協会の活動

5章 農村生活改善による改良野良着の普及とモンペ

6章 都市へ入るモンペ

7章 職場での新生活運動

8章 高度経済成長と消費生活の変化

終章

 生活改善運動の研究は、住宅改善の研究や文部省の外郭団体生活改善同盟会に関する研究から始まったが、本論文は、衣と食の分野を検討の中心に据え、従来、「生活改善運動」研究ではとりあげられてこなかった団体をとりあげている。そして団体そのものではなく、牛乳飲用、胚芽米・七分搗き米食普及の取り組み、制服の色や野良着の形を改善する試みなど、個々の生活改善策を検討の対象としたことによって、戦前・戦中・戦後の生活改善運動の連続する面と連続しない面を具体的にとらえることが可能となった。

消費組合の食生活の改善(1~3章)では、小売業者としては規模が小さく研究史上ではあまり取り上げられてこなかった消費組合を対象とした。消費組合は、制度としては明治時代から知られていたものの、実際には物価高騰期には都市部の知識人によって幾度も結成され、物価下落時には解散することを繰り返していた。消費組合は1920年代に、衛生的で栄養があり健康に良い商品を適正な価格で売り、組合員家庭の生活を改善していくと宣言したことによって、はじめて存続することができるようになった。当時の消費組合は、都市新中間層を主な組合員としており、特に家庭会・婦人会という形で主婦を組織化した。都市新中間層はもとより生活改善運動の担い手とみなされてきたが、本論文ではこの層がより具体的に生活改善運動に関わった経緯が明らかになった。消費組合は、生活改善を全面に出してこれらの層を取り込んだのではなく、まず故郷を離れ新たな生活スタイルを模索していた女性たちのコミュニティづくりに力を入れ、一定の絆を形成したのちに、生活の改善を呼びかけていた。このような仲間意識の醸成は生活改善の実践には欠かせず、第7章の職場での新生活運動でも必要となった手法であった。

1930年代に入ると、前述の生活改善同盟会をはじめ20年代からこの運動を始めた組織は活動を停滞させ、一見、生活改善運動全体が低調になるようにみえる。しかし、消費組合や陸軍の外郭団体が衣と食の生活改善へと参入したことで、1940年代へとつながる生活改善策の実践が続けられ、運動は継続したといえる。なかでも、陸軍の取り組む衣生活改善と農村での野良着改良は、直接、戦時期の国民服制定とモンペ普及へとつながった。

まず、陸軍軍服の資源涵養のため、国民全体の衣生活の改善をしようとした被服協会は1929年にカーキ色の服を普及させる運動を始めた。この運動は当初反軍感情が根強く困難を極め、やむを得ず一般の洋服ではなく男子学生の制服をカーキ色にすることから始められた。次に、1930年代初頭、『家の光』『婦人之友』をはじめとする諸雑誌は女性の野良着の改善を提唱し、女性にズボンに似た、二股に分かれた下衣を着せようとした。この形の下衣を見慣れない地域では改善はとりわけ難しく、村・字単位で制服のように女性たちが一斉にこの下衣を穿くところから、実践が始まった。また、この下衣が穿かれていた地域では、以前は老若男女を問わず穿く勤労用・防寒用であったこの下衣の意味は、農山漁村更生運動・国民更生運動など様々な官製運動の中で女性たちがこの形の野良着を穿くことで女性の勤労用へと一本化した。日中戦争以降、女性の「勤労」の象徴となった下衣は「モンペ」という名称へと徐々に統一され、都市の勤労奉仕・防空演習で必須となった。一方、日中戦争勃発以降、カーキ色が被服協会の思惑以上に流行し、カーキ色の流行がかえって軍服資源を消費すると懸念した同会は、多様な服をカーキ色に染めるよりは良いと国民服の制定を図った。

第二次世界大戦後の活動である7章と8章では、はじめて「生活」を冠した新生活運動と、「生活」を冠せず、戦前からの改善策が続けて勧められた事例である牛乳飲用の普及をそれぞれとりあげた。新生活運動の場合は、政府の新生活運動協会をとりあげた。同会が職場で取り組んだのは主に、勤労青少年サークル育成と中小企業の職場環境の改善である。勤労青少年サークルの育成は、あまりに学習活動に目的を絞りすぎたために失敗に終わったが、中小企業の運動は職場小集団活動と同一視されたために、一定程度広まった。次に、コープこうべは戦前から家庭会・婦人会をつくって生活改善に取り組み、牛乳飲用もその一環で勧められていた。コープこうべ全体の売上げに占める牛乳売上げの割合は低いものの、同生協の組織拡大には牛乳が欠かせなかった。組合員家庭には、戦前と変わらず、子供の栄養面で良いと牛乳が勧められた。しかし、牛乳の宣伝の中には「生活」という言葉は出てこない。こうべの家庭会・婦人会活動も1960年代には活動を終え、ここに1920年代から始まった一定の形式の「生活改善運動」は終焉を迎えることとなる。

 本論文では、第一に、一般に生活改善運動が停滞していたように思われた1930年代に、国民生活を総力戦体制に即応させようとする軍の論理、不況下で新たな需要を喚起しようとする企業の論理が入ったことによって、実は運動は活発化していたことを示した。従来、戦前期の生活改善運動は消費節約の側面が強いと言われてきたが、消費組合を含め営利団体や企業が参入していくことから、当時の生活改善運動にも消費促進の機能が備わっていたことが明らかになった。第二に、生活改善策の変遷を長期に追ったことによって、たとえ同じ改善策を行っているようにみえても時代によって意味づけが容易に変化することを示した。たとえば、当初は栄養面から勧められた胚芽米・七分搗き米主食は、戦時期には専ら消費節約として推進された。戦後は、栄養面から胚芽米など白米以外の主食が勧められるが、これらは生活改善運動の一環とはみなされなくなっていく。また、農村女性が穿き出した当初、動きやすい合理的な服装であったはずのモンペに似た下衣は、戦時期に都市に入る時には「勤労」の象徴となり、合理性とは別の論理で普及が進んだ。戦後は、再び合理性の下、農村女性の下衣としてモンペが実態としても名称としても定着した。