本論文は、アンテベラム期のアメリカ合衆国において、反カトリシズムを背景としてプロテスタントが取り交わした、信教の自由をめぐる議論についての研究である。この時代の反カトリシズムは主にネイティヴィズムを助長したイデオロギーとして研究されてきたが、本論文は反カトリシズムがプロテスタントに信教の自由について考察することを促し、信教の自由理解に変化をもたらしたという面に着目する。

 序章では、本論文の研究史上の位置づけを示すとともに、議論全体の枠組みを成すいくつかの認識を整理した。アンテベラム期のプロテスタントは、一方では合衆国憲法修正第1条に表明された信教の自由の理念を強く支持し、もう一方ではプロテスタンティズムは他の宗教に優れた真理であり、合衆国の自由を支える特別な宗教だと信じるというジレンマを抱えていた。このジレンマは彼らの反カトリシズムに影響を与えており、彼らは移民によって増加するカトリックを受容するか排斥するかというような二者択一に陥るのではなく、プロテスタント信仰と調和的な信教の自由の理解を育てることによって、自由を旗印にしたカトリックとの対抗を進めた。こうしたことが可能だったのは、信教の自由がそもそも多義的なものであり、潜在的な矛盾を孕んだ複数の意味をその中に抱え込んでいたためである。以上の認識を前提にして、本論文の5つの章では、反カトリシズムを背景とした信教の自由についての個別の議論を取り上げ、それぞれの場で信教の自由がどのように語られ、機能し、その意味を変化させたのかを検討した。

第1章では、1830年代のニューヨーク市で活動した3人の反カトリック主義者、サミュエル・F・B・モース、ウィリアム・C・ブラウンリー、サミュエル・B・スミスの活動と主張を取り上げ、それぞれを政治的、宗教的、扇情的反カトリシズムとして特徴と差異を明らかにした。政治的反カトリシズムは、カトリック教会を宗教的なだけではなく政治的な組織でもあると見て、そのうちの政治的側面のみを批判、攻撃しようとするものである。対する宗教的反カトリシズムは、本来であれば宗教的活動のみに従事するべきカトリック教会が政治的側面をも持つのは、カトリック教会が真のキリスト教を歪めているためであるとし、カトリック教会の宗教的側面こそを主要な批判の対象とした。前者はネイティヴィズムと結びついた政治運動へ、後者はカトリックをプロテスタントへ改宗させるための伝道活動へと組織化されていったが、この区別はアンテベラム期のプロテスタントがカトリックの信教の自由を否定せずにそれでもなお、カトリックに対する攻撃や実質的排斥を行おうとしたために必要とされたものだった。政治的反カトリシズムと宗教的反カトリシズムの分離は、宗教改革以来プロテスタントが保持してきた反カトリシズムを信教の自由が制度化された合衆国の環境に適応させた、反カトリシズムのアメリカ化だったといえる。一方、扇情的反カトリシズムは虚実を織り交ぜたカトリック教会の秘密の「暴露」を行い、プロテスタントの間にカトリックへの偏見と嫌悪を煽った。扇情的反カトリシズムは他の2つの反カトリシズムと合流して大きな影響力を持ったが、本章では反カトリック・ビジネス従事者たちの活動がその影響力拡大を支えたことを指摘した。

 第2章では1840年代から1850年代にかけて、カトリックとプロテスタントの衝突の最前線となった学校問題と教会財産問題について検討し、双方が自らの立場を信教の自由やより一般的な自由という言葉によって擁護していたことを示した。学校問題とは、公立学校のプロテスタント的な教育に対するカトリックの不満を発端とした諸問題を、教会財産問題とは、カトリック教会司教と一般信徒評議会の間の財産管理権争いに始まった、宗教法人法の規定をめぐる諸問題を指す。カトリック教会側は、カトリック子女が教会の教えに基づいた教育を受けること、また、司教の下に一元化されたカトリック教会独自の財産管理方法に政府が干渉しないことがカトリックの信教の自由を守ることだと訴えた。しかしプロテスタント側は、学校問題や教会財産問題におけるカトリック教会の動きを合衆国の自由を脅かす政治的活動と認定して信教の自由の問題とは捉えず、全ての子供が聖書のみに基づく公立学校の教育を受けること、また、カトリック教会にもプロテスタント諸教会同様の一般信徒評議会による財産管理を義務づけることが合衆国の自由を守ることだと主張した。彼らは合衆国政府が信教の自由の脅威となると考えるよりは、カトリック教会による自由の破壊から人々を守る救済者となることを期待した。

 本論文第3章、第4章、第5章では、アンテベラム期の宗教的反カトリシズムを担った代表的団体、内外キリスト教連合(the American and Foreign Christian Union)の組織的発展と、1853年から1854年にかけてAFCUが率いた信教の自由を求める運動について検討し、プロテスタンティズムを広めることと、信教の自由を普及させることというAFCUが掲げた2つの目標の間の潜在的矛盾がどのように調停されたのか、また、奴隷制やヨーロッパでの革命が惹起した同時代の自由についての議論が、AFCUの信教の自由理解とどのように交錯したのかに着目した。

 第3章では、1840年代前半に組織的活動を充実させていったAFCUの3つの前身団体の誕生の経緯と活動をまとめ、AFCUに引き継がれていったその信教の自由の理解を整理した。ヨーロッパのカトリックのプロテスタントへの改宗を目指した海外福音協会にとって、信教の自由は主に政府による宗教統制からの解放を意味して使用された。イタリアの信教の自由の実現を目指したキリスト教連盟では、全ての人が私的判断のみに基づいて信仰することという、内面的で普遍的な権利としての見方が強調された。一方、合衆国内を活動地としたアメリカプロテスタント協会の信教の自由に対する取り組みは当初限定的だった。3団体と信教の自由との関わりはそれぞれ異なっていたが、キリストがもたらした自由が、宗教改革を経てカトリック教会の軛から解き放たれ世界に広まっていくという、反カトリック的、進歩主義的歴史理解は3団体に共有され、信教の自由の普及と世界のプロテスタント化は両立すると考えられた。

 第4章では、1840年代後半に環大西洋世界を舞台に発生した3つの事件とAFCUに対するその影響を扱った。1846年、世界のプロテスタントの合同を目指して開催された福音主義連盟形成のための会議は、奴隷制をめぐる英米対立のために紛糾し、合衆国支部は活動停止に陥った。ほぼ時期を同じくして、アメリカプロテスタント協会は、プロテスタント信仰のために故郷を離れたポルトガル領マデイラの人々の合衆国への移民支援に取り組んだ。さらに1848年、ヨーロッパで勃発した革命はイタリアへ波及し、教皇がローマを脱出してローマ共和国が誕生するも、その失敗は翌年には明らかとなった。これら3つの事件を通じて、AFCU関係者は信教の自由を合衆国の国家的アイデンティティとしてより一層強く認識するとともに、信教の自由を世界に広める必要を再確認した。しかしながら、福音主義連盟合衆国支部形成失敗を経て誕生したAFCUは奴隷制問題に対して沈黙し、奴隷制による自由の制限を容認しながら信教の自由を普遍的な権利として世界に広めようとするという、矛盾に満ちた道を歩むことになった。

 第5章では、1849年のAFCUの誕生とその基本的な活動、奴隷制への態度をまとめるとともに、1853年から1854年の信教の自由を求める運動の背景と展開、その後のAFCUを追いかけ、運動中及びその前後に取り交わされた信教の自由についての議論を分析した。普段のAFCUは国内外双方においてカトリックをプロテスタントに改宗させるための伝道団体として活動し、南北のプロテスタントを分裂させかねない奴隷制問題からは距離を置いた。

 信教の自由を求める運動の発端は、AFCUが運営したローマのプロテスタント礼拝所閉鎖と、トスカーナのプロテスタント迫害事件(マディアイ事件)だった。イタリアを舞台にした2つの事件を背景として、1853年から1854年のAFCUは信教の自由の世界的普及のために合衆国政府が積極的に力をふるい、国内で実現した信教の自由を国外にまで広めるよう、世論喚起のための集会を開催し、政府への組織的な請願に協力した。運動には批判も投げかけられたが、参加者たちは信教の自由がプロテスタントだけを利する反カトリック的なものではなく、あらゆる宗教を平等に扱う普遍的なものだとして反論し、実際運動にはユダヤ教徒が組織的に加わった。この運動は、カトリックやユダヤ教徒がプロテスタントとともに併存する宗教多元的な状況を強く肯定するとともに、信教の自由を実現する主体として合衆国政府の役割りを強調する新しさを備えていたが、プロテスタントを特別視するプロテスタントの運動としての限界、奴隷の自由の剥奪には目を瞑ることによって自由の普遍性を暗に否定せざるを得なかったという限界を伴っており、AFCUが非プロテスタントとも連携して合衆国政府を動かし、世界に向けて信教の自由を広めるという運動の形は、1858年には崩壊していた。

 終章では、アンテベラム期のAFCUに見られた信教の自由理解の変化が、その後の歴史的変化の中でどのような意味を持ったのか、その通時的意義を簡単に論じるとともに、信教の自由を普遍の理念としてではなく、特定の時代と場所の文脈に依存して形成される流動的で政治的なものとして捉えることの重要性を指摘した。