本稿は,現代英語母語話者が,多義的な前置詞である by をいま彼らが使っているようにして使用できているのは,by について一体何を知っているからなのだろうか,という問を立てる。そしてこの問に対して,by 単体がどのような意味を持っているかを知っているからではなく,by をどのような文脈でどのような表現と一緒に使うとどのような内容が伝達できるのかを知っているからだ,と答える。

 第 1 章で見るように,従来,英語前置詞の多義研究では,前置詞単体に複数の〈意味〉があり,その〈意味〉を知っていることによって当該前置詞の〈使用〉が生まれてくるというモデル—意味の「水源地モデル」—が暗黙のうちに採用されていた。これに対し本稿は,話者は前置詞の〈使用〉を知っている(つまり,自分が触れた言語の中で,その前置詞がどのように使われていたかを覚えている)からこそ,自分もその前置詞を〈使用〉できるのだと論じる。すると前置詞単体の〈意味〉とは,自分が触れたことのある複数の〈使用〉から抽出してもしなくてもよい知識,つまり当該前置詞を適切に〈使用〉するのに特に必要のない知識だということになる。また,どの程度抽象的な〈意味〉を抽出するかという点も,人によって違ってよい。意味の「水源地モデル」に対して,意味の「使用基盤モデル」を採用するということである。

 従来の認知言語学的研究において,前置詞単体の〈意味〉のカテゴリー化とされていたものが,本稿では前置詞の〈使用〉のカテゴリー化となる。つまり,似ているからという理由でセットにされ,束として記憶されるのは,前置詞単体の〈意味〉ではなく,当該前置詞の〈使用〉だと考えるのである。これは,多義論から多使用論へのパラダイムシフトを意味する。

 その具体的な在り方を,本稿は前置詞 by を例にとって示す。第 2 章から第 5 章前半にかけて,by の様々な用法を細かく記述する。これにより,by のある用法 A から別の用法 B の振る舞いが正確に予測されることが非常に少ないことが分かる。用法 A を知っているけれども用法B を知らない人が,用法 A と用法 B のつながりを教えられても,それによって用法 B を正しく使えるようになることはないのだ。by の用法 B を,周りの英語母語話者が使っているようにして使うためには,結局のところ,用法 B の細かい振る舞いを記憶することが必要なのである。

 より具体的には,第 2 章では,He was reading a comic book by the time his mother came back. にあらわれるスキーマ的な by [TIME] 用法と,その事例と見なせる by now について論じる。by [TIME] は,「時間軸上で [TIME] よりも前の何らかの時点からスタートした心的走査の終点としての [TIME] において,by [TIME] の修飾する動詞句が表す状態(より正確には,状態性動詞句が指示する状態,または非状態性動詞句が含意する結果状態)が成立している」ということを述べるための形式である。この by [TIME] は,(i) センテンス内ないしディスコース内のby [TIME] 以外の箇所でも時間軸に沿った(過去側から未来側への)心的走査が行われており,かつ (ii) by [TIME] が修飾する動詞句が,変化の結果状態を指示していると解釈できる状態性動詞句であるような環境(即ち言語的コンテクスト)で用いられるのが,プロトタイプ的な用法である。by now は,by [TIME] の一つの事例と見なせるものの,その意味と用法には〈長時間経過〉,〈可能性増加〉,〈話し手が発話時をどのような時点として認識しているか〉という要素が関与し,by [TIME] の [TIME] スロットに now を当てはめるだけでは予測できない振る舞いを示す。従って by now の使用は by [TIME] と now の合成操作によってではなく,by now 自体の使い方を知っている(覚えている)ことによって可能になっていると考えられる。さらに,英語話者は know … by now や should know … by now というフレーズ,さらに極端な場合には I … always … You should know that by now. という語り方まで,「よくある言い回し」として記憶している可能性もある。

 第 3 章では,stand by the window にあらわれる〈空間的近接性〉の用法と,pass by the house にあらわれる〈過ぎ去り〉用法,そして stop by and talk to him にあらわれる〈立ち寄り〉用法を記述する。〈空間的近接性〉に関しては,by と near の実例の質・量両面の比較を通じて,話者は by 単体の意味を「by の表わす空間的近接性はこのようなものであって,near の表わす空間的近接性とはこのように異なる」という抽象的な形で記憶しているのではないことを論じる。そうではなく,by the window や stand by などの高頻度のフレーズを記憶し,これを類推の基盤として利用している(たとえば window と似ていると感じられるものには by を使う)のである。〈過ぎ去り〉用法については,移動物と参照物が空間的に近接していることが要求されない(e.g. pass by in the distance)など,〈空間的近接性〉用法の by と移動動詞を組み合わせるだけでは予測されない振る舞いが見られることを指摘し,「〈過ぎ去り〉の [V by (NP)] 構文」という独立した知識を想定する必要があることを論じる。また,〈立ち寄り〉を表わす by は,意味の面でも,共起する動詞選択の面でも,〈過ぎ去り〉を表わす by と大きく異なる。さらに,〈立ち寄り〉用法の内部を見ても,come by, stop by, drop by, will be by などの個々の表現に固有の振る舞いが見られる。従って母語話者の知識は「〈立ち寄り〉の by」という知識よりもずっと細かく具体的なフレーズの知識から構成されていると考えるべきである。

 第 4 章と第 5 章前半も同様の論理を辿る。実例を丁寧に記述すれば,抽象的な一般化からは予測不可能な振る舞いが多く見られる。この観察事実をもとに,話者が持っている知識は by 単体の抽象的な意味の知識ではなく,個別具体的なフレーズの知識(使用の知識)であると主張する。第 4 章では,位置コントロール用法(e.g. catch him by the arm), 連結用法(e.g. link him to the tree by a rope), 経路用法(e.g. get out by the back door), 乗り物用法(e.g. go there by bus), メッセンジャー用法(e.g. send it to him by messenger)という五つの用法を対象とする。第 5 章の前半では,差分用法(e.g. outlive him by three years),単位用法(e.g. get paid by the hour),N by N 構文(e.g. step by step),乗除用法(e.g. multiply four by eight),寸法用法(e.g. an eight-by-ten photograph)という五つの用法を対象とする。

 ただし,使用基盤モデル(およびそれに基づく多使用論)を正当化するためには,このモデルが言語の革新的な側面とも矛盾しないことが必要である。どの言語の話者も,標準的な言語使用や高頻度の表現から外れた目新しい表現を,聞いたり使ったりすることがある。そこで第 5 章の後半では,N by AN 構文という,文学先品では時に用いられるが未だ完全には定着していない表現が,N by N 構文とのつながりを理解しているからこそ使用できる構文であるということを論じる。N by AN 構文は,N by の二語によって読み手に N by N 構文を予測させておいて,その予測を裏切って A を挟むことにより,読み手が A をインパクトを伴った形で受け取るように仕向ける。N by N 構文から N by AN 構文に拡張することで,予測の裏切りと描写性の高まりが生じ,これが文学作品などにある種の味わいをもたらすのである。この効果は書き手と読み手の両者が N by N 構文の知識を持っているからこそ生まれる効果である。また,拡張後の N by AN 構文があまりにも英語の他の表現からずれ過ぎていて英語らしく感じられないようでは,N by AN 構文は「文学作品においては一定の頻度で用いられる」というステータスすら得られないはずだが,実際には N by AN 構文と形式面で類似している表現が英語には複数あり—たとえば again and Adv. again 構文,X and only X 構文,さらには同族目的語構文—これらが共謀して N by AN 構文に英語らしさを与えているものと思われる。そして話者がこうした複数の構文の知識を持っているという想定は,まさに使用基盤モデルの想定そのものである。以上のように,英語として認められうる新奇表現は,拡張前の構文に関する知識と,拡張後の構文に似ていると感じられる構文に関する知識があるからこそ生じるのだと考えれば,使用基盤モデルは,聞き慣れない新しい表現を生み出していく話者の創造的な側面も,矛盾せず説明できるのである。

 第 6 章はまとめ・結語である。意味を知っているとは使用を知っていることであるという意味観に基づいた多義論—すなわち多使用論—が,研究プログラムとして重要な意義を持つことを確認する。