十年ぶりに訪れたキャンパスの並木を歩く。鮮やかな緑、幹を覆う茶色のグラデーション、木漏れ日の煌き、舗装されたタイルの配色。歩みを進めるにつれて様々な色彩が視界の中を移り変わっていく。輝く緑の美しさに眼を細め、皺の刻まれた樹皮に懐かしさを感じ、擦れ合う葉のざわめきに賑やかだった学生生活を思い出す。何気なく並木を歩む些細な経験においてさえ、幾多の色彩、音、感情、記憶、思考がそこに現れては消え、さまざまな印象が移り変わっていく。

現象学の仕事は、こうした我々の経験をそれが我々に「現」れるがままに忠実に記述することであるとまずは言うことが出来る。経験の中で現れてくる様々な「現象」、その経験を現象学は記述する。では現象学者の仕事とはこうした移り変わる感覚や感情をその現れては消えていくままに時系列的に記録していくことなのだろうか。「緑、黄緑、茶、黒、白、ざわざわ、また緑、美しい、茶、灰、懐かしい」というように。「まず緑が見えました、美しかったです。茶色の皺が見えました。懐かしいと思いました。」という記述をただ並べていくだけであるならば、現象学者はまるで夏休みの絵日記を書く小学生のようなものになるだろう。しかし、現象学者がいう経験の記述とはこのようなものではない。

現れては消える色彩や音は、単に漫然と流れていく「感覚の狂想曲」ではない。これらはただ雑然と散らばって流れていくものではなく、緑は葉の色として、茶は幹の色として、美しさは葉の緑についての経験の一部として、懐かしさは幹の樹皮に刻まれた皺についての経験の一部として、それぞれが何についての経験なのかという仕方でまとまりを成し、組織化されている。もし同じタイミングで同じ感覚や感情が流れていく経験をしたとしても、樹皮の皺を懐かしいと思う経験と、同時に聴こえていた葉のざわめきを懐かしいと思う経験とでは異なる経験をしたと言うべきだろう。我々の経験は、単にばらばらに流れていく感覚や感情の羅列ではなく、それぞれが特定の何かについてのものである。美しさの印象は何かについてそれを美しいと思う評価の中で現れ、緑の感覚は何かについてそれが緑色をしているという知覚の中で現れる。我々の経験がもつ、それぞれが特定の何かについてのものであるというこの性格を(それぞれが何らかの仕方で何らかの対象に向かっているという意味で)「志向性」と呼ぶ。すると、我々の経験の内容、我々がどういうことを考え、想像し、知覚し、思い出し、望み、憎み、予想しているのかというそのつどの経験の内容がどのようなものであるのかを特定するには、その経験が何についてどのような仕方で経験する経験となっているかという、その志向性の構造を分析しなければならないだろう。現象学の課題となる経験の記述とは、何よりもまずこの志向性の構造を明らかにすることであり、単に雑然と流れていくそのつどの個々の印象を記録していくだけの絵日記ではない。

本稿は、この「志向性」に関して現象学の提唱者であるフッサールがとりわけその初期から中期において展開した志向性理論の内実を明らかにしようとするものである。我々の経験が、どのようにしてこの世界に存在する様々な「対象」に関わっているのか、それらについての我々の「認識」というものがいかにして成立しているのか、こうした問題設定は、哲学の歴史において「認識論」の表題の下で語られて来た。しかし同時にフッサールの志向性理論は、「認識論」とはある面で対照的に考えられて来た「存在論」、ないし「形而上学」の圏域においても、ある特有の含意を持つことを後に示すことになるだろう。本稿の課題をより具体的に記しておこう。多くの論者が指摘するように、我々の経験は閉じられたカプセルのような「主観」ないし「意識」の殻の中でただ雑然と流れ去っていくだけの感覚や印象や感情の狂想曲ではない。我々の経験は、何らかの「対象」、あるいは「客観」についての経験であるという仕方で、「志向性」の働きによって組織化・構造化されている。だが、同時に我々の意識において生起する様々な心的作用でもあることも確かであるように思われるこうした我々の経験は、いかにして志向性を持ち、いかにして客観についての経験であると正当に言われることが出来るのか。本稿の課題は、この問いに対してとりわけ初期から中期における志向性理論の展開の中でフッサールが与えた答えを正確に取り出すことにある。その上で、先に予告したように、我々の経験する世界の在り方についてのある意味で「存在論」的と言える事柄をどのように考えるべきかについての興味深い示唆を取り出すことが出来たならば、本稿の目標は達成される。

とはいえ、「志向性」という名称はフッサール研究においてはやはり中心概念のひとつであり、これまでの多くの研究が多かれ少なかれ、また陰に陽に、何らかの形で取り組んで来た問題でもある。だが、過去のフッサール研究の中には、第二章で触れるBellのように、志向性が客観的世界の中の実在の対象に向かうものであり、志向的対象の分析とはまさに対象そのものの分析であるという肝心の点を取り逃しているものもある。

これに対して、Sokolowskiのような論者は、志向性が意識の内部という閉鎖的な領圏の中に閉じ籠もるものではなく、むしろ外的な世界へと初めから本質的に開かれたものであることを適切に強調する(Sokolowski, 1999)。だがこうした論者も多くの場合、志向性がどのようなものでないか、その特長を語るばかりで、いかにしてそのような志向性の構造が成立するのか、志向性の構造がそのようなものであることは対立する諸理論に対していかなる仕方で説得的に論証することが出来るのかについては、必ずしも議論を尽くしているとは言い難い。彼らは、そうしたいくつかの望ましい性格を持つ志向性というものを所与として、それを使って様々な諸現象を分析することの方に重きを置いている。だが、そもそも志向性の構造が成り立っているということはいかなることなのか、そうした構造は我々の経験の中にいかにして成立してくるのか、あるいは、志向性がそうした性格を持ったものとして成り立っていると考えるべき理由を、既にフッサールの教説を受け容れているのでないような人々にいかにして説得的に示してみせることが出来るのか。本稿は、彼らの議論の手前に前提されているこうした基礎的な問いを、もう少ししつこく問い返してみたいのである。

こうした問題を明らかにするために、第一章の序論においてこうした志向性概念の眼目を一般的な形で概略的に描き出し、続く第二章以降でフッサールの志向性理論を主題的に論じていく。まず第二章ではフッサールの「作用」概念と「志向的対象」概念の概観を得る。ここでのポイントは、志向性、とりわけ志向的対象がいかなる意味で我々の経験の記述にとって本質的であるのかを確認すること、そしてその志向性の成立を説明する理論がいかなる困難に直面するのかを見ることにある。続く第三章では主として20 世紀の後半に活躍した分析哲学の重鎮マイケル・ダメットの定式化に基づくフレーゲ的意味論の枠組みを提示し、それを参照軸として『論理学研究』に代表されるフッサールの初期志向性理論の枠組みを再構成する。ここで鍵概念となるのはダメットの提案した意味論的値の概念である。第四章ではフッサールの志向的「対象性」概念の広がりを検討し、それを踏まえて作用の「意味」概念の二義性を確認する。フッサールの「対象」ないし「対象性」の概念は高次対象性である事態や普遍者、抽象体などを含む広い概念であり、とりわけ普遍者と抽象体の区別は作用の「意味」概念の理解にとっても本質的であることが示される。続く第五章では意味概念の二義性を元に作用の時間性格を確認し、第六章ではそこまでに確認された意味概念に対して「対象」概念の超越性を改めて論じる。第七章ではそれまでに確認された初期志向性理論の枠組みを別の角度から俯瞰的に捉え直す。すなわち理論的な観点からはここまでに確認されたフッサールの初期志向性理論がどの程度まで「実在論」的な描像となっているかという視点からその理論構造を検討し、歴史的な観点からは志向性を受容性から捉える伝統との距離という視点から初期志向性理論を志向性の哲学史の中に位置づける。第八章では初期志向性理論の精緻な枠組みになお潜むいくつかの困難の種を指摘し、『イデーン』第一巻に代表されるフッサールの中期志向性理論の形成への動因を探り、それを踏まえて中期志向性理論のとりわけノエマ概念がもつ特質を検討する。終章ではこうした志向性理論を経験の理論として真に受けることによってどのような存在論的含意が汲み取れるかを論じたい。