本論文は外交・軍事政策の大転換の第一歩である、安政年間における開国対策の長崎「海軍」伝習を、幕府政治史の文脈から再検討を試みたものである。
長崎「海軍」伝習に関しては、近代海軍の嚆矢として、また幕末維新期を担う人材輩出の原点として古くから注目を集め、長年にわたって多様な研究が行われてきた。先行研究では、主にオランダ教師の報告書・日記に依拠し教官側の視点に偏っているか、あるいは勝海舟が日本海軍成立後に編纂した『海軍歴史』を無批判的に利用してきた傾向が強い。なお、これらの史料には伝習政策の主体である幕府内部の当時の議論が分かり難い限界がある。
このような問題意識を踏まえ、本論文では、幕府内部の議論が分かる新出史料やこれまで本格的に利用されなかった史料を積極的に用いることを心掛けた。主要な史料は次の通りである。海防掛目付方の意見書の草案を含む山梨県立文学館所蔵「乙骨耐軒文書」、海防掛勘定方の意見書草案が含まれる陽明文庫所蔵「葦名重次郎文書」、長崎奉行所から老中への伺書やその指示、時間割、伝習生の名簿および重点学習分野が記されている慶應義塾大学三田メディアセンター貴重書室所蔵「長崎伝習小記」と「長崎在勤中日記」、幕府内の評議書の写しの一部が残る東京大学史料編纂所蔵「勝海舟関係史料」などである。
本論文では、幕府を中心軸に据え置き、同時期の軍事改革のため新設された講武所・蕃書調所・軍艦操練所との関係性のなかで長崎「海軍」伝習を評価しながら、オランダ・幕府・諸藩・個人がそれぞれ長崎「海軍」伝習に抱いていた意図や思惑を明らかにしつつ、伝習の実態の再検討に迫る。
主な研究課題として、以下の四点が挙げられる。第一に、幕府人選と重点学習分野の指定、到着や帰府時期、時期ごとの学習内容の変化を分析する(第二章、第三章)。第二に、諸藩参加基準とその実態の考察を行う(第四章)。主な軸を幕府に据えた論文であるため、各藩の藩政に沿った検討ではないものの、可能な限り各藩から長崎「海軍」伝習への参加者・時期・修学分野などの実態を明らかにする。第三に、幕府伝習生と諸藩伝習生の伝習内容が異なっていたことを明らかにし、各種の史料から得た長崎「海軍」伝習の全体像を新たに提示する(第五章、第六章)。第四に、長崎奉行所に属した伝習掛地役人の伝習参加様態や関与を明らかにし、「直伝」のみならず「又伝」の意義と限界を描出する(第七章)。
以上の検討を通じ、長崎「海軍」伝習実施に抱いていた幕府と諸藩の思惑を中心にまとめると、次の通りである。
まず、幕府伝習生の人選や帰府指示および継続伝習依頼から窺える幕府の意図やその変化を提示する。第一次伝習の開始に向け、安政二年に行った伝習生の人選では、浦賀組・江川組・両鉄砲組からの派遣生が伝習生の大半を占めており、その学習内容も海上砲術のみならず、陸戦に備えた軍事技術を幅広く修得するよう指示されていた。このことから、長崎「海軍」伝習にかけていた、陸戦を主目的とする砲術系伝習の期待度の高さが窺える。安政二年派遣の伝習生のもう一つの特徴は、伝習途中に江戸に召還された者が七名も存在したことである。先行研究では見落とされてきた点であるが、伝習生の召還と講武所開設との密接な関係も明らかになった。安政三年の九名の派遣は講武所の開所や各組での呼び戻しによる欠員、そして箱館奉行所の新事業が契機となっていたことを指摘した。
第一次長崎伝習において講武所の指導役の養成の期待度が高く、伝習を受ける側も西洋砲術系の学習に集中する傾向があったが、第二次長崎伝習では、国際情勢の変化や危機感の高調により軍艦操縦系の人材を本格的に育成しようとする方向に政策を変えたものとみられる。その一面が人選で表れている。安政四年に行われた第二次伝習の人選では、第一次伝習時とは異なり、前もって、オランダ語や数学知識がある者を選ぶことを重視し、基礎がある人を軍艦操縦術分野に多く配置し、その帰還生を軍艦操練所の運用術を担う教授に任命した。つまり、第二次長崎伝習は、「海軍」教育の核となる人材の育成に本腰を入れつつ、なお江戸で開所されたものの教育体制が軌道に乗っていなかった軍艦操練所の教育を補う機能も果たす方向に転じたと指摘できよう。
次に、伝習参加制限の問題からみえる幕府と諸藩の考え方やその実態を提示する。
先行研究では申請をすればどの藩でも制限なく参加でき、また伝習内容についても幕府伝習生と諸藩伝習生の間に大きな差はなかったものと解釈してきた。しかし、本論文では、阿波藩・津藩・土佐藩・川越藩・鯖江藩の事例を中心に、諸藩の伝習参加申請について海防掛目付方や勘定方など幕府内部の見解、さらには現場を熟知していた長崎在勤目付永井尚志の意見を検討し、出願時期とその趣旨・名分・参加希望分野により、却下される場合もあったことを明らかにした。すなわち、幕府から修業を奨励していた西洋砲術習得のための参加であれば許可されやすかった。しかし、軍艦製造・航海術の伝習出願においては、国元の海防を目的とする場合、容易には許可されなかった。つまり、幕府伝習生と諸藩伝習生との間には厳然たる線引きが存在しており、幕府伝習生の学習を最優先する方針が貫かれたと言えよう。このように諸藩参加に一定程度制限を設けようとした意図には、新時代を担える幕臣人材の不足や、諸藩との確固たる大差をつけていない焦り感が根底にあったものであろう。
では、諸藩にとっての長崎「海軍」伝習とはどのよう意味をもつものであったのであろうか。
まず、書物収集や諸藩の動向、通詞経由の外国の情報などを入手する情報源として期待され、機能していたと言えよう。
次に、長崎伝習への参加には、藩間の面子や競争的な要素に左右される側面もあった。例えば、他藩が参加しているにもかかわらず長州藩が参加しなくては「外聞茂如何敷、第一御国体カ立不申候段」と、世間体や藩の面子が立たないことを理由に藩士の派遣を催促する文面や、「自分が習得した知識をみな独り占めし」近隣の藩士には教えようとしないと言及したオランダ商館医師であるブルックの記述からも、藩の間での張り合いの一面が窺える。
さらに、西洋式砲術の直伝先として期待された側面が大きかったと考えられる。幕府の西洋砲術の全面的洋式化の方針に歩調を合わせるためには、各地の師範に藩士を入門させるか師範を藩内に招聘し広めるやり方が一般的だったが、師範となる人材が不足していたため、藩独自の取り組みで翻訳書に頼ることが一般的だったとみられる。よって書籍に止まらず蘭人に直接習うことができた長崎「海軍」伝習参加は、幕府伝習生にとって講武所をはじめ浦賀・江川・鉄砲方等における技術向上の新局面提供に寄与したことと同じく、諸藩にとっても西洋砲術採用に向け軍事改革を図るうえで、最適の学習チャンスとして期待されていたと言えよう。
江戸幕府の従来の海防の基本方針は、異国船との全面的対置状況を避け、打ち払うことに重点が置かれていた。「海軍」伝習を依頼した安政二年においても、幕府の海防方針は依然として海上での戦いを想定しておらず、台場を中心とする陸上での防備・防禦に重点をおいていたと考えられる。後代の後付的な評価ではなく、当時の政治的な文脈や有司間の「海軍」の認識度から評価すれば、安政年間の長崎「海軍」伝習や江戸の軍艦操練所の創設による西洋式海軍の導入や全面的な移行を模索していたとみるには時期尚早であろう。幕府と諸藩を合わせ一元化した組織改革までは想定していなかったとみられるからである。とはいえ、その種がまかれた時期は長崎「海軍」伝習期とみえることから、「海防」から「海軍」への第一歩であったと評価できよう。また、長崎伝習以外は教育体制が整っておらず、蕃書調所は長崎伝習を準備教育や教材の翻訳で支え、講武所や軍艦操練所は長崎伝習での成果を前提に運営されていた側面を考えると、安政期における西洋軍事教育改革は、長崎「海軍」伝習を軸とし基盤が形成されていたと評価できよう。