本論文は、芥川龍之介の前期作品研究を通じて、近代文学の可能性を問い直す試みである。芥川龍之介の作品はしばしば日本の近代文学の典型と目され、また同時に近代文学の典型から外れた浅薄な作品とも評される、両義的な存在である。本論文では、浅薄と見なされてきた特徴に注目し、そうした性質の持つ近代文学の可能性への批評性を可能な限り抽出することを試みる。序章では、このような本論文の問題意識とその為の方法論について記述した。

 第一章では、芥川の代表作とされる「羅生門」(大4)、「鼻」(大5)を中心に検討した。芥川龍之介の初期作品では、語り手が可視化され、中心となる話題が語り手によって反復され、作品の完結性が強調される。しかし、作品で中心化される問題は明らかに示されるにもかかわらず、答を決定し難いというのもこれらの作品の大きな特徴である。本章では、こうした空白を、解釈によって埋めるのではなく、問題による中心化がどのような機能を果たしているかを改めて検討し、そこにある芥川初期作品の固有の問題を明らかにする。「羅生門」「鼻」の語りは「饑死をするか盗人になるか」「この鼻によつて傷けられる自尊心」といった問題を、積極的に作品を中心化するものとして強調するが、語り手はその問題が有効に機能しなくなる時点までを見届けた上で、あたかも何かが完結したかのように作品を閉じる。こうした作為的な語り手の可視化は、意図の下に出来事を整理することの不可能性をむしろ可視化するのであり、完結性の装いは、反語的な修辞として機能する。また、同時代に発表された小編「酒虫」(大5)では、まさに主題的な整理が不可能であることこそが直接的に述べられ、芥川がこうした問題を意識していたことが見て取れる。

 第二章では、芥川の『中央公論』デビュー作「手巾」(大5)について検討した。本作は、武士道の批判という主題が明確だと評価される一方で、作家自身の問題を棚上げした、作意が露骨な浅い作品であると批判されてきた。しかし、本作が参照する小宮豊隆と小山内薫の間の論争や同時代の文芸批評を確認すれば、芥川が批判されるのと同型の論理で排撃されていたバーナード・ショーの名が本作にさりげなく織り込まれていることから、長谷川先生を通じて問われているのがまさに同時代の文学パラダイムで問題になっていた「作意の露骨さ」であることが分かる。「手巾」作中には、ショーの名の他にも「型」や「臭味」といった、芥川的作風を否定するはずの言葉がキーワードとして散りばめられており、本作は、芥川に向けられた批判自体を扱った作品と言える。作中で鍵となるストリントベルクの「二重の演技」批判では、露骨な表現は「臭い」ものとして否定されるが、露骨さを避けて隠そうとすることもやはり、隠す作為によって「臭い」ものとされる。心を秘すことが表現の深さという価値を生む、という立場の小宮によって訳されたストリントベルクの文章が、まさにそうした小宮の考え方を否定する力を持つということがここでは暴かれている。長谷川先生への皮肉には、作者芥川に向けられてきた批判への皮肉が重なるのである。批判する側を安全地帯から引きずり降ろしつつ、自らも逃げ場の無い論理の空間を構築するのが「手巾」であったことを見れば、本作は従来言われてきたような作家の問題に関わらない安楽な作品などではなく、むしろ同時代が見過ごしてきた虚構一般のアポリアと向き合って行く新進作家のマニフェストだったことが明らかになる。

 第三章では、芥川が評価を高めていく「芋粥」(大5)「或日の大石内蔵之助」(大6)について検討した。デビュー期の芥川龍之介「羅生門」「鼻」への評価には、「小説」の本流としては認められないという留保がつきまとっていた。その鍵となるのが、「人間」、すなわち社会から疎外され、内面を持つに至る弱者を描けているかどうかという問題であった。これに続く芥川の「芋粥」「或日の大石内蔵之助」はまさに「人間」をキーワードとし、文壇に受け入れられる契機となった作品である。しかし、これらの作品にはむしろ「人間」という同時代的なパラダイムに対する批評性も内在していた。「芋粥」は、前半において語り手が顕在化して、主人公五位が弱者であるがゆえに持ち得た内面を「人間」として積極的に擁護する姿勢を見せるが、後半への展開において、その姿勢は顕著に後景化してゆく。それによって、「人間」という枠組の失効をパフォーマティヴに示す作品となっている。「或日の大石内蔵之助」では、まず逆境ゆえに証される「忠義」という価値観が主人公内蔵之助の内面において確認される。次いで「忠義」から漏れるものが「人間性」と位置付けられるが、内蔵之助は自己の内的な矛盾に気付かざるを得ない。これらの作品は、状況や規範によって疎外されるものを個人の内面において肯定し直す「人間」的な論理がどこかで空転せざるを得ない瞬間を描いたと言える。

 第四章は、芥川が自らに向けられた「新技巧派」という名称に言及した「南瓜」(大7)について検討した。「南瓜」は不真面目と見なされていた市兵衛が殺人を犯し、真面目だったと認められるに至る、というのが筋である。市兵衛には豊富に虚構性の表徴が与えられ、市兵衛は虚構性を徹底していくことによって真実や現実の位相へとその意味を反転させていく。この反転は、虚構を真実の上へ置くというよりは、虚構と真実を分ける枠組を内破させるものとして描かれている。また、真摯さの欠如をたびたび難じられ「新技巧派」と呼ばれていた作家芥川の問題が作中で重ねられることによって、この問題は物語世界内から物語世界外へと伝染してゆく。それは虚構に固有の重層的な仕掛けの追求であった。

 第五章では、「開化の殺人」(大7)について検討した。探偵は、ある種の知性のあり方であることが認められつつ、下等なものとして蔑まれてきたが、それは芥川へ向けられてきた批判と通じるものがある。「開化の殺人」は、「探偵小説」と銘打って発表されたが、探偵は登場せず、どのような探偵小説なのか明らかではない。近年初めて公開された本作の完成原稿の訂正の後について詳細に検討し、また、作中に織り込まれた演劇をめぐる表現や夏目漱石「彼岸過迄」との関わりを手がかりとして、一人称告白体の文体と演劇性の力学が葛藤する様相を分析した。そのことによって、告白という近代文学を強く規定する制度への批評性が本作の探偵小説性として認められることを指摘した。

 第六章では、「龍」(大8)について検討した。「龍」は芥川自らが「同じやうな作品ばかり書く」という「死に瀕している」時期に書いた作品だと回顧しており、マンネリズムの作品だと見られてきたが、作品を見ると、むしろ自覚的に過去の作品との類似が強調されている。自らの作風への自己言及的な意識の高い作品であり、単なるマンネリズムで片付けることは安易である。この観点から読めば、本作では、虚構が真実のように信じられるとき、虚構の提供者と受け手との間にコミュニケーションが成立しなくなる問題を描いていることが分かる。虚構は一方では、それが真実であるかのように思わせることを目的とするため、これは虚構一般に妥当するアポリアである。本作は、この問題を重層的な語りの構造の中へ埋め込み、これが語られる対象の問題であるばかりでなく、語る側においてこそ問題になるということを示す。こうした虚構という営みのある種の不可能性を、一つの虚構の中で表現しようとするとき、表現するということ自体がいかに変質するか。そうしたことと対峙する作品が「龍」であった。

 第七章では、これまで意味付け難い細部が多すぎるのが難点と評されてきた「疑惑」(大8)について検討した。聞き手である「実践倫理学」者にとって玄道の「狂人」「怪物」といった言葉がどのような意味を持ったかについて、当時の言説を踏まえて問い直せば、本作に隠されたもう一つの物語の層が明らかになる。本作の背景として教育勅語撤回風説事件、哲学館事件、南北朝正閏論、「謀叛論」講演、伊藤博文暗殺事件などを踏まえることによって、これまで単に意味不明とされてきた多くの細部は、いずれも政治的意味を示唆し、狂気が理智の虚構的なありようを照らし出すものとして読み直すことができる。抑圧したものが疑惑として増幅・回帰するという玄道の物語の力学は、聞き手の「私」にも伝染してゆき、さらには読者をも射程に入れたものとして描かれている。

 終章では、本論文で主に扱ってきたシニカルで理智的とされる作品群とは逆の評価を与えられてきた、「神聖な愚人」ものと呼ばれる作品群について検討した。これらの作品では、主人公の破滅をめぐって、それを無知で哀れなものと見做す視点と、それが主観的には救済であるという視点とが同時に描かれる。このモチーフの対立は、「羅生門」における、生の一貫した意味付けにこだわる語り手と、自らの従来の問題意識さえ忘れてしまう無知な主人公との対比以来のものである。芥川作品は、語り手の側にあった懐疑のモチーフの側を物語構造の上で反復することによって展開していったが、それは他方で「神聖な愚人」の可能性を抑圧し続けるものでもあり、そうした隠微な拮抗として芥川作品に潜在し続けたものであった。芥川文学における生の意味付けへの懐疑は、常に生の意味付けに辿り着きたいという憧憬を動力源とし、かえってそこから離れていったのだと見るならば、芥川文学がスタティックな意味付けを志向するものではなく、相反するベクトルの間で常に切実な振幅として運動し続けた秘密が理解できよう。こうした前期芥川文学の見通しを述べて、本論文の締めくくりとした。