アリストテレスの『自然学』第3巻第4巻は、運動論、無限論、場所論、空虚論、時間論で構成される。これら一連の議論は、運動変化一般と、空間的延長および時間的延長を扱う議論だと言えるだろう。本論文は運動論が無限論以降の議論における運動モデルを提供していると措定し、この観点から『自然学』第3巻第4巻の統一的読解を目論む。本論文の主要な目的は次の2つである。第一の目的は、運動論から時間論までの各論の有機的関連を明確にすることである。第二の目的は、アリストテレスにおける空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけを確認し、『自然学』第3巻第4巻の自然哲学上の基本的態度を明らかにすることである。
第1章は『自然学』第3巻第1~3章の運動論を扱い、運動の定義の内実を検討する。アリストテレスは運動を「可能的にあるものの、そのようなものとしてのエンテレケイア」と定義する。この定義に関しては、この定義が静的な事態ではなく、ものが運動しているという事態を指示できているのか、また、「エンテレケイア」自体が運動を指示しているのではないか、といった点で論争が行われてきた。本論はこの2つの問題点を回避できる理解を、定義中の「そのようなものとしての」の解釈を通じて模索した。その結果、「そのようなものとしての」には、青銅が可能的に彫像のみであり、剣や壺といった他の可能性を除外する役目が与えられており、運動の定義は「可能的にXである対象の、その対象が可能的にXであるものとしての、現実態」と再定式化できることが明らかとなった。そして、運動の定義に即した運動変化モデルは、運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態という3つの項で構成されることになる。
第2章は、運動論に続く『自然学』第3巻第4~8章の無限論を扱う。無限論解釈における近年の論争のひとつは『自然学』第3章第6章以降で論じられる分割無限が、通常の理解通り可能的にのみ存在するのか、それとも現実的にも存在することが認められるのか、というものである。この論争に対する準備として、『自然学』第3章第6~8章は『自然学』第3巻第4、5章からの自然哲学的文脈に置かれており、それゆえ第6章以降で中心的に論じられる分割無限は思惟的対象や数学的対象ではなく、物体に依存した対象であることを確認した。続いて、「無限が可能的にも現実的にも存在する」と主張する『自然学』第3章第6章206b12-14の扱いと、この主張を導く議論構造を整理した。その結果、206b12-14における無限とは分割無限ではなく、限りなく繰り返しうる長さの分割過程を意味し、分割無限は可能的にのみ存在することを証明した。さらに、『自然学』第3章第6章で分割無限が質料であるという主張を検討し、この主張は質料形相論を量のカテゴリーに適用し、分割無限が一定の大きさを構成する部分であるという洞察から生じたことを明らかにした。このように『自然学』の無限論を理解すれば、無限論は物体が持つ大きさ、あるいは空間的延長の連続性を確保すると同時に、空間的延長の連続性を分割無限の概念によって確保することで、運動の定義における可能態と現実態の2つの状態の間に連続性を確立した議論として位置づけられる。
第3章は、『自然学』第4巻第1~5章の場所論を扱う。アリストテレスが場所論で導いた場所の定義は「包む物体の不動の限界」というものであるが、この定義にはテオフラストスの時代より問題が指摘されてきた。特に争点となってきたのは、「包む物体」の指示対象と場所の不動性である。この問題の解決のために提案されてきた解釈は、四(五)元素説や同心天球説に基づいたアリストテレスの宇宙観を援用することによって場所の不動性を確保しようとする傾向にあった。このような解釈の傾向に対し、本論は彼独自の宇宙観を必ずしも前提とせず、かつ移動の説明に必要な2つの場所を区別できるような解釈を模索した。まず、彼にとって場所は必ずある物体の場所である。それゆえ、場所はその物体への存在論的依存関係を有する。ただし、定義である「包む物体の限界」が示しているように、場所はその物体を包む物体にも存在論的依存関係を有する。それゆえ、場所の不動性は包む物体に属する限界の不動性であり、さらに、その限界の不動性とは包む物体の不動性に他ならない。そして、包む物体の不動性は厳密な意味に捉えるべきではなく、場所内部の物体の移動の前後において不動であるという、弱い意味での不動性として理解しうることを示した。
第4章は『自然学』第4巻第6~9章の空虚論を分析対象とする。この空虚論では空虚は存在しないという結論が導かれるが、本章はこの結論を導いたアリストテレスの根本的な自然哲学的態度の明確化を試みた。しばしば、彼が空虚の非存在を導出するための主要な論拠は、空虚の存在が「物体の速度は媒体の密度に反比例する」という彼独自の力学的公理と対立することにあると解されることがある。しかし、該当する『自然学』第4巻第8章215a24以下の論拠はこのような力学的公理よりも「物体の速度は媒体の密度に依存する」という現象あるいは感覚的パイノメナにあり、そもそも215a24以下は、運動一般が成立するための必要条件として古代原子論が要請した空虚の非存在の証明ではあっても、空虚の非存在を完全に否定するための決定的議論ではない。むしろ、決定的議論と見なすべきは空虚そのものの存在を検討する『自然学』第4巻第8章215a24-216a11である。本論はこの議論の再構成を行い、次の2つの自然哲学的態度を析出した。第一に、物体を存在の基盤に据えること、第二に、「同じところに実体性を持つ対象が2つ以上重なって存在することはない」という原理である。これらの自然哲学的態度が、空虚の存在を否定するアリストテレスの主要な論拠である。
第5章は『自然学』第4巻第10~14章の時間論を扱う。アリストテレスは時間を「前後に関する運動の数」と定義する。しかし、時間論冒頭で挙げられる「過去は存在しない、未来は存在しない、現在は時間の部分ではない、ゆえに時間は存在しない」というパラドックスに、彼は明確な解決法をテキストで提示していない。この時間のパラドックスを解決するために、本論は時間の定義が有する存在論的含意を析出し、さらに本論第1章で扱った運動の定義に着目した。彼にとって時間は、その定義中の「運動の数」が示しているように、運動から独立して存在するものではなく、運動に依拠して存在するものである。しかし、時間の存在を運動に基礎づけたとしても、直ちに時間のパラドックスに解決がもたらされるわけではない。なぜなら、時間のパラドックスは「過去の運動は存在しない、未来の運動は存在しない、ゆえに運動は存在しない」という形に改めることができるからである。ただし、現在の同一性と差異を説明するために、アリストテレスは、現在の同一性を運動体の同一性に、現在の差異を運動体の状態の差異に対応付けることによって説明する。そして、運動体を運動の定義に即して捉えなおせば、この運動体は実際の状態と運動が完成する状態の2つの状態を併せ持つ。これら2つの運動体の状態に現在が対応するならば、現在には可能的な現在と現実的な現在があり、2つの現在の間に連続的な時間が存する。
以上、第1章から第5章における検討から、『自然学』第3巻第4巻における空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけについて以下のことが明らかになった。運動の定義は運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態の3つの項で構成されているが、この項の中に空間的延長や時間的延長の概念は含まれていない。ただし、無限論以降の考察において、アリストテレスは両者を運動や物体から独立して存在するようなある種の実体として扱おうとはしていない。むしろ、運動概念や運動する物体を考察の基盤におき、それぞれの存在論的位置づけを考察していることが、彼の時空論の特色である。また、『自然学』第3巻第4巻は、まず運動論において運動を可能態・現実態の概念で形式的に定義し、その定義と既存の物体観を元に無限論意向で空間的延長と時間的延長に存在論的位置づけを与え、さらに両者の解明を通じて運動の一般的理解を完成させるという回帰的な構造を有する。