本論文では、日本帝国が植民地台湾に導入した「美術」の制度と概念を検討することによって、「美術」における「台湾」概念とその表象の成立について、制度・概念・言説・作品などの側面から考察した。また、「台湾的」表象を分析する際、「故郷」という観点を導入し、台湾人芸術家らの「台湾人」としてのアイデンティティの問題を考慮した。

 前半では、主に制度史的観点から分析を行った。「台湾美術」という枠組みは、植民地統治下において、「美術」の概念と制度が台湾に移植された過程から形成されたとも言えるからである。特に台展を中心とした日本統治期における台湾画壇では、独自性のある「台湾美術」を創造しようとする「地方色(ローカル・カラー)」の表現は、その最も中心的な概念だった。本論は先行研究とは異なる視点から、植民地美術展覧会における「ローカル・カラー」という問題を考察した。つまり、台展における「ローカル・カラー」の概念は、西洋的近代性を普遍的な価値基準としたときに、それと対照されて現れる独自性(「地方性」)であると、筆者は考える。「地方性」あるいは「地方文化」は、植民地だけに存在したのではない。西洋的近代性を価値基準とするとき、日本自身もその独自性、すなわち日本の「ローカル・カラー」が現れてくるのである。つまり、芸術家たちはまず自分を近代西洋美術の枠の中に置いてから、翻って自らの文化の独自性を表現し得る素材を探さなければならなかった。

 美術における独自性の追求という考え方は、絵画制作の面にまで影響を及ぼした。日本内地からの審査員が、次々と台展や朝鮮美展で「ローカル・カラー」の表現を要求したのは、日本画壇における独自性の追求という傾向に関係があったと考えられる。だが、日本内地からの審査員がこうした「ローカル・カラー」の表現を要求する一方で、台湾在住の日本人審査員は必ずしもこれに同調したわけではない。展覧会における台湾を主題とした作品は、「ローカル・カラー」の方針に応じて生まれたものであると、先行研究ではよく指摘されてきた。けれども、台展審査員や評論家の発言を検討すると、台湾的特色を表現するには、日本と異なる独特な主題を採用するだけでなく、日本の画壇とは異なる画風を作り出すことが重要でもあったことがわかる。つまり、「ローカル・カラー」の問題を考える際、主題だけでなく、その様式をも考慮に入れる必要がある。台湾に移植された西洋画と東洋画というジャンルには、「台湾」を描写する様式や図式(schema)の伝統が乏しかったため、台湾の独特な題材を取り上げても、独自性を示す画風を創造することは決して容易ではなかった。

 また、台展において「ローカル・カラー」を表現するという方針には、新しい郷土芸術を創造せよという要請が含まれていた。台湾を郷土として認識した上で、この土地に根ざす「内台融合」の新しい郷土芸術を生み出そうという展覧会の方針は、統治者側による同化政策の一部であると言えるが、台湾人にとって、台湾の独自性を追求することは、かえって彼らの共同体意識を集結させるものであった。つまり、台湾人による「台湾的」主題の作品には、個人・共同体の心情、アイデンティティとが相互に繋がっており、その中には作者の「故郷」意識が吐露されると同時に、「フォルモサ芸術」を創造しようという意識も見られたのである。

 郷土の風物を題材として取り上げることは、台展に始まったものではなかった。台湾人の芸術家はもっと早い段階で台湾を「故郷」として認識し、「故郷」を創作の題材にした。このような例として、論文の後半では、台湾人芸術家が帝展、台展などの展覧会に出品した作品を取り上げ、「故郷」という観点から、彼らの「台湾人」としてのアイデンティティの問題を考察した。

 第3章では、まず、黄土水が制作した《水牛シリーズ》の作品を取り上げた。植民地の芸術家であった黄土水は、帝展に参加するとき、次の2点が創作活動の重要な目標だった。それは、「台湾」を表現すること、そして台湾を「未開地」と見る日本人の印象を、「美しい島」台湾として変えさせることである。しかし、題材であれ、様式であれ、彫刻によって「台湾」を表現しようとする前例が全くなかったため、黄土水は、日本人が構築した台湾のイメージの中から、先住民や水牛等の題材を探さなければならなかった。その一方で、これらの題材に含まれる未開かつ野蛮なイメージは、彼にアイデンティティの危機感をもたらした。その結果、黄土水は日本人が作った台湾のイメージを受け入れると同時に、自身のアイデンティティを脅かす要素を払拭することによって、自己アイデンティティを再構築し、新しい「故郷」としての台湾像を創造したと言える。

 続いて郭雪湖《南街殷賑》及び陳植棋《真人廟》を例として、「故郷」をどのように絵画化するのかという問題を考察した。台北の大稲埕から取材したこの2点の作品は、台湾人が「近代化」を自分たちの問題とし、自分たちの町を通じてそれを描こうとする姿勢が見られる。そこには、画家それぞれの故郷意識が吐露されていると言えるだろう。この2点は、明らかに台湾の「ローカル・カラー」を表現意識を持っていたため、台展における郷土芸術に関する表現を分析するには格好の例と言えるが、これらを単に展覧会の「ローカル・カラー」表現の方針に従った産物と考えるべきではない。台展当局が設定した方針を超える個人意識と、創作者自身のアイデンティティの葛藤が、そこには認められるのである。

 第4章では、続いて「故郷」という観点から、陳澄波が異なる時期に「故郷」嘉義を描いた作品3点を考察した。東京留学中に描いた作品、《嘉義の町はずれ》(1926年)と《街頭の夏気分》(1927年)、帰郷後に制作した《嘉義公園》(1937年)である。

  陳澄波が東京留学中に描いた作品は、彼が「故郷」を離れ、異郷に生活するなかで訪れた、アイデンティティの危機意識の下に生まれたものとも言える。《嘉義の町はずれ》と《街道の夏気分》という2点の帝展出展作品には、自然と文明とが拮抗する構造から、南国の自然が近代文明に制御される構造へと変化していった過程が読み取れる。陳澄波が帝国の首都で展示したこの2点の作品は、彼の「故郷」意識の形成とも強く関わっていた。彼は、日本人の視線の下に成立した「台湾」のイメージの中から、自身の存在感を脅かす要素(「台湾」=前近代的とする偏見)を払拭することによって、自らのアイデンティティを再構築したのである。

 帰郷後の代表作である《嘉義公園》を創作する際、陳澄波は様々な東アジア絵画の要素を画面に取り入れようとした。このような試みは、彼が1932年頃から、絶えず「東洋人」のアイデンティティを強調し、作品に所謂「東洋的気分」を表現しようとしていたことと関連していると考える。陳澄波の創作における意識とその時代的背景について、「東洋」というキーワードを手がかりに考察するならば、《嘉義公園》は、台湾、日本、東洋、西洋の記号がひとつの画面内で融合されることで、嘉義が理想的な「故郷」の風景として表象されたものだといえる。また、南画的な手法で描かれた《嘉義公園》の鳳凰木は、「南国」の異国情緒を薄め、鑑賞者に樹木の持つ強い生命力と、画家自身の精神や創造力を伝えようとしたものではないだろうか。

 つまり、陳澄波は「故郷」の風景を描くという行為によって、「自己」のイメージとアイデンティティを再構築した。これらの「故郷」の風景は、画家の一種の「自画像」とも言えるであろう。陳澄波が1930年代前半に絶えず「東洋」のアイデンティティを強調したことは、彼がアジア文化の深部から、主体性を求めようとしたことを示しているだろう。さらに、この理想的な「故郷」の風景を通して、文化的な面において主体性を追求する可能性を大衆に伝えようとしたのであると筆者は考える。

 第5章では、様式の観点から、「台湾」という概念がどのように絵画化されたのかという問題を、陳澄波と陳植棋の作品を取り上げて考察した。東京に留学していたふたりは、複製図版を通じてポスト印象派絵画と出会った。ポスト印象派は、東アジアにおける伝播の過程で、絵画様式上の影響を与えただけでなく、芸術が自己の内面を探求する方法として受け入れられ、人々に芸術家としての意識を形成していくことを促した。本章では、近代台湾における芸術家の形成という問題を考察するために、近代日本におけるポスト印象派の受容の歴史と、それが陳澄波と陳植棋における芸術家意識と芸術観の形成にどのように関連したかを考察し、さらに「写実」と「表現」という角度から、陳澄波と陳植棋の絵画様式を分析した。

 ポスト印象派を受容することで「自己表現」が彼らの創作の目標のひとつになったという認識は、故郷台湾の風景を描いた彼らの作品を考察する時、重要であろう。なぜなら、彼らにとって、「主観」と「自己」から出発しなければ、本当の意味での「自己」の台湾風景を作り出すことはできなかったからである。

 

 このように、本論文では、日本帝国が植民地統治の文化政策として台湾に導入した「美術」制度を検討したが、美術制度の移植を、統治者が植民地に対して一方的に「文明化」を施行した結果と見なすのではなく、被統治者としての台湾人が、この美術制度に参与するとき、直面した困難や問題が何だったのかをも考察してきた。近代性の追求と地方色の表現とのはざまの中で、台湾人芸術家のなかに自らのアイデンティティと「台湾」とを繋ぐ「故郷」意識が発生した。しかし、それらの作品には、それぞれ異なる立場や考え方を持つ芸術家による「台湾的」主題の表現の複雑さと、多層的な意味がともに見て取れるであろう。