本稿は古典満洲語(以下満洲語と呼ぶ)の属格標識 -iについて分析するものである。満洲語と同じく狭義のアルタイ諸言語(すなわち,チュルク,モンゴル,ツングースの三グループ)に属する他の主要な言語の属格よりも,一見して多機能に見える満洲語の属格標識 -iが「広義の所有関係」を表すとして説明できるものであるのか,単語と単語を繋ぐだけの,一般的に属格と言われるものとは全く別の何かなのか,あるいは,そのいずれとも異なるのか,という問題に対して,文献資料からわかる範囲で,しかし可能な限り合理的な回答を示す事を試みる。特に「広義の所有関係」では説明がつかない,いわゆる「同格の属格」を中心に検討する。
第1章では満洲語が如何なる言語であるかを確認し,17,18世紀に満洲語が置かれていた状況を概観すると共に,分析する資料とすべての格標識について重要事項を説明した。最初に満洲語の概要を述べ,次に,17,18世紀の歴史的背景,この時期に成立した文献資料について,満洲語の研究と関係のあるものを中心に説明した。さらに,順治7(1650)年序の24巻からなる満洲語訳『三国志演義』(ilan gurun -i bithe, 刊本,以下『満文三国志』)を資料とする事,『満文三国志』と同程度のコーパス規模を持ち,四書五経や仏典からの翻訳資料と異なり比較的自然な満洲語で書かれた翻訳小説,康煕47(1708年)序の満洲語訳『金瓶梅』(gin ping mei bithe, 刊本,以下『満文金瓶梅』)を必要に応じて参照する事を述べ,資料の特徴を説明した。最後に本稿の議論に関わる文法上の事項を述べた。属格標識を中心に満洲語の格標識について説明すると共に,名詞と形容詞が統語的な振る舞いの違いから区別できる事を述べた。
第2章では格標識 -iの形態と綴りに関する二つの問題を考察した。考察の対象は -iがniとも綴られる事と,具格と属格の両方に同じ形が用いられている事との二点である。
まず,-iがng で終わる語の後ではniと綴られる事に関して,満洲語には語中では綴りの上でngn とn の書き分けが行われており,n の前ではng を[ŋ]と発音出来たと考えられる事を述べた。その上で,ng の後で -iをniと綴る原因として二つの可能性が考えられる事を主張した。一つは,借用語の語幹末のng を,格標識 -iが続いた時に正しく[ŋ]と発音するために,ng -iを[ŋni]の様に発音する人為的な発音上の工夫が当時の音声言語で用いられる事があり,それが書き言葉にも採用されていた可能性である。もう一つは,実際に音声言語においてもng の後のniが異形態として存在していた可能性である。いずれにせよ,当時の音声言語で起きていた現象を反映した綴りである。また,割合としては僅かではあるが,「ng の後でのみ -iをniと綴る」という規則に対して例外になる綴りがある事から『満文三国志』が書かれた17世紀半ばの時期においてniが当時の音声言語において異形態として定着していたとは言い切れない事も指摘した。
次に,-iという格標識が具格と属格の両方に完全に同じ形で用いられているか否かという問題を扱い,格標識 -iが語幹から離して書かれる「分かち書き」の有無について分析した。これは従来の記述の中に,具格は必ず分かち書きされるというものがある事を受けての問題提起である。『満文三国志』中の用例を分析する事により,具格の -iでも分かち書きされない例が多々ある事,同じ語に続いた時に「具格標識が属格標識に比べて顕著に分かち書きされる」と言える程には傾向の差は見られない事を示した。以上の観察に基づき,属格標識と具格標識を分ける根拠は機能のみであると結論づけた。
第3章では格標識 -iの用法のうち一部のものが『満文三国志』の後半部分で減少している事を示した。従来,属格標識 -iが一部の名詞と名詞との間で使用されない事が漢語の影響である可能性は指摘されていたが,時代が下ると共に属格が有意に使用頻度を低下させている事は報告されていなかった。『満文三国志』の中で動詞未完了連体形に続く -iの分布が偏っている事と,『満文三国志』後半部分での -iの減少という状況が後の『満文金瓶梅』でも継続しているという事実は,部分的にしろ,『満文三国志』における -iの用法に時代差のある事を強く示唆するものである。
第4章では「属格主語」や「コピュラ動詞が音形を持たない場合」について,従来の記述が不十分であるという事を指摘した上で,「同格」を表すとされている属格標識 -iが,音形なしのコピュラ動詞で終わる従属節の「主語」を表すものであるという解釈を示した。満洲語は日本語とは異なり,「女である私達」を表す際に,men-i(私達の) hehe niyalma(女)のような,第一名詞句が定の属格名詞句である表現が可能である。本章ではこの第一名詞句が従属節の属格主語であると主張した。コピュラ動詞連体形の用法を分析する事により,コピュラ動詞に関する従来の記述に反してコピュラ動詞の未完了連体形がゼロ(音形なし)になり得る(むしろ通常はゼロである可能性が高い)事と,ゼロ形コピュラ動詞の主語も,それ以外の動詞の主語同様に属格主語になり得る事を示した。従って,満洲語の「第一名詞句が属格形になる同一指示の名詞(句)の連続」NP1 i -i + NP2 i(NP: 名詞句,-i: 属格標識,i : 同一指示)は名詞句「NP1 に属するNP2」ではなく,基底でコピュラ動詞終わりである従属節「NP1 がNP2 である(の)」と解釈する事が可能である。
第5章では,第4章の考えに従うと連体節の属格主語である「同格の属格」と解釈されうるもののうちnofi「~人(にん)」という語で終わる構造について考察し,それが,第4章で示した「同格の属格」とは別の構造である可能性について述べた。
第6章では第5章までの議論を纏めると共に,本研究の結果が示唆する満洲語の属格標識 -iの特徴について述べた。満洲語において,-i以外に生産性の高い(音形のある標識を用いた)連体修飾手段が欠けている事や,コピュラ動詞の未完了連体形が音形無しになる事などが原因で,-iは一見多機能に見える。しかし実は,(具格を別にした場合の)属格標識としての -iの本質は他のアルタイ諸言語の属格標識とあまり変わらない可能性が高い。また,具格の -iが属格の -iと同じ形をしている問題に関しては今回,結論を出すには至っていないが,一般的な属格の用法とは別に「同格の属格」という用法を認める必要が無い以上,属格の -iと具格の -iの機能を「句と句を繋ぐ形態素」等と一般化する事により一つの形態素として記述する妥当性は薄れたと言える。
以上,本論文では満洲語の格標識 -iについて,属格とされるものを中心に,今日まで満洲語学で明らかにされていない幾つかの問題を扱い,様々な角度から検討を行った。